17。カロリー
朝、地下鉄に乗る。
知人に声をかけられて挨拶をする。
世間話はできない。
ぼくはただ聞いているだけだ。
何も話す気になれない。
学校で、可賀池ノボルに、おまえ、どうしたの、と訊かれる。
「何が?」
「いや、様子が変だから」
「そうかな」
「うん」
「そんなことはないと思う」
「いや、変だろ。ていうか、このごろ変だよね。つーか、痩せた?」
「どうだろう。体重は量っていないから」
「痩せたんじゃね? 頬とか、若干こけたんじゃない?」
「そうかな」
「痩せたって」
可賀池ノボルは自説を曲げようとせず、スマホのメモリーから写真を呼びだして、ぼくに見せる。
いつだったか、仲よしグループの一団でカラオケに行ったときに撮影したものだ。
可賀池ノボルは次々と写真を切り替えてゆく。
ぼくが大写しになっているものを探しているようだ。
なかなか見つからない。
ぼくは必ず仲よしグループの誰かとフレームに収まっていて、たいていその誰かと肩を組んだりふざけあったりしている。
考えてみると、もうしばらく仲よしグループの連中と遊びに行っていない。
どうしてだろう。
他の皆は遊びに行っているのか。
ぼくだけ誘われていないのか。
いや、そもそも、ぼくが所属している仲よしグループは連帯感が薄い。
A男はXというグループに所属しているが、違うYというグループにも所属しており、B子はこのXというグループに所属していながら、部活の仲間とのほうがより親密で、といった具合に、グループXにしか自分の居場所はない、というタイプの人間は少ない。
そういうタイプの人間はたぶん、ほぼ、ぼくだけだ。
よって、放課後、仲よしグループの全員で遊びに行く、といったイベントは、以前からそう多くはなかった。
でも、写真の中のぼくは楽しそうにしている。
きっと楽しかったのだろう。
楽しかった。
「ほら」
可賀池ノボルが一枚の写真をぼくに示してみせる。
ぼくと可賀池ノボルが、なぜか頬を寄せ合って、二人して寄り目になり、唇をタコのように尖らせている。
「これ。見てみろよ。な? 今とだいぶ違うべ?」
「たしかに」
「な? 痩せたって。ちゃんとメシ食ってる? 食わんとダメよ。子孫残せんよ。それが一番大事でしょ。生物として」
「ご飯は食べているよ」
「もっと食べろって。今が一番ご飯がおいしい時期じゃん」
「心がけるよ」
午前中、那智部長からラインで出頭を要請される。
ぼくは部活に出ることにする。
部室に入ると、那智部長はいつものように専用のパーソナルコンピューターに向かって椅子の上であぐらをかいている。
那智部長一人じゃない。
もう一人いる。
ぼくがよく使っているパーソナルコンピューターの隣のパーソナルコンピューターが起動している。
いつか、ひょっとしたら、性的な悪戯をしても気がつかないんじゃないか、などという不届きなことを、那智部長がプログラミングをしている部室の中で言ったことがあり、また、那智部長に恋心を打ち明けて、あえなく玉砕した過去を持つ、片平鉄平だ。
那智部長は集中しているようで、ディスプレイから目を離さないが、片平は回転椅子を回してぼくに顔を向ける。
「よう、ユラキ。久しぶり」
「久しぶり」
「あれ、なんか痩せた? げっそりしてない?」
「そうかな」
「痩せたよ。かなり痩せたんじゃない?」
「そんなことはないと思うけど」
「何だよ。ダイエット?」
「そんなことはしていないよ」
「だよな。必要なさそうだもん。ユラキも那智さんに呼ばれたの?」
「うん。片平も?」
「そうそう」
「そうか」
「二人とも」
那智部長が頭を抱えて髪の毛をぐしゃぐしゃにしながら尖った声を出す。
プログラミングの作業において、何か難しい問題でも抱えているのかもしれない。
「いつまで雑談に興じているつもり? さっさと仕事をしてちょうだい」
ぼくはパーソナルコンピューターを起動して、片平とともに仕事にとりかかる。
ぼくとしては、黙々とチェックリストの項目を潰してゆきたかったのだが、片平は頻繁に手を止めてさかんにしゃべりかけてくる。
「元気?」
「うん」
「元気そうに見えないね」
「そうかな」
「見えない見えない。痩せた?」
「それはさっき訊かれたような気がする」
「訊いた? あれ? 訊いたっけ」
片平はもともと口数の多い男だ。
しかも、その話にはほとんど実がない。
同じことを何回となく言う癖もある。
片平が那智部長に恋心を打ち明けて、にべもなくふられたという話を聞いたとき、ぼくは正直、よくもそんなことができたものだと思った。
那智部長が片平に好意を抱くはずがない。
もし那智部長が片平のような男と交際したら、ぼくは幻滅する。
しかしながら、そんなことは絶対に起こりえないだろう。
那智部長と片平を知っている者なら、百人中九十九人はぼくと意見を同じくするに違いない。
残りの一人が片平だったわけだ。
どうやらぼくは苛ついている。
なんだか奇妙な苛立ちだ。
苛々していることは間違いないのだが、その苛々している自分が、どうも自分ではないような、他の誰かのような、夢の中で自分が苛々していて、ぼくはその自分を見ている、とでもいったような、どうにも不思議な苛つき方なのだ。
「片平は今日、どうしてきたの」
「どうしてって?」
「彼女ができたんじゃないの。それで、部活、しばらくこなかったんだろう」
「あー。あれね」
片平はキーボードから手を離して、頭の後ろで両腕を組み、大きなため息をつく。
「別れた」
「そう」
「別れちゃったよ。マジで傷心だよ。いやあ。きついね。一回彼女できたら、いなくなると、かなりきついわ」
「そういうものかな」
「あれ? そういえば、ユラキもあれじゃない? モモとつきあってたんじゃないの?」
心臓が痛む。
ぼくは答える前に那智部長の様子をうかがう。
那智部長は膝を立てて無心にキーボードを叩いている。
たぶん、聞こえていない。
聞いていないはずだ。
「付き合っていないよ」
「うそー。それらしいこと聞いたけど。ホールでわーわーやってたとか。一緒に歩いてるとこ見たとか」
「付き合っていない」
「あ。じゃあ、やっただけ? モモだし」
こんな男に那智部長が好意を抱くはずがないじゃないか。
少し考えればわかりそうなものだ。
ぼくは無視する。
「あれ? ユラキ? もしかして、怒った? 俺、なんか変なこと言った?」
片平はしつこい。
悪気はないのだろう。
ただひたすら軽率なのだ。
「なあユラキ、なあって。怒ってる? 謝るからさ。許して。な? 悪かったって。何が悪かったのか、よくわかんないけど。わかんないのに謝ってるくらいだからさ。本気で謝ってるってことだと思うんだよね。そう思わない? なあ?」
ぼくは目をつぶって、右手の人差し指と親指で目頭を揉む。
片平は舌打ちをする。
「わかったよ。もういいよ。人が謝ってるのに、そういう態度かよ。わかった。わかりました。もう謝らないからな。さっきのもなし。悪かったとか。俺は悪くない」
「そうだね」
ぼくの負けだ。
というよりも、放っておくとかえってうざい。
「きみはべつに悪くないよ」
「あ、やっぱり? 悪くないよな、俺? でもさ、謝るわ。やっぱり。悪かったよ。いろいろあるよな。人間。誰にでも。なあ? 俺もあったし。彼女と別れちゃってさあ。まいったよ。マジで傷心だよ。いやあ。きついね。一回彼女できたら、いなくなると――」
「うるさい!」
キレたのは、ぼくじゃなくて、那智部長だった。
那智部長は頭を抱えて何度も床を蹴りつけながら声を張り上げる。
「うるさい! うるさい! うるさい! うるさい! うるさい! うるさい! 黙って仕事ができないの!? どれだけ低能なのよ! 一度脳ドックを受けてきなさい! 絶対、欠陥が見つかるから! 開頭手術を受けて破滅的な欠陥だらけの脳をとりだしてもらってホルマリン漬けにしてもらって保管しておいてもらえばいいのよ! きっと五十年くらいあとにあなたがたの脳の欠陥を改善するための方法が開発されて、だからといってとっくに手遅れでどうにもならないから!」
片平は震え上がっている。
ぼくは仕事を再開する。
那智部長もそのうち落ちついてキーボードを叩きだすだろう。
やがて片平は腹痛を訴えて部室をあとにする。
仮病というわけでもないだろう。
片平は胃腸が弱くて、精神を痛めつけられるとよく腹を下す。
ぼくはチェックリストを潰し終え、その旨を那智部長に報告して下校する。
地下鉄に乗っていると、いつの間にか隣にぷりるんがいる。
ぷりるんはずっとぼくの顔を見ていたらしい。
「何? 何かついている?」
ぷりるんは首をぷるぷる横に振って、下を向く。
否定したが、何かついている、と言いたそうだ。
いや、ついているわけじゃないか。
可賀池ノボルや片平鉄平が言っていたとおり、ぼくはたぶん、痩せたのだ。
それほど食が細くなったという自覚はないのだが、このごろ食べ物の味をあまり感じない。
ただ、食べないといけないから、朝食は食パン一枚と牛乳一杯、昼食は購買部で菓子パン、だいたいクリームパンを一個買って、それですませ、夕食はコンビニエンスストアで買ったおにぎりかサンドイッチを食べている。
カロリー的にはどうなのだろう。
足りているのか、いないのか。
よくわからない。
正直、どうでもいい。
「……ぷりるん」
「答えようがない」
「ぷりるん」
「答えられないよ」
「ぷり、るん」
「何度言ったらわかるんだ」
「……ぷりるん」
「もしかして、謝ったのか。謝ることはないよ。でも、わからないんだ。本当に、わからない。ぼくがきみに言いたいことは、それだけなんだ」
ぼくは隣に目をやって、ぷりるんを見る。
ぷりるんは唇や頬、目許を引きつらせながら、なんとか微笑、と言えないこともないような表情を浮かべてみせる。
ぼくはしばらくの間、その顔を見つめている。
いつまでぷりるんは微笑みつづけていられるだろう。
でも、ぼくは先に目をそらしてしまう。
無人の家に帰ってから、すぐに外出して、牛丼の特盛りに半熟卵をのせて、たっぷりの紅生姜を添え、七味唐辛子をいっぱいかけたものを平らげる。
それから、コンビニエンスストアに立ち寄って、チョコレートバーを三本買い求め、歩きながら食べてしまう。
こんなことを何日かつづければ、痩せた、とか、こけた、とか言われずにすむようになるだろう。
ぷりるんが無理やり微笑みつづけることもなくなるだろう。
ぼくはいつもどおりに過ごすべきだ。
そうすれば、何も起こらない。
いつもどおりに。
いつもどおりとは何だろう。
どうすれば、いつもどおり、ということになるのだろう。
桃川の報告を聞いている最中、ぼくは激しい吐き気に襲われる。
だいぶ我慢したのだが、ついに耐えきれなくなって、桃川に嘔吐を催していることを説明して謝罪し、通話を終了させる。
ぼくはトイレに駆けこんで吐く。
牛丼の特盛りやチョコレートバーは、その大半が脂肪としてぼくの身体に蓄えられる前に吐きだされてしまう。
ぼくはまた外出して何か食べることを考えるが、同じことを繰り返してしまいそうな気がして、断念する。
その夜は姉も帰ってこない。




