15。いえない
どうしよう。
うずみが無断外泊をした。
それでも、というべきか、それなのに、というべきか、ぼくは登校する。
当然、学校にいても気が気でない。
早めにさっさと帰宅する。
もちろん、うずみには何度もラインをしているし、電話もかけているのだが、返信はなく、電話にも出てくれない。
姉はアルバイトのようだ。
誰もいない、というか、ぼくしかいない家で、ぼくはうずみの帰りを待つ。
というよりも、帰ってきてくれることを願っている。
今日も帰ってこなかったら、何かの事件に巻きこまれたとか、あるいは家出したとか、そういった可能性を考慮しなければならなくなるだろう。
そんなことは考えたくもない。
いやだ。
冗談じゃない。
絶対に、いやだ。
とりあえず、帰ってきてくれさえすればいい。
それ以外、それ以上のことは何も望まない。
妹よ、お願いだから、帰ってきてください。
兄からの、たった一つのお願いです。
血は繋がっていないし、このごろは自殺念慮に襲われて、なんだか心が折れそうになっている気もしなくはないし、いや、そんなことはどうでもいいか、振り返れば、兄らしいことをどれだけしてこられたか、まったくしてこなかったとは思わないけれども、理想的な兄、というものがあるとしたら、きっとそれには及びもつかないだろう、そんなぼくではあるのだが、それでもぼくは一応、あなたの兄なのだ。
兄として、願う。
どうか、どうか、帰ってきてください。
玄関のドアを解錠する音がする。
ぼくはリビングから飛びだす。
玄関のドアが開く。
うずみだ。
帰ってきた。
うずみはちらりとぼくを見てから、靴を脱ぐ。
「ただいま」
「おかえり」
何日ぶりだろう。
わからない。
ずいぶん久しぶりのような気がする。
かなりしばらくぶりの、それが兄妹の会話だった。
いや、会話と呼べるようなものじゃない。
単なる挨拶だ。
うずみは洗面所で手洗い、うがいをして、自分の部屋へと向かう。
ぼくはリビングのドアのところに立ちつくしている。
もしかしたら、うずみはもう部屋から出てこないんじゃないか。
部屋の窓から抜けだしていたりして。
無理か。
わりと高層マンションなのだ。
そんなはずがない、と首を横に振っていると、制服から私服に着替えたうずみが部屋から出てくる。
ぼくはリビングに引き返して、ソファーに腰を下ろす。
うずみもリビングに入ってくる。
「昨日はなぜ帰ってこなかったんだ」
ぼくは自分で言っておいて驚いている。
やたらと高圧的な声音だったからだ。
言葉遣いもなんだか乱暴だった。
うずみはキッチンで水を飲んでいる。
コップをゆすぎ、ため息をつく。
「関係ないでしょう」
「関係ないことはない」
これでもぼくは、できるだけソフトなトーンで話そうと心がけている。
ところが、ぜんぜんできていない。
どうしてだ。
「きみがどう思っているかは知らないけど、ぼくはきみの兄だ。うちには親がいない。いや、いないわけじゃないけど、ほとんどいないに等しい。ぼくはきみの兄だし、きみが中学生にふさわしくない行動をとろうというのなら、それを掣肘しないといけない」
「じゃあ、あなたは高校生らしい行動をとってるの?」
「あなたとは何だ」
「どう呼べばいいの? おにいちゃん? なんか、変」
「ずっとそう呼んでいたじゃないか」
「おねえちゃんとキスするような人だとは思ってなかったから」
「したくてしたわけじゃない」
「でも、拒否しなかった」
「ぼくは混乱していたんだ。知らなかったんだ。何も知らなかった。ぼくだけが知らなかった。ぼくだけ蚊帳の外だったんだ。おかしいじゃないか。ぼくのことなのに。ぼくだけ知らされていなかったなんて、それこそ、なんか、変、だ」
大声を出しているわけでは決してない。
声量は普通だ。
口調も淡々としている。
ぼくの気持ちを、ぼく以外の何者かが冷静に解説しているかのようだ。
そのように感じられるということは、それがぼくの真情だということなのだろう。
「何のつもりだったんだ。きみは知っていたんだろう。ぼくと血がつながっていないことを。それなのに、知らないふりをしていたんだろう。つまり、ぼくは欺かれていたんだ。ぼくはまったくそのことに気づかなかった。ぼくにそのことを気づかせない、名演技だった。きみは役者になれるかもしれないね。その才能があるんじゃないかと思うよ。ぼくは恥ずかしいんだ。何も知らずに、兄のように振る舞っていた自分が恥ずかしい。あのとき、きみは知っていたんだと思うと、名状しがたい気持ちになるんだ。ぼくは理由が知りたい。きみはどうして黙っていたんだ」
「きみ、きみ、きみって言わないでよ!」
うずみが両耳をふさいで声を荒らげる。
ぼくは短く息をついてうなずく。
「すまない。うずみ。知っていたなら、どうして言ってくれなかったんだ」
「言えるわけないでしょ! いつ、どうやって言えばいいか、そんなの、うずみが決められることじゃないもの!」
「たしかに、それはそうかもしれない」
「言えないよ! 言ったら、何かがおかしくなっちゃうかもしれないし! 変わっちゃうかもしれないし! 実際、こんなふうになってるじゃない!」
ぼくは弁解するべきなのだろうか。
こんなふうになってしまっているのは、そのことだけが原因じゃない。
むしろ、そのことは副次的な要因にすぎない。
言えない。
言えるはずがない。
うずみに、仮にも妹に、言えるようなことじゃない。
うずみはゆすいだコップにもう一度、半分くらい水をついで、少しだけ飲む。
「……言えないよ」
「そうだね」
ぼくは同意する。
知っていたなら、教えてくれ。
そんなことをうずみに言うのは、やはり間違っている。
「八つ当たりだった。この件に関しては、ぼくが悪い。ごめん」
「言えるわけ、ない」
「そうだよね」
「だって……」
うずみはコップに入っている残りの水を飲み干す。
そうして、こちらを見る。
「おにいちゃんが、好きだったんだもの」
うずみはなぜ泣きそうな顔をしているのだろう。
ぼくにはよくわからない。
うずみが言ったことを、どう解釈すればいいのだろう。
「最初は、おにいちゃんとして、好きだった。おかしいことじゃないと思ってた。でも、なんだか違うような気がして。他の男の子のこととか、好きになったこと、なかったし。一番はいつもおにいちゃんで。二番なんか、なくて。おねえちゃんが嫌いだった。いっつもおにいちゃんを独り占めして。おにいちゃんに、変なことして。おねえちゃんがいなくなって、せいせいした。おにいちゃんが、好きで。好きで、好きで、しょうがなくて。変でしょ、そんなの。変だと思ったの。訊いてみたの。お母さんに。半分冗談のつもりで。おにいちゃんって、本当にあたしのおにいちゃんなのって。お母さん、こう答えたの。『そうよ、血は繋がっていないけどね』。それで、わかったの。うずみは、おにいちゃんのことが、ほんとに好きだったの。初恋の相手で、それからもずっと好きだったの。ほんとはね。言いたかったよ。おにいちゃんは、おにいちゃんじゃないんだよって。それで、うずみはおにいちゃんのことが好きなんだよって。でも、言えなかったよ。言えるわけないよ。言ったら、何かがおかしくなっちゃうかもしれないでしょ。変わっちゃうかもしれないでしょ。おにいちゃんの妹でいられなくなるでしょ。怖かったの。うずみは、怖くて言えなかったの。言ったら、壊れるって思ったの。おにいちゃんがそのことを知ったら、壊れちゃうんじゃないかって。ほら。やっぱりそうだったよ。おねえちゃんとキスなんかして。おにいちゃん、変になっちゃったでしょ。女の人とえっちなことばっかりしてたんでしょ。こんなふうになるのが、うずみは怖かったの」
うずみは途中から涙を流している。
肩を震わせてしゃくりあげながら話している。
ぼくはただ見ていることしかできない。
聞いていることしかできない。
うずみはまたコップに水を入れて、嗚咽を漏らしながら、ほんのちょっとだけ飲む。
「でも、もういいの」
ふふっ。
自虐的な笑い声だ。
ぼくにはそう聞こえる。
「好きな人、できたし。おにいちゃんのことは、もう好きじゃないし。その人のことが、好きだし。泊まったの。その人と。ラブホテルに泊まったの。だから、帰ってこなかったの。うずみはね。すっごく、好きなんだ。その人のこと。だから、うずみ、結婚するよ。結婚できる年になったら、すぐ結婚する。それくらい、その人のことが好きなんだもの。おにいちゃんのことなんか、もう好きじゃないから」
うずみはまだ中学三年生だ。
もし妹でなくても、こうしようと思うのだがどうだろうか、と問われたら、そんなことはおすすめできないと、ぼくは助言するだろう。
結婚とか、どうとか、そういうことを考える年齢じゃない。
しかし、中学三年生だからこそ、先走ってそのようなことを考えてしまうのかもしれない。
とはいえもちろん、賛成なんかできるはずもない。
好きにするがいい、と突き放すこともできない。
ぼくはうずみの兄なのだ。
でも、血が繋がっていないのだ。
うずみはぼくを好きだったらしいのだ。
まったく知らなかった。
そんなことは想像したこともなかった。
というか、待て。
待ってくれ。
泊まった?
ラブホテルに?
宿泊した?
中学三年生の妹が?
それはまずい。
非常にまずい。
それは、何というか、まだ早い。
早すぎる。
早熟化が叫ばれて久しいわけだし、そうでもないのか?
いや。
いやいやいや。
そんなことはないはずだ。
妹なのだ。
ぼくの妹に限って。
うずみに限って、そんなことは。
馬鹿な。
誰か、どこの馬の骨とも知らないやつと、そのような行為に及んだとでも?
昨夜、やった、とでも?
もしかして、初めてだったのか。
そういう問題だろうか。
わからない。
自分が何を考えているのか、わからない。
うずみがリビングから出てゆく。
ぼくにはわからない。
いよいよ、わからない。




