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ぷりるん。  作者: 十文字青
2章 だんだん

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14/30

14。にちじょう

 ぼくはスキップしそうな勢いで部室へと向かう。

 半ばスキップしている。

 ほとんどスキップしてしまっている。


 今日は桃川と遊びに行かなくていい。

 ウインドウショッピングをしなくていい。

 カラオケに行かなくていい。

 ハンバーグの店に行かなくていい。

 性行為に及んで、そのあと衆人環視の中で全身の体毛をむしられるような、それに匹敵する、いや、それ以上の羞恥心、屈辱感に苦しめられなくていいのだ。


 三十年間くらい暗闇の牢獄にとらえられていて、そこからようやく解き放たれた。

 大袈裟に言えば、今のぼくはそんな気分だ。


 桃川のことは嫌いじゃない。

 ぼくは桃川みうという人が嫌いなのではなかった。


 このごろは、異常とも思える桃川の行動パターンに、ある種の憐れみのようなものを感じはじめてもいる。


 桃川は子供時代に見たテレビ番組とか、読んだ本とか、幼稚園や小学校低学年くらいのときに出会った人びとの話ばかりする。

 同じ話を、何度も、何度もする。

 しかし、桃川の話には家族が出てこない。

 家族の話は一切しない。

 ぼくにはよくわからないが、家庭生活において何らかの問題を抱えているのかもしれない。


 どうも桃川には、依存症の傾向があるようにも思われる。

 性依存症といえるかどうかは微妙なところかもしれないが、人間関係には間違いなく依存している。


 桃川はぼくを束縛する。

 自分に従わせようとする。

 従わないと我慢ならない。

 ぼくの考えでは、桃川はぼくを好きなんじゃない。


 ぼくは桃川のことが気になっていた。

 ぼんやりとした恋心を抱いていた。

 桃川はそのことを察知した。

 たぶん、桃川にとってはそれが大事なのだろう。

 自分のことを好いてくれる相手が、桃川は好きなのだ。


 おそらくだが、桃川は人に愛されたいのだ。

 愛していることを示してもらいたいのだ。

 自分は愛されていると実感したいのだ。

 桃川はそれをぼくに要求しているのだ。

 ぼくは桃川のことを好きなのだから、そうして当然なのだ。

 そうしなければならない。

 そうしなければおかしい。

 それがきっと、桃川の考えなのだ。


 そういうのを我が儘という。


 桃川はたしかに我が儘だ。

 それにしても、度が過ぎている。

 あの叫び方はおかしい。

 人目も気にせず、あんなふうに叫ぶのは変だ。


 けれども、そうしなければならないくらい、桃川にとっては切実なのだろう。

 そうせざるをえないのだろう。

 桃川はやめられないのだろう。

 自分を止められないのだろう。

 そういうのを依存症という。


 桃川は依存症なのではないかと、ぼくは思っている。

 だとしたら、そうなった原因というものがあるはずだ。

 桃川をそうさせた出来事なり何なりがあるのだろう。

 それは、少なくとも桃川にとって過酷だったのだろう。


 たとえば、余人がぼくと姉との関係、トラウマになった事件について知ったとき、もしかすると中には、それは大変淫靡な体験である、できうるなら、自分もそのような目に遭ってみたい、などと思う人もいるかもしれない。

 だけれど、ぼくにとっては、とても、とても、本当にとてもつらい経験だったのだ。


 桃川も何かそういう目に遭ったのかもしれない。

 だから、ぼくは桃川に憐れみを感じているのだ。


 そうはいっても、付き合いきれない。

 もう付き合いたくない。

 ぼくは心底からそう思っている。


 それゆえに、部室へと向かうぼくの足どりは軽い。

 部室に入って、パーソナルコンピューターに向かっている那智部長の横顔を見た瞬間、ぼくの胸はときめく。

 那智部長は靴を脱ぎ、椅子の上であぐらをかいていて、あの美しい脚が見えすぎている。

 食い入るように那智部長のおみあしを眺めぼくは、肉欲さえも催している。

 そのことを自覚して、ぼくはとても悔いるが、同時にこれは健全だろうとも思う。


 ぼくは那智部長に憧れていた。

 かつては好意を抱いていたのだ。

 今だって、そういう気持ちがこれっぽっちもないとは言えない。


 だとするなら、那智部長と部室で二人きりになり、那智部長のおみあしを見せつけられ、そういった気持ちになるのは、それほど異常なことじゃない。

 むしろ当然で、自然だろう。


 部活動は楽しい。

 テストプレイは苦行でも、那智部長と二人でいることができて、たまに会話を交わし、ジュースをおごってもらい、明らかに楽しさが上回っている。

 楽しいことしかない。


 部活が終わると、ぼくは教室には寄らないでまっすぐ帰宅することにする。

 上履きを外履きに履きかえていたら、背中をつつかれる。

 ぷりるんの仕業だった。


 ぼくはぷりるんと二人だけの一列縦隊を形成して地下鉄の駅を目指す。

「ぷりるん」

「うん」

「ぷりるん?」

「いや、そうでもないよ」

「ぷりるん!」

「そうそう」

「ぷりるん……?」

「それもそうだね」


 もちろん、ぼくは超能力者じゃないから、ぷりるん語を解読することなんてできるはずもない。

 ただなんとなく話をしているようなふりをしてみただけだ。

 ぼくがこんなことを試みたのはこれが初めてだった。

 それくらい浮き立っていたぼくは、スマホが鳴って叩き落とされる。


 もうすぐ地下鉄の駅なのに。

 場所は関係ないか。

 関係ないのか。


 桃川だ。

 音声通話を要求している。


 今後のことを考えると、この着信を無視するのはリスクが大きい。

 出るしかない。

「はい」

『もしもしー』

「……もしもし」

『あたし、これから、ね』

「うん」

『砂竹くんと、遊びに行くのー』

「あ――」


 ちょっと待て。


 何?

 何だって?

 砂竹くん?

 遊びに行く?

 それは、どういう?

 どうもこうも。


 そういうことか。

 桃川が遊びに行く、と言っている。

 つまり、そういうことだ。


 でも、なんで?

 わからない。

 知るか。

「そう」

 勝手にしてくれ。

「それはよかった」


『遊びに、行くよ?』

「うん」

『あたし、遊びに行っちゃうんだよ?』

「わかったよ」

『そうなんだー。そういう態度なんだね?』

 通話が切れる。


 ぼくはしばらくの間、立ちつくしていたのかもしれない。

 背中をつつかれる。

「……ぷりるん?」

「なんでもない」


 ぼくは地下鉄に乗る。

 ぷりるんは第二エントランスの前までついてくる。

 ぼくは手を振らない。


 家に帰ると、姉がピザを注文して夕食をとる。

 うずみは口をきいてくれない。

 シャワーを浴びて寝る。

 寝ようとする。

 眠れない。


 どうしてぼくはこんなに苛立っているのだろう。

 何に腹を立てているのだろう。

 なぜ砂竹の顔がちらつくのだろう。

 もしや本当に今ごろ桃川と砂竹が性行為に及んでいるんじゃないかと考えたりしているのだろう。


 いいだろ?

 やればいい。

 勝手にやってくれ。

 何でもかんでもやればいい。

 砂竹とはそういう関係のはずだ。

 今さらじゃないか。

 そうだ。


 砂竹だけじゃない。

 他の男とも、桃川はさんざん性行為に及んできた。

 ぼくはよく知らないが、そうに決まっている。

 ぼくはその中の一人だ。

 それだけのことだ。


 何がいけないのか。

 憐れみなんて感じてしまったのがよくないのか。

 一週間連続で性行為に及ぶという淫らな生活を送ったのがいけなかったのか。


 一週間。

 あの一週間。

 桃川はぼくだけに抱かれていた。

 ぼくは何度も桃川を抱いた。

 情が移ったということなのか。


 ぼくがふれた桃川の肌に、他の誰かが、砂竹がふれる。

 ぼくが唇をよせた桃川のあの場所に、他の誰かが、砂竹が、唇をよせる。

 ぼくの舌と絡まった桃川の舌を、他の誰かの、砂竹の舌が絡めとる。

 この想像は現在進行形の事実かもしれない。


 ぼくは叫びたくなる。

 まるで桃川のように、叫びたくなる。

 どうにもならないことを、どうにかしたい。

 もう叫ぶしかない。

 叫んでどうにかなるのなら、いくらでも叫ぶ。


 ああ。

 そうか。

 これだ。

 この気持ちだ。


 ぼくは理解した。

 理解できたような気がする。


 桃川が叫ぶ。

 ぼくも今、叫びたい。

 叫んでどうにかなるのなら、ぼくだって叫ぶ。

 たぶん、どうにもならないから、ぼくは叫ばない。

 それだけだ。

 違いはそれだけなのだ。

 桃川は叫ぶことによってどうにかなるから、叫ぶのだ。


 叫びだしたい気持ちを抱えたまま、ぼくは一睡もできずに翌朝を迎える。

 ぼくは学校で桃川に言い放つ。

 今日は遊びには行かない、と。

「わかった。じゃ、明日ね?」

 桃川は同じことを言う。

 桃川らしく、まったく同じことを、同じ言い方で。


 ぼくはまっすぐ家に帰る。

 自分の部屋にこもって、桃川からの着信を待つ。

 案の定、桃川が音声通話を求めてくる。

『あたしね、これからね、水津くんと、遊びに行くのー』

「本当に?」

『ほんとだよー』

「へえ」

『ここに、いるよ。そこに。いるもん。水津くん。ね、ね、水津くん、ちょっと』

 桃川の声が遠くなる。

『はい?』

 別の、男の声がする。

『もしもし? 誰?』


 ぼくは返事をしない。

 水津くんとやらは、桃川にスマホを返したようだ。

『もしもしー』

「もしもし」

『遊びに、行くね?』

「いってらっしゃい」

『意味わかんない』

 通話が切れる。

 ぼくは呟く。

「意味わかんなく、ないよ」


 これはたぶん、同じだ。

 叫ぶのと同じだ。


 桃川は他の男と性行為に及ぶことをほのめかし、たぶん実際にそうして、ぼくを揺さぶり、ぼくをどうにかしようとしている。

 それと同時に、他の男に愛されることで、何かを、桃川を襲い、ずたずたに引き裂いてしまう何かを遠ざけようとしているのだろう。

 桃川は桃川で、必死なのだろう。


 できることなら、ぼくは桃川を救ってあげたい。

 救う、なんていう表現は大袈裟かもしれない。

 おこがましいかもしれない。

 でも、あえて、救ってあげたい、と思う。


 できることなら。

 できない。

 無理だ。


 あんなふうに毎日同じことを繰り返して、性行為に及んで、たまに拒否したら、桃川は他の男とそのようなことをして、しかもそのことを教えられて、これからもそんな日々を送るなんて、ぼくには不可能だ。


 まず、ぼくの家は裕福だし、もはや学生じゃない姉は別として、ぼくとうずみは両親から十分な、いや、たぶん十分以上の生活資金を与えられているが、毎日カラオケに行ったり外食をしたりその手の宿泊施設を利用したりしていたら、ぼくの口座の残高は遅かれ早かれゼロになってしまう。


 それに、ぼくはもう桃川を抱けない。

 抱けない?

 そうだろうか?

 たとえば明日、桃川とそういう場所に行って、いざ裸体の桃川を目の前にし、桃川に愛撫されたら、ぼくはなやっぱり反応して、やることをやってしまうかもしれない。


 けれどもぼくは、もう桃川を抱けない、と思う。

 抱きたくない、と思う。


 ひどい言い方かもしれないが、反吐が出る。

 気持ち悪い。


 ぼくはちょっと痛い目に遭ったほうがいい。

 可賀池ノボルはそう言っていた。

 そういうことも必要だと。

 経験しておいたほうがいいと。


 さすがにそんなことはないだろうが、もし、こうなることをすべて見越した上で可賀池ノボルがあんなふうに言ったのだとしたら、ぼくは彼を心底、軽蔑する。


 騙されていたとか、裏切られたとか、それ以前の問題だ。

 他人をこんなおぞましい罠に嵌める人間を、ぼくは認めることができない。

 ぼくに認められたくなんかないかもしれないが、もう無理だ。


 嫌いだ。

 ぼくは可賀池ノボルが嫌いだ。



 嫌いな人間と仲よしグループの一員同士のように振る舞うことに嫌悪感を抱きながらも、ぼくはそれをやめようとはしない。


 桃川からは毎日連絡がある。

 たまには、誰かと遊びに行く前に。

 遊び終えたあとには、必ず。

 桃川はぼくに詳細な報告を行う。


 ぼくは最初、途中で通話を終了させたが、すぐにかかってきた。

 スマホの電源を切ると、家の固定電話にまでかかってくる。

 電話線を抜くことも考えたが、ぼくは何もかもが面倒くさくなり、ただ黙って桃川の報告を最後まで聞くことにする。


 自分自身、腑に落ちないが、こんなことになっても、桃川と他の男がさまざまな行為に及んでいることに対して、ぼくはときおり猛烈な嫉妬を感じる。

 もうやめてくれ、と言いそうになることもある。

 涙ぐむこともある。

 その気配を察すると、桃川はよりいっそう説明を精密化させる。

 なまめかしい声を出して、ぼくの情欲をあおろうとしたりもする。


 ぼくは歯を食いしばって、地蔵か何かにでもなった気持ちで、桃川が飽きるまで付き合う。


 きっと、桃川はすぐにぼくのことなんかどうでもよくなるだろう。

 ぼくの予想は見事に外れて、桃川は恐ろしく粘り強い。

 あるいは、執念深い。


 ただ、二週間も経つと、桃川の報告はほぼ一時間で終わるようになる。

 唐突に、子供のころの話を始めたりもする。


 何にしても、ぼくは黙って聞いている。

 桃川の報告はすでに、ぼくの日常に組みこまれている。


 ふとしたときに、死にたい、と思うようになる。

 自殺念慮というやつだろうか。

 だとしたら、セロトニンやノルアドレナリンが不足しているのかもしれない。


 ぼくは、表面的には平穏無事な毎日を送っている。

 姉はかなり訝っているみたいだが、金銭をえるために、最近、アルバイトを始めて、しかもいくつも掛け持ちしているらしいので、ぼくにかかずらっている暇はないようだ。

 うずみとは口をきいていない。


 学校と、桃川の報告以外の時間、ぼくは黙々と勉強する。

 姉のように留学しようか、という考えが、このごろ、ぼくの頭をよくかすめる。

 今度、姉に相談してみようか。

 それとも、両親に話してみるべきか。


 次に両親と会っら、そのたときは例の事実を知ってしまったことを打ち明けないといけないだろう。

 億劫だが、あの人たちのことだ。

 きっと、時機を見計らっていたというより、自分たちのことが忙しくて、話す暇がなかったのだろう。

 もしくは、そんなことはどうでもいいか、なるようになるだろう、と考えているのかもしれない。


 だとしたら、たしかになるようになったわけだから、その考えは間違っていなかった、ということになる。

 間違ってはいなかったのかもしれないが、正しかったのかどうか。

 もっと早く、適切な方法でその事実を教えてくれていたら、こんなことにはならなかったのだ。


 血が繋がっていないとはいえ、うずみはぼくの妹なのだ。

 妹とこんな関係になっているのはまずい、と思う。

 お互いにとって、よくない。

 同じ屋根の下に住んでいるのに、目を合わせない、しゃべらない、挨拶すらしない、というのは、そうとう気まずい。


 ぼくとしては、どうにか改善したいところではある。

 手前勝手な話だが、ぼくだって家の中ではくつろぎたい。

 くつろげるような空気が、たぶん今のぼくには必要だ。


 ぼくなりに、努力してはいる。

 正確には、努力しようとした。

 何度か勇気をふりしぼってうずみに声をかけようとしたのだが、すっと逃げられてしまい、果たせなかったのだ。


 そしてある日、うずみは帰ってこない。

 中学三年生の妹が、無断で外泊した。

 これは事件だ。

 大事件だ。

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