13。デジャブ
細かいことまでは覚えていないということもないのだが、できるだけ思いだしたくない。
たとえば、性的欲求が満たされないときなどに思いだしてしまったら、ぼくは耐えがたい劣情を催すだろう。
桃川は、淫靡だった。
淫猥ですらあった。
この記憶を自分の中から切り離してしまいたい。
ぼくは桃川にありとあらゆることをされた。
さまざまなことを強要された。
そしてぼくは、唯々諾々と従った。
情けない。
ぼくの脳みそは崩壊していたのかもしれない。
考える力、判断力というものが、あのときのぼくに少しでもあったとは思えない。
ぼくは桃川に逆らえなかった。
あらがおうとさえ、ほとんどしなかったように思う。
その事実がぼくを深く深く傷つけている。
ぼくは獣だったのだ。
獣に堕した。
やむをえなかったとはいえ、快楽の虜に成り果てた。
やむをえなかったからだ。
あくまでもぼくは、仕方なくそうした。
そのはずなのに、ぼくは快感を味わっていた。
あんな心境だったから、あるいは不感症でいられるんじゃないかと期待したのに、そんなことはなかった。
ぼくは桃川に、何よりぼく自身の獣の欲望に、たやすく屈してしまったのだ
「気持ちいい?」
桃川に耳許でそう囁かれると、ぼくはうなずいた。
強がりも言えなかった。
あまつさえ、うなずいたことで、その羞恥心によって、ぼくはよりいっそうの快楽をえた。
白状しないといけないが、ぼくはそうなることを予期していて、うなずいたのだ。
ぼくは快楽を貪っていた。
別れ際、桃川は言った。
「また明日ね」
と。
明日。
また明日、桃川と顔をあわせないといけないのか。
ぼくは死体になったような気分で地下鉄に乗る。
しばらくしてからだ。
吊革につかまって、ずっと車窓を見つめていたのに、その姿はなぜか目に入っていなかったらしい。
隣に同級生がいる。
女子生徒だ。
ぷりるんだった。
どうしてこんなところに。
ぷりるんは右手で吊革につかまり、左手で鞄を抱いてうつむいている。
車窓も、ぼくのほうも、見ようとしない。
ぼくは声をかけようとする。
なんで、ぼくが。
結局、ぼくは黙って質の悪い鏡みたいな車窓を眺めている。
一度乗り換えて、ぼくの住むマンションと地下通路で直結している駅で降りる。
同じ駅で降りたぷりるんは、依然として何も言わない。
下を向いたまま、ぼくのあとをついてくる。
ぼくも無言だ。
もうすぐ第二エントランスだ。
自動ドアが開く。
「ぷり……るん」
ぼくは足を止めて振り向く。
ぷりるんがやっと顔を上げる。
ぼくの目を見て、ぎゅっと唇を引き結ぶ。
それから、上半分をぶった切った半円のような形に口を開け、目を細める。
だが、すぐ真顔になる。
おそらくだが、さすがにこの顔はない、と思ったのだろう。
たしかに、あれはない。
あれでは笑っているようにはとうてい見えない。
ぷりるんは唇や頬、目許を引きつらせながら、なんとか微笑、と言えないこともないような表情を浮かべてみせる。
「ぷりるん!」
超能力者じゃないんだ。
ぷりるんが何を言おうとしているのか、ぼくにはわからない。
だから、しゃべってくれよ。
話してくれ。
無理か。
何度も、何回も言ったのだ。
それでも、しゃべらないんだから。
どうしても、しゃべろうとしないんだから。
よくわからないが、何か理由が、やつなりの、たぶん、やつ以外にはさっぱり理解できないような特別な事情が、きっとあるのだろう。
そのへんを酌んでくれ、とは、どうか思わないで欲しい。
それこそ無理だ。
ぼくにはできない。
そんな期待には添えない。
理不尽だ。
どだい、理不尽なやつなんだ。
ぼくは軽くうなずいて、ぷりるんに背を向ける。
エレベーターに乗る前にもう一度、振り返ると、ぷりるんはまだ自動ドアの向こうに立って、こちらを見ている。
ぷりるんが手を振る。
ぼくは手を振り返さない。
そのままエレベーターに乗りこむ。
帰宅すると、なぜか入ってすぐの廊下に姉が座っている。
偶然かもしれないが、リビングのドアが開いて、うずみが顔を出す。
気まずい空気が流れる。
もっとも、姉だけはその空気を物ともしていないようだ。
「あんた、女とやった?」
「……え?」
「いや、なんとなく」
「え? え……?」
「女とやってきたんじゃないの?」
「え……? え? ど、どうして……?」
リビングのドアが勢いよく閉まる。
もしかしたら、リビングから出ようとしていたのかもしれないうずみは、リビングに引き返してしまう。
ぼくは明確な返事をしないまま自分の部屋へ行き、隙をうかがってシャワーを浴び、すぐさま自室に戻ってベッドに身体を横たえる。
何か考えなければならないような気もするが、何も考えたくなくて、考える間もなく眠ってしまう。
翌朝、うずみは朝食を作ってくれない。
ぼくが目を覚ましてリビングに行くと、「いってきます」と言い残して、うずみはリビングから出て行ってしまう。
それから間もなく、うずみは本当に学校へ向かったようだ。
姉にはどうだったとか何をしたとか根掘り葉掘り訊かれる。
話せるわけがないので、ぼくは無視する。
答えなくても、大変気疲れする。
ぷりるんはいつものように地下通路でぼくを待ち伏せしている。
登校すると、昨日の出来事が話題になっている。
桃川は「ごめーん、ちょっと、喧嘩しちゃったの」と笑う。
ぼくは笑えなかったが、まあ、そういう次第で、という感じでごまかすしかない。
他にどうしろと?
こうしてぼくらは、古い言い方かもしれないが、公認のカップル、みたいな扱いになる。
そうならざるをえない状況なのだとしても、ぼくとしては釈然としない。
それは違う。
断じて違う。
強く否定して反論したいところだが、そんなことをしたら、どうなることか。
ぼくは怖い。
それに加えて、自暴自棄になってもいる。
どのみち、クラスの仲よしグループとの付き合いのほうも、以前と比べてだいぶおざなりになっている。
可賀池ノボルはクラスで一番仲のいい友人ではなくなっていたし、だとしたら誰が一番なのかというと、思いつかない。
仲よしグループだと、以前は思っていたはずだが、そんなのは錯覚だったんじゃないか。
ぼくはみんなと仲よしだと思っていたが、みんなはどうだったのか。
ぼくと仲よしだなんて、誰も思っていなかったんじゃないか。
なんだかもう、誰に何と言われてもいい。
どんなふうに思われようと、べつにかまわない。
どうだっていい。
どうにでもしてくれ。
桃川に、遊びに行こう、と誘われる。
ぼくは断らない。
ウインドウショッピングをする。
カラオケに行く。
求められるままうどんを食べる。
乞われるまま性行為に及ぶ。
ぼくを苛む罪悪感は痛みさえ伴っているが、どこか遠く、たぶんありふれていて、贋物めいている。
その日はぷりるんとは出くわさない。
帰宅すると、姉に問われる。
「やってきた?」
ぼくは否定しない。
「覚えたては猿になるよねえ」
姉にそんなことを言われる。
そんなことはない。
ぼくにも事情というものがある。
こうしたくしてしているわけじゃない。
人の気も知らないで。
抗弁したい気持ちはある。
なくはないが、やはり正直、どうでもいい。
うずみはついに、目を合わせてもくれなくなる。
おそらくそのうち、口もきいてくれなくなるだろう。
次の日もぼくは桃川と性行為に及ぶ。
その次の日も。
次の次の日も。
次の次の次の日も。
一週間連続で、ぼくらはウインドウショッピングをする。
カラオケに行く。
夕食をとる。
それから性行為に及ぶ。
性行為の内容と夕食のメニューは毎日違っていたし、休日は映画を観て昼食をとったが、それ以外はほとんど一緒だ。
驚くべきことに、ウインドウショッピングで巡る店も、そこで桃川が手にとる商品も、ぼくにかける褒め言葉も、それからカラオケで桃川がぼくに歌わせる流行歌も、桃川が歌う流行歌も、バリエーションはいくらかあるようだが、その変化の幅は狭い。
極端に狭い。
ぼくは何度も既視感に襲われる。
いや、既視感というのは、経験したことがないのに経験したことがあるように感じることなので、それとは違う。
ぼくらは間違いなく、同じようなことを、あるいは、まったく同じことを繰り返している。
性行為の内容も、そろそろネタ切れらしい。
八日目はそばだったので、次はハンバーグだろうと予測できる。
九日目、午前中に那智部長から出頭を要請するメールがくる。
ぼくは桃川に事情を説明して、そのようなわけで、今日は遊びに行くことはできない、とおそるおそる告げる。
予想に反して、桃川は泣き叫ばない。
「わかった。じゃ、明日ね?」




