12。よかった
うずみはぼくと姉と自分、三人分の朝食を作ってくれる。
食器はぼくが洗う。
弁当までは用意してもらえない。
なんとなく、それもやむをえないだろう、とぼくは思う。
重苦しい朝だ。
何か言いだすのは姉だけで、ぼくとうずみは返事をするだけ。
ぼくとうずみの間に会話はない。
なんとなく、それもやむをえまいだろう、と考えるしかない。
朝の地下通路でぷりるんが、ぷりるん、ぷりるん、としつこく話しかけてくる。
こいつは相変わらずだ。
意味わかんない。
ぼくとしては無視するしかない。
学校へ行くと、ぼくや可賀池ノボルを含めた仲よしグループの中に、桃川みうの姿がない。
桃川はぽつんと自分の席に座って、たまに席を立っても、教室を出てすぐに戻ってくる。
おそらくトイレだろう。
ぼくはだんだん心配になってくるが、どうしたの、何があったのさ、言ってみなよ、ヘイ、ハニー、みたいに声をかける気にはなれない。
もっと真面目に声をかける気にも、やはりなれない。
誰かが、モモ、どうしたんかね、と言って、誰かが、さあ、と答える。
便秘じゃね、と誰かが言う。
あー、それか。
それだね。
それしかない。
みんな笑う。
ぼくも笑おうとするが、うまく笑えない。
本日の授業がすべて終わったので、教室から出ようとしたら、後ろから呼び止められる。
「ユラキくん」
「はい?」
振り向いた途端、手首をつかまれる。
ぼくは教室から引っぱりだされ、引っぱられるまま階段を下りて、玄関前のホールの隅に連行される。
ぼくは桃川みうと向かい合う。
桃川みうの目の下には隈ができてる。
じつは、ぼくの目の下にも隈ができている。
ぼくは昨夜、ほとんど眠れなかった。
桃川みうも寝不足なのかもしれない。
どうして寝不足なのだろう。
なぜずっと一人でぽつんと自分の席に座っていたのだろう。
なんで桃川みうはぼくの手首から手を離そうとしないのだろう。
どうしてぼくをここに連れてきたのだろう。
なぜぼくを上目遣いでじっと見つめているのだろう。
なんで下唇をぎゅうぎゅう噛んでいるのだろう。
桃川みうはこの期に及んで何が言いたいのだろう。
「訊いて、いい?」
「あ。はい。それは、べつに」
「ユラキくんは、あたしのこと、好き?」
玄関前のホールはたいてい無人じゃない。
今もけっこう人がいる。
こんな場所で話すようなことではないと思う。
こんなところで答えられるような質問じゃない。
けれどもぼくは、早く終わらせてしまいたい。
場所を移して、とか、そんなことは考えたくもない。
「うん」
「なのに、なぜ?」
「なぜって?」
「どうして、あたしに、いじわるするの?」
「意地悪? ぼくが? 桃川に?」
「いじわる、したでしょ」
「心当たりがないよ」
「したよ。いじわる。あたしに、したよ」
「していないよ」
「おかしいよ」
桃川は顔をしかめて首をぶんぶん横に振る。
自分の思いどおりにゆかなくて、癇癪を起こしかけている子供みたいな仕種だ。
昨日と同じだ。
「あたしは、ユラキくんのこと、好きだよ? だって、ユラキくんは、あたしのこと、好きでしょ。すぐ、わかるもん。そういうの。わかってたの。いつか、好きって、言ってくると思ってたもん。それなのに、なぜ?」
「いや、なぜ、と言われましても」
「あたしのこと、好きなくせに、なぜ、あたしにひどいこと、するの?」
「ひどい……こと?」
「どうして、いじわるするの?」
「意地悪……?」
「もっと、やさしくして?」
桃川は泣きそうな顔で首を傾けてみせる。
「ね? あたしに、やさしくして?」
ぼくは我知らず首を横に振っている。
いやだ、やさしくなんてしない、という意思表示をしたわけじゃない。
そうじゃなくて。
何なんですか、この人。
どうしちゃっているんですか。
こう言っちゃなんだけど、怖いんですけど。
そんな思いが、首を横に振るという動作として、勝手に表出したのだ。
桃川が突然、血相を変える。
今までぼくの左手首は桃川の右手に拘束されていたのだが、右手首まで桃川の左手にとらえられる。
すごい力だ。
桃川は爪を少しのばしている。
その爪がぼくの手首に食いこむ。
痛い。
少し、じゃない。
けっこう痛い。
「やだ! やだ! やだ! やだ! やだ! やだ! そんなの、いや! いやだから! いやだよ! 絶対、いや! いや! いや! いや! いや! いや! いや! やだって言ってるでしょ!? い! や! な! の! いいいいいやあああああああああああ……!」
すごい声だ。
絶叫だ。
ぼくも一応、ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと、と桃川をなだめようとしている。
でも、桃川は聞く耳を持ってくれない。
当然のことながら、そのへんを歩いている生徒たちはほぼ全員、足を止めてこっちを見ている。
ぼくはひどく動揺している。
大変焦っている。
どうにかしないと。
どうにか。
どうすれば?
桃川が「やだ」とか「いや」とか叫ぶたびに、ぼくの顔に唾がかかる。
怖い。
ぼくはもう、はっきりと恐怖している。
怖いって。
怖すぎだって。
何でもいいから、この恐怖から逃れたい。
「わ、わかった!」
それ以外のことは何も考えられない。
「わかったよ! わかったから!」
桃川は急に叫ぶのをやめる。
「ほんと?」
よかった。
とりあえず、よかった。
ぼくはうなずく。
うなずいてみせるしかない。
やっぱり嘘です、なんて言おうものならどうなるか、火を見るよりも明らかだ。
「よかった」
桃川はにっこりと笑う。
「じゃ、遊びに行こう?」
今の今まで唾液を撒き散らしてわめき散らしていた人間の笑顔とはとても思えない。
もっとも、ぼくの顔面は桃川の唾で汚れているし、桃川自身もまた被害を免れてはいない。
怖い。
怖いよ。
何なんだよ。
断りたい。
断れるはずもない。
隙を見て逃げだそうと何回思ったかわからないくらいだが、ぼくらは腕を組んで、というか無理やり組まされて、学校をあとにして、瓦町まで行って、ウインドウショッピングをして、カラオケに行って、それから、桃川がハンバーグを食べたがったので、ハンバーグ店で夕食をとる。
正直に言うと、たまに「やだ」とか「いやだ」という叫び声やあのときの表情、そして手首の痛みが、どういうわけか記憶からすっぽり抜け落ちて、ちょっとだけ楽しい気分になる。
そういう瞬間もあるにはあるが、あくまで瞬間でしかない。
楽しくなってきた途端、ぼくはあの恐怖を思いだして、桃川の表情をうかがう。
桃川が少しでも眉を曇らせると、ぼくは不安になる。
なんとかして機嫌をとらないと。
何でもいいから、桃川を喜ばせないと。
こんなことは間違っている。
おかしいが、仕方ない。
ただ、仕方ないではすまされない、決断の時が迫っている。
ぼくらは夜の街を歩いている。
赤信号でもないのに、桃川がいきなり足を止める。
ぼくも立ち止まる。
きた。
ついにきてしまった。
桃川がぼくの肩に頭をこすりつけて、やけに甘ったるい声を出す。
「これから、どうするのかな?」
どうしよう。
どうやって切り抜けよう。
何か方法はないのか。
うまい方策は。
桃川を怒らせないで、このまま別れて、帰宅する。
どうしたらいい?
たとえば、こう、何だろうな、いかにもこれは、桃川のためであって、こうすることが桃川にとって一番いいことなのだから、こうしなければならない、というふうに説得する、とか。
ぼくとしてはそれをしたいのだが、してもいいのだが、しないほうがいい、それが桃川にとって最善で、ひいては世界平和にも貢献できる、というような見事な理屈はないものだろうか。
ない。
あるはずがない。
はっきり言うしかない。
「ぼくは、帰るよ」
「だめ!」
やばい。
叫ばれた。
いきなり叫ばれてしまった。
いや。
ここで引くわけにはいかない。
ぼくはもう一度、強い口調で、決然と、それでいて桃川の顔は決して見ずに、断言する。
「ぼくは帰るよ」
「だめ! だめ! だめ! 帰らないで! 帰っちゃいや! 一人にしないで! やだ! 怖いの! 寂しいもん! だめ! 絶対だめ! だめだよ! だめなんだもん!」
「さ、寂しいって、い、家に帰れば、か、家族とか」
「いないもん! 一人だもん!」
「そ、そうなの?」
「いるけど! いるけど、いないんだもん! 一人と同じなの! あんなの家族じゃない! 違う! いや! やだ! あんな人たち嫌い! だいっきらい! 死ねばいい!」
「いや、そ、そういう言い方は、いくらなんでも」
「なんで? どうして? ね? どうして? ね? ね?」
桃川がぼくにすがりついてくる。
胸をがつがつ叩く。
叩きまくる。
「ね? やさしくして? するって言って? ね? 一緒にいよう? あたしのこと、好きでしょ? 好きだよね? じゃあ、してよ? えっちしてよ? しよう? 何でもするよ? あたし、すごいんだから。ね? いいでしょ?」
「ど、どうして、そんな……なんで」
「い! や! な! の! いいいいいいいいいいいいやあああああああああああああああああああああああああああああああ! いやだって言ってるのに! 言ってるのに……!」
ああ。
だめだ。
もうだめだ。
桃川が、泣いた。
泣きだしてしまった。
あっという間に号泣だ。
通行人の視線が痛い。
おいおい、とか言われている。
やばいって、あれ。
うわー。
ひどっ。
ちょっと、どうしたの。
大丈夫なんかね。
はい。
大丈夫じゃないです。
というか、ぼくも泣きそうです。
泣いてしまえれば、いっそ楽なんじゃないかと思います。
でも、泣けない。
泣いたしても、たぶん、どうにもならないだろう。
ただし、今のぼくでも思いつく、とても簡単で、わかりやすい、この状況を打破するための方法が一つだけある。
たった一つしか、ぼくには思い浮かばない。
「わかった。わかったよ。わかったから」
桃川は、やはり急に叫ぶのをやめる。
「ほんと?」
ぼくは投げ遣りにうなずく。
もういい。
どうにでもなれ。
「よかった」
桃川はにっこり笑う。
「じゃ、行こう?」




