黒き蠱惑――パピヨンの影、鞭鳴る夜
その女は、音もなく現れた。
夜の街外れ。
マリーたちが野営の準備をしていた時、焚き火の炎が――一瞬、歪んだ。
「……今、揺れた?」
『風速変化なし。熱源干渉……否、これは』
ぴしんっ
乾いた音が、闇を裂いた。
「痛っ!?」
マリーの足元の地面に、鞭痕。
寸分の狂いもない。
「命中精度、異常値……」
『新手だ』
闇の中から、女が歩み出る。
全身を覆う、黒いボンテージ風アーマー。
艶消しの装甲が、身体の曲線を強調しすぎるほど強調している。
何より目を引くのは――
「……ムッチムチね」
『評価が即座すぎる』
腰に巻いた多節鞭。
背中には、蝶の羽を思わせる黒い意匠。
女は、ゆっくりと笑った。
「久しぶりね、ルシアン」
「……その声は」
ルシアンが、一歩前に出る。
「やはり君か」
女は仮面を外した。
露わになったのは、挑発的な笑み。
「私の名は――モルフィナ」
『……識別完了』
「え、知ってるの?」
『パピヨンマスク系譜、対抗思想装備』
マリーが嫌な顔をする。
「また“系譜”?」
モルフィナは鞭を肩に担いだ。
「解放、自己肯定、美の主張……
あの人の思想は、甘すぎるのよ」
「何?」
ルシアンの眉が動く。
「美とは、管理と支配」
鞭が、空を裂く。
「制御されてこそ、完成する」
『危険思想だ』
「褒め言葉よ」
モルフィナのアーマーが、うねるように展開する。
『――《インテリジェンス・ドミネイト・アーマー》起動』
「名前からして嫌!」
魔力圧が、場を支配する。
空気が重い。
「ルシアン」
モルフィナは、にやりと笑った。
「あなたは“解放”を選んだ。
私は“縛る”ことを選んだ」
「……相変わらずだな」
「ええ」
鞭が鳴る。
「だからこそ――」
次の瞬間。
マリーの足が、動かなくなった。
「えっ!?」
『拘束フィールド!』
「な、何これ!?」
見えない何かが、マリーを絡め取る。
モルフィナは満足そうに頷いた。
「抵抗する意思、反発、羞恥、覚悟……
すべて、美しい反応」
「変態の方向性が違う!」
『これはまずい』
ルシアンが前に出る。
「やめろ、モルフィナ」
「嫌」
即答。
「あなたの“自由”が、どこまで耐えられるか――
見せてほしいの」
鞭が、再び鳴る。
――だが。
「そこまでよ」
重い声。
セリアと《インテリジェンス・フルプレート》。
『これ以上の干渉は、許可できない』
モルフィナは、楽しそうに笑った。
「正統派……
ほんと、退屈」
『退屈で結構だ』
一触即発。
だが、その時。
「……ねえ」
マリーが、笑っていた。
「あなた、勘違いしてるわ」
「?」
マリーは、拘束されたまま言う。
「私はもう、
縛られるのも、解放されるのも、知ってる」
モルフィナの目が、細くなる。
「ほう?」
「だから――」
マリーは、にやっと笑った。
「どっちか一方しか選べないなんて、
ダサい」
『……』
沈黙。
ルシアンが、吹き出した。
「はは……ははは!」
「何がおかしい!」
「いや……最高だ」
モルフィナは、しばらく黙り――
そして、鞭を下ろした。
「……今日は引くわ」
「助かった……」
「でも覚えておきなさい」
モルフィナは振り返る。
「混沌は、まだ序章」
闇に溶ける、その背中。
残された沈黙。
「……また変なの増えたわね」
『否定できない』
『むしろ加速している』
ルシアンが、楽しそうに言った。
「素晴らしい」
「喜ぶな!」
マリーは頭を抱えた。
「もう、普通の冒険者やめた方がいいかも……」
『手遅れだ』
こうして、
支配の鞭使いアーマーが参戦し、
変態と混沌は、臨界点を突破する。
次に壊れるのは――
世界か、理性か。
おそらく、両方だった。




