中編
背中の傷が疼くようになったのは、その頃からだった。
アシュのことを考える時間が増えれば増えるほど、背中の二本の傷は熱を持つ。昼間はまだマシだが、夜になると内側から押し開かれるように痛んだ。声を我慢しようと唇を強く噛むせいで、枕元が赤色に染まっている日もあった。
ある朝、アシュが寝ている隣で着替えを始めたミーリアは、鏡を覗いて息を呑んだ。
固く閉じていたはずの傷口が、うっすらと開いている。そして、その奥から白い羽毛が覗いていた。
(なに……これ)
震える指を背中側に回し、それに触れた。
柔らかく湿っていて、間違いなく自分の身体から生えてきている。
傷はふさがるものだ。アシュの脇腹がそうだったように。
血を流し、かさぶたになり、桃色の線になってやがて消えていく。それが生きているということ。
人の身体は傷を負えば自分で癒える。この背の傷も、ずっと昔にそうして閉じたただの古傷なのだと信じていた。
なのに、背中の傷はふさがらないどころか、開いて人ではないものを生やしている。
アシュの傷は日が経てば消えていく。時折疼くことはあっても、もう開くことはないはず。自分の背中の傷は、その逆を突き進んでいるように感じた。
(ちがう……ちがうの……? なんで……)
そのひとつの事実だけで、ミーリアは何もかもを悟ってしまった。
その事実に喉が引き攣り、肺が呼吸を拒み始めた。
自分は彼とは違う。
同じように生きて、歳をとって、死に絶えていく。そんな当たり前のことができる生き物ではなかったのだ。
手当てをしながら彼と同じだとほっとしていた、あの胸のぬくもりが、急に遠く寒々しいものに思えた。
(わたしは、人間じゃ、なかったの?)
膝から力が抜けた。音を立てて崩れ落ちたが、そんなことを気にする余裕はなかった。
床に手をついたその瞬間、堰を切ったように記憶が流れ込んできた。
眩いほどの空。地上のどんな色も及ばない、深く澄んだ青と降り注ぐ金。
雲の上に連なる白い列から聞こえる歌のような声。
そして、自分の背に広がっていた、誇らしいほど大きな白い翼。ひとつ羽を震わせれば、金粉を振り撒くようなもの。
(わたしは、天使だった……?)
そう自問した途端、アシュと共に築き上げた眩い景色は暗転した。
代わりに瞼の裏に立ちのぼったのは、自分を見下ろす厳かな影と、そこから降ってくるおどろおどろしい声だった。
「ミーリア。其方は人間を愛し、堕落した。よって記憶の器である翼をもぎ、その罪を償うまで檻の中で生きよ」
「翼をもがれなくとも、わたしは罪を償うつもりよ!」
「その記憶そのものが罪だと言っているのだ。……案ずるな。記憶がなくとも、心はいずれ満ちる。人間など、我らにとって毒でしかないと、その身で知るがいい」
声が、ふつりと途切れた。
気づけばミーリアは、もとの薄暗い部屋で膝をついていた。
アシュの規則正しい呼吸がミーリアの耳に届く。
ミーリアが顔を挙げると、鏡の中の自分と目が合った。さっきまで何も知らなかった顔が、今は何もかもを思い出した顔でこちらを見ていた。
翼をもがれたあの日、わたしは過去も自分が誰を愛したのかも根こそぎ失った。翼を奪われた直後からの記憶がごっそり抜けていたのは、翼そのものが記憶の器だったから。
器を毟られれば、中身もこぼれ落ちる。だから自分は、空っぽのままここに立っていた。
(わたしは同じ過ちを犯そうとしているのに……どうして?)
そして今、その器が編み直されている。誰かが反省の色を汲み取ったのか、それともアシュと親しくなるのを拒んでいるのかはわからない。
一枚、また一枚と羽が伸びるたび、忘れていたあの頃が戻ってくる。
いつからかと考えて、すぐにわかった。
背中の傷が疼き始めたのは、世界に色が戻ったのと同じ頃だ。アシュが指をさすたび、空っぽの胸が彼のくれる色で満たされていった。
あれはただ世界が美しくなっていたのではない。満ちていく心が、内側から器を編み直していたのだ。
彼を慕う気持ちも、傍にいてほしかったのに消えてしまえと願ったあの黒い感情も、どれもこの胸を満たし翼を育てる糧になっていたのだ。
(アシュといたいと願うたびに、わたしは人をやめることになる)
この森の意味も、それでわかってしまった。
何もなく、誰もおらず、色さえ褪せたこの場所は堕とされた者の心が、他人の手によって満ちないように造られた忘却の檻。
翼を取り戻させるための場所ではない。天使としての矜持を守るための檻で、二度と過ちを犯さないようにするための場所だった。
皮肉な話だった。
もし森を出て人の街で暮らしていたら、翼はとっくに生えそろっていただろう。何もない退屈するようなこの森こそが、人でいられるたったひとつの場所だった。
海を見に行こうと誘われて、理由もわからず身がすくんだのもこれだった。知らぬまに、ミーリアはこの檻にすがりついていたのだ。
なのにアシュが来てしまった。入れるはずのない檻に紛れ込んで、空っぽの胸を色で満たして。
翼が戻れば空がミーリアを連れ戻しにくる。
アシュがここへ侵入できたのは、彼があそこで死に絶えるものとして認識されたからだろう。獣でさえ入ることのできない場所だが、枯葉は風で飛んでくるし、雨も雪も降る。この檻は彼を生きたものと認識しなかった。
ミーリアはそう考えた。
その日から、変化は止まらなかった。羽は夜ごとに伸び、翼の形を取り戻していくと、仰向けで寝るのも難しくなっていった。
同時に、見える色が変わった。アシュが教えてくれた地上の色、葉の緑も夕暮れの橙もあれほど鮮やかだったのに、思い出した空の色に比べればなんと淡く、ささやかなことか。
再び視界に灰色が滲み始め、心がボロボロと毛羽立っていく。
ミーリアは窓辺の花瓶を片付けた。
認めたくなかった。どんどん冷めていくアシュの声や彼が教えてくれた色を。部屋からどんどん色になるものを消していった。
その夜から、ミーリアは生えかけた羽を自分の手で抜きはじめた。
一枚、また一枚。
根もとを掴み、アシュに気づかれないように歯を食いしばって引き抜く。
鋭い痛みが背を走り、指先は血で濡れた。それでも、抜いた。これさえ抜いてしまえば、なかったことにできる。
ただの人間でいられる。
けれど抜いても抜いても、翼はまた生えてきた。
仰向けに寝ることがどんどん難しくなり、壁に背を向けて寝ることが増えた。寝付けない日は辛かった。アシュの緩んだ寝顔が視界に入るたびに、背中が酷く傷んだ。
そして朝になれば、もう新しい羽が傷口から顔を出している。心がアシュで満ちているかぎり、それは止まらない。彼を想うほどに、人から遠ざかっていく。
ミーリアは枕を濡らした。
人間でいたいと願う、その願いそのものが自分を人間でなくしていくのだ。
血のにじんだ背中を、ミーリアは布できつく巻いた。その上から羽の付け根の膨らみを隠すために、肩を覆う厚い肩掛けを羽織る。
そして昼の間は、何ごともない顔をしてアシュの前に立った。
不安が読まれないように気を遣って笑ってみせた。
彼の淹れそこねたお茶を、苦いと笑った。指さす花の色を、一緒に覗き込んだ。
今までのように人間のふりをした。
布の下で背中が疼いていても、自分がもう人ではないと知ってしまっていても、せめて彼の隣にいるあいだだけはただの娘でいたかった。
彼と出会った頃の、ただのミーリアで。ミーリアは彼を真正面から見ることが増えた。
「ミーリア、顔色が悪いよ」
ある朝、アシュが眉を寄せた。
「それに、さっきも痛そうにしてた。どこか……」
「なんでもないの」
アシュの手が頬に伸びてきた。
とっさに、半歩退いた。肩掛けの下の、血を吸った布を悟られないように。最近アシュの近くにいるだけで、鼻腔に残った鉄臭さが彼に伝わっていないか不安になることが増えた。
「ちょっと、寒いだけ」
嘘をつくたび胸がひび割れた。
けれど、本当のことなど言えるはずがなかった。言えば彼は、自分を化け物を見る目で見るかもしれない。この家から消えるようにいなくなってしまうかもしれない。
それだけは、耐えられなかった。
「じゃあ薪――」
「え?」
「薪を増やします」
時折頭の中で讃美歌のような美しい声が響くようになった。頭上の空が呼んでいると気づくのに時間はかからなかった。帰っておいで、と。お前の居場所はそこではない、と。
「ありがとう」
もう、胸を空に戻すことはできない。一度満ちてしまった想いは抜けない。
アシュを忘れようと、この森を出ようと、翼はもう生えはじめている。それを知ってしまったミーリアに残された道は、ふたつしかない。
ひとつ。
このまま翼に身をまかせ、空へ還ること。
アシュを覚えたまま生きていけるが、もう二度と声を聞き姿を見ることはできなくなる。向こうには自分の帰る場所がある。
もうひとつ。
翼を今度は自分の手でもぎ取ること。
そうすれば地上に残ることができるし、アシュと同じように老いていくことができる。けれど翼と共に記憶も失うことになり、この短い日々も、彼を愛したことさえも、何ひとつ残らない。
そしてまた抜け殻に戻り、灰色の世界で生きることになる。
(何百年とかけて、きっとわたしの心は満ちていく予定だったはず。予定がかなり早まっただけのこと……)
どちらを選んでも、ミーリアはアシュを失うことには変わりなかった。
ミーリアは椅子に座り、湯気がたちのぼるスープを遠い目で見つめていた。匂いはもはや感じなかった。
「最近、元気ないですね」
スープをよそいながら、アシュが心配そうに言った。
「俺、もうすっかり動けるし……。そろそろ、出ていったほうがいいですよね」
「……行かないで」
口をついて出た言葉に、自分が一番驚いた。
アシュが目を見開いて、固まっていた。火明かりが、彼の頬を橙に染めていた。その色を、もう少しだけ見ていたかった。
ずっと、見ていたかった。
短い沈黙のあと、アシュは溢れんばかりのスープが入った器を机に置き、そっとミーリアの手を握った。
「俺もあなたと一緒にいたい。たぶん、ずっと前から」
握られた手が温かかった。
ごつごつした指が、ミーリアの白く細い指に絡まった。これがただの人間の手。やがて老いて、土に還る、ちいさな火のような手。
その温かさが、空の冷たい眩さよりも。ミーリアには尊かった。
だからこそ、これ以上、傍にいてはいけなかった。
(妹はどうするのよ……。帰りを待つ人がいるなら帰らないと……。わたしも元いた場所に帰るからさ)
ミーリアは握られた手を解いて、立ちあがろうとした。けれど、急に立ちあがったせいで目の前が暗くなる。羽を抜きすぎて、血を流しすぎていた。
膝が崩れ、とっさにアシュが抱きとめる。その手が肩掛けの下の背中に触れた。
布の生あたたかい湿り。そして、その奥で押さえつけられた何かが、ひしゃげる感触。彼の置かれた背中に全神経が集中しているかのように熱くなる感覚。
アシュの動きが、止まった。
「……ミーリア」
ミーリアは咄嗟に彼の首筋に顔を埋めた。こめかみに彼の早くなった脈が響き、ミーリアはぎゅっと目を瞑った。
(怖い……っ)
彼は、そっと肩掛けをめくった。きつく巻かれた布ににじんだ血。その隙間から、押し込められていた白い羽が、こぼれ出ていた。
息が、できなかった。
いちばん恐れていた瞬間が来てしまった、と思った。
これで彼は、ミーリアを化けものだと知り、途端あの温かい目が怯えと嫌悪に変わるだろう。
それを見るくらいならミーリアは、きつく目を閉じて彼の腕の中で震えた。最後の温もりになるかもしれないと覚悟して。
「……っ、こんなになるまで」
その声は、覚悟していた声とは違った。
「どうして言ってくれなかったんですか。俺ってそんなに頼りないですか……?」
おそるおそる目を開けると、アシュは青ざめた顔で、けれどまっすぐにミーリアを見ていた。その瞳に怯えも嫌悪もなかった。あったのは痛いほどの心配だけ。
張りつめていた糸が切れた。
「わたし……天使なの」
声が、勝手に漏れた。
アシュからすれば馬鹿なことを口走る、恐ろしい女にでも見えるだろう。
しかし、ミーリアの口は止まらなかった。
「住んでいた場所は空で、ここよりもっと綺麗な色で満ちているの。もうすぐ、空がわたしを連れ戻しにくる。だから、あなたのそばにはいられない」
アシュはしばらく言葉をなくしていた。それから、ミーリアの小刻みに震える手を両手で包んだ。
「人間じゃなくてもいい」
かすれた声だった。
「天使でもなんでもいい。俺が好きになったのはどんな姿であれ、あなただ」
「……でも、連れていかれてしまうし、心の底から綺麗だと思っていたものが、またくすんでいくの」
「行かせません。それに、色は何度でもつけていけばいい」
アシュは、ミーリアをさらに強く抱きしめた。
帰ろうと決めていた心が、確実に揺らぎ始めた。毛羽立つ心が洗われていくのを感じる。
「絶対に。どんな手を使ってでも、俺がここに引きとめます」
引きとめる方法なら、ひとつだけある。
ミーリアは彼の肩に顔をうずめて、それを言わなかった。翼を捨てれば地上に残ることができるが、その代わりにあなたを忘れることだけは。
言えばアシュはきっと首を縦に振らない。自分を覚えていてほしい、忘れるくらいなら空へ帰れと言うに違いない。帰る場所へ帰るべきだと。
だからひとりで決める。彼に知られないまま。
彼の腕のなかは、あたたかかった。
この温もりごと忘れてしまうのだと思うと、涙が止まらなかった。だがそれでもいい。覚えたまま遠く離れるより、忘れてもこの地面の上で、彼と同じ風に吹かれていたい。
(あなたと同じになりたい……)
その夜、ミーリアは決めた。
空が迎えにきたのは、翌々日のことだった。夜のように暗い曇天が広がっていたが、くりぬかれた森の真上、雲の切れ間からまっすぐに光の柱が降りていた。
(かえ、らなきゃ……?)
ミーリアはその光を懐かしく思いながら、ただ立ち尽くしていた。
荘厳で清らかで、何もかもを赦すように優しい光。その光に触れるだけで肌が輝き、なにかが満ちていく感覚が全身に広がる。
同時にミーリアの密かな決意は、その光によって意図も簡単に壊された。以前の決意がなかったかのように、光に抗うことをやめた。
ミーリアは肩の荷が降り、フッと笑みを浮かべた。
(帰ろう。やっと帰れるんだ)
背の傷が裂け、ついに翼が大きく開いた。
わずかな血痕が地面に花を咲かせ、砂埃がミーリアを囲うように立った。
白く、地上のものとは思えない翼。翼がはためくと足が地面から離れ、身体がふわりと浮きあがる。身体が光に向かって引き上げられていき、視界が木よりも高くなっていく。
「ミーリア!」
ミーリアは宙で振り返り、彼を見おろした。
光の柱の下、戸口にアシュが立っていた。羽音で飛び出してきたのだろうか。
空を見上げ、必死に手を伸ばしている。届かない距離に昇っていく自分を引き止めようと。
その顔を目に焼きつけるように、これから永遠に覚えていられる顔。けれど、二度と触れられない顔。あと一度だけ触れさせて欲しいと、心の底から泡のようにその願いが浮き上がってきた。
(帰りたくない……)
覚えているだけの永遠なんて、いらない。遠くから見ているだけの空なんて、いらない。彼の傍にいたい。
一度目は奪われた。
だから天使のまま地に落とされ、翼がまた生えてきた。けれど、自分の手で捨てるならそれは天使であることそのものを手放すということ。
もう二度と翼は生えず、空も二度と呼ばない。
ただの年老いて死ぬ、人間になれるということ。
それでいい。いや、それがいい。
ミーリアは引きあげる光に逆らって羽ばたき、できるだけ空から離れようと試みた。できるだけ彼の近くに行きたくて、強く何度も羽を動かした。
それでも彼との距離はどんどん開いていく。
ミーリアはどんなに高くても彼が受け止めてくれると信じ、自分の背へ躊躇うことなく手を回した。生えそろったばかりの、白い翼の根元へ。
この誇りなんて、彼の傍にいられるならちっぽけな物だ。
「ミーリア待って、何を……っ」
「アシュ」
彼女は、泣きながら笑った。
「この翼がなくなれば、あなたのことも、この森のことも、好きになったことも。ぜんぶ、ぜんぶ、忘れてしまう」
アシュの顔が凍りついた。
眉間に皺を寄せて、狭間で揺れ動くような悲痛な表情でミーリアを見た。
「……だめだ。それなら、空へ行け! 覚えていてくれるなら、それで……」
アシュは拳を震わせて、俯きがけにそう叫んだ。
「いやよ!」
ミーリアは首を振り、涙が光のなかで散った。
「覚えたまま遠くで生きるくらいなら、忘れてもあなたと同じ地面の上にいたい! あなたの隣で死にたい! だから、お願い」
最後の力を振り絞って、まっすぐにアシュを見つめた。彼がどんな表情をしていても、アシュがそこにいるだけで忘れる恐怖は薄れていく。
「わたしのぶんまで覚えていて。何も覚えていないわたしと、もう一度はじめから」
ミシミシと音を立てて根元が軋み、その音が身体中を撃ち抜き、痛みが羽を掴む手を引き離そうとした。だが、ミーリアは爪を立てて掴み続けた。
「酷なことを頼むけど、お願い。もう一度わたしを見つけて」
「ミーリア!!」
彼女は息を大きく吸って、翼を力任せに根元から引きちぎった。




