後編
激痛が全身を貫いた。
ちぎれた拍子に、白い羽が数枚雪のように舞い散り、翼が形を保ったまま地面へと落下していく。ミーリアも臓物が浮遊する感覚を感じながら、天を向いて落ちていく。
霞む視界の中で、光の柱が大きく揺らぎ、やがて静かに天へと引いていくのが見えた。
空はもうミーリアを呼ばなかった。呼ぶための翼を、彼女が捨てたのだから。天に歯向かったも同然の行為だった。
ミーリアは薄れゆく意識の中、できるだけアシュへと手を伸ばした。アシュはこちらを見上げて全力で走っている。
走り寄ったアシュの腕が、ミーリアを抱きとめた。
背中の傷から血が流れ、地面へと滴り落ちる。同じ場所に二度目の傷。けれど今度のそれは、奪われた痕ではなく自分で選んだしるしだった。
そして、記憶が潮のように引いていく。
艶やかだった空の色が薄れていき、歌のような声が遠ざかっていく。
さっきまで胸を焦がしていた名前のない色が、輪郭をなくしていく。アシュの顔が誰の顔だったかわからなくなっていく。アシュとはなんの単語かも思い出せなくなっていく。
最後にミーリアは、腕の中から見知らぬ青年を見上げた。陰る青年の表情はよくわからない感情でかき混ぜられていた。
なぜか涙が頬を伝っていて、なぜ自分が泣いているのか、もう思い出せなかった。
「……あなたは、誰?」
ミーリアはかすれた声でそう問いかけた。
その青年は声を殺してただ深く、深くうなずいた。
「俺はアシュ。これから君のことを、いちから全部教えるよ」
――――
ミーリアは目を覚ました。
くりぬかれていた森はいつのまにか、世界とつながっていた。差し込む光に、葉の緑が、花の青が鮮やかに灯っている。
ミーリアは寝台の上で、一人の青年を見ていた。
ここは自分の家であり、彼は居候の身であることはすぐに理解した。それなのになぜだか、追い返せなかった。
ミーリアが傷を負っていたのをたまたま見つけ、介抱したのだと彼は言う。覚えていないけれど、たぶんそうなのだろう。背中の傷は、彼のおかげで治りつつあった。
それにすぐ出ていくと言いながら、彼はもう何日もこの森に居ついていた。
誤嚥しないようにと膝の上に寝かせ、柔らかなものを食べさせてくれるし、傷の手当てを頻繁にしてくれる。少しでも寝台から出ようとすれば、寝ていたはずの彼は飛び起きた。
今の彼は寝台の端に腰掛け、林檎の皮を剥いていた。
「あなたがちゃんと生活できるようになったら、俺と一緒に街へ出よう」
「街へは……行けないよ。多分」
「もちろんミーリアの気持ちが整うまで待つつもりさ。けど、療養のために俺の家に来た方がいいと思う。俺の妹の方が、手当てもしやすいだろうし……」
アシュは後頭部に手を当てながら、口を窄めて小声でそう言った。
「いもうと……?」
「ああ、俺の妹。俺の家族だ」
「アシュに似てるの? 帰らなくていいの?」
「あまり似てない。薬を買うついでに街へ行った時、手紙を送ったから問題ない」
ミーリアは街というものを想像した。彼の話してくれる街は、たくさんの人がいて、たくさんの色に溢れているらしい。彼が言うなら、きっと街にはたくさんの色が溢れているのだろうと、ミーリアは口元まで布団を引き上げてくすりと笑った。
彼が何かを指さすたび、灰色だった世界にひとつずつ色が増えていく。それが不思議で、少しだけ心地よかった。
ときどき、背中の二本の傷が彼の傍にいると、そっと疼いた。とても大切で、とても温かい何かを忘れている気がした。
「ねえ」
ある夕暮れ、ミーリアは訊いた。
「わたし、あなたと前にも会ったことがある気がするの。気のせい?」
アシュはほんの少しだけ泣きそうな顔をして、それからいつものように笑った。
「気のせいだよ。毎日会っているから混同しているのかもね」
ミーリアにはその言葉のどこが、こんなにも胸に沁みるのかわからなかった。
わからないまま彼女はもう空を待ってはいなかった。
そのかわりに、隣にいる青年の指さす色をひとつずつ覚えていく。
「ねえ、これはなんの羽?」
ミーリアは窓辺に窮屈そうに置かれている一対の白い羽を指差した。その羽は無機質な白色で、ただ大きいことが目についた。
寝台のそばに置かれた椅子に座るアシュは、横たえるミーリアの金の髪を優しく撫でながら言う。
「それは大切な人の羽」
ミーリアは目を丸くして、クスクスと眉根を寄せて笑い始めた。動くたびに背中が痛むが、笑いを止めることはできなかった。
「人には羽なんて生えないよ」
「そうだね。生えない。けどこれは、ミーリアと同じくらい大切なもの」
アシュの唇がミーリアの青白い額に軽く触れた。
「アシュのものなの?」
「俺は持っているように頼まれただけ」
「ふーん。綺麗だね」
アシュが目尻に皺を寄せて微笑み、ミーリアの口に彼の薄く熱い唇が長く触れた。ミーリアはキュッと目を瞑り、熱が離れるとゆっくり瞼を上げた。
そこには茶色の瞳が細め、満足そうに口角を上げたアシュの顔があった。ミーリアはそれを見て、全てを忘れた顔色で無邪気にはにかんだ。
「アシュとなら、ここの外へ出られそうな気がする」
「それは良かった」
それは生まれてはじめての、いや、二度目のはじめての朝だった。
ここまでお付き合いありがとうございました。
短編だから一万字以内で、と思ったのですが予定より長くなってしまいました。そこはご容赦ください。
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最後までお読みくださりありがとうございました。




