前編
薄暗い森を抜けた先、木々に囲まれたその空間だけが、くりぬかれたような異質な空気を放っていた。
そこに暮らすは、ミーリアという少女だった。
両親は誰か、どうしてここにいるのかはミーリア自身も覚えていなかった。ただ気がついたらこの場所に立っていて、用意されたかのように家が一軒建っていた。そして自然と、それらがすべて自分のものであると認識していた。
鏡を覗いても自分が何者なのかはわからない。ただわかるのは髪が透き通る金糸のようで、瞳の淵がぼやけるほど薄く碧い瞳。そして背中のことだけだ。
肩甲骨のあたりに縦に切られたような傷が二本、深く走っている。何かを無理やりもぎ取られたような痕。
指でなぞると今でも鈍く疼く。けれど何をもがれたのか、どうしてもぎ取られたのか、いくら考えても思い出せない。次第に考えるのをやめて、触れるのもやめていった。
森の外の世界は、ミーリアの目にはいつも薄く褪せて見えた。水を通して眺めるように、何もかもが灰がかっている。緑も、空も、夕暮れも。それが普通なのか、それとも自分の目が何かを失っているのか、比べる相手がいないから確かめようもなかった。
毎朝井戸から水を汲む。
薬草を摘み、薪を割り、日が暮れれば眠る。明日も明後日もおそらく同じ。退屈なほどに平穏で、暇を持て余すことから抜け出せない終わりのない日々。
ときどき空を見上げては胸が締めつけられた。何かを待っているような、置いてきてしまったような、けれどそれが何なのかははっきりとしない。
わからないまま、ミーリアはずっとここにいた。
その日、くりぬかれた森にはじめて自分以外のものが入ってきた。
普段と変わらない生活を送っていると、ふと何かの気配がして森の方を見つめた。いつもはそんな気配を気にすることはないが、今日のミーリアは踏み入れない境界の外へと足をはじめて踏み入れていた。
家が見えなくなると不安になるので、家を中心に円を描くように森を歩いた。薄暗い森の中では、ミーリアの肌が発光して見えて、木の葉の間からわずかに漏れる陽の光を余すことなく取り込んでいた。
しばらく歩いていると、木の根元に人間の青年が倒れていた。泥にまみれ、脇腹を深く斬られ熱に浮かされて、片足を冥界に突っ込んでいる状態。
ミーリアは辺りを見渡した。どこから迷い込んだのかわからなかったからだ。この場所は世界からくりぬかれていて、獣ですら境界をまたいだことはなかったのに。
放っておけばいい、と最初は思った。
関われば平穏が崩れる。なのに諦めの混じったため息はもうこぼれていて、気づけば彼を抱えて家へ運んでいた。ミーリアより少し大きな男の腕を肩に回し、清潔な自分の寝台へ体を横にさせる。
ありったけの布と、井戸の水を用意して傷を洗い、糸を引いて縫う。熱冷ましの薬草を煎じ、乾燥して割れた唇に流し込む。誰に教わった手順でもないのに指は迷わなかった。
それが少しだけ怖かった。
血を布で拭ったとき、ミーリアの手が止まった。
(赤い……)
褪せた灰色の世界で、その血だけがぞっとするほど鮮やかな、生まれてはじめて見る色のようだった。
心臓がわけもなく速くなる。
彼女はその赤から目をそらし、布をきつく握って手当てを続けた。
青年は三日間、目を覚まさなかった。
その間、ミーリアは椅子に座り、机に額をつけて眠る日々だった。
時折彼は熱に浮かされてうわごとで誰かの名前を呼んでいた。森の外に、彼を待つ誰かがいるのだろう。それがなぜだか少しだけ胸に刺さった。
四日目の朝、青年はミーリアの寝台の上で目を開けた。
「……生きてる」
そうかすれた声でつぶやき、それからミーリアを見て彼ははにかむように笑った。
「あの、俺はアシュっていいます。助けていただきありがとうございます」
その笑顔を、ミーリアは正面から見られなかった。
なんて警戒心のない奴なんだと思いながら、ミーリアはアシュに背を向けた。
アシュはただの旅人だと言った。
街への帰り道で野盗に襲われ、命からがら森へ逃げ込み、気づけばこの場所に倒れていたのだという。なぜこんな場所に辿りつけたのか本人にもわからない。ただ、ミーリアに見つけられたことこそが、最高の幸運だったと笑った。
ミーリア自身もそう思った。あの傷で息があったことが奇跡で、そして自分がたまたま境界を踏み越えたという幸運。
「歩けるようになったらすぐ出ていきます。妹が待ってるので」
「そう」
ミーリアは短く答えた。
予定では目が覚めたら追い返すつもりだった。
「……それまでの面倒は見るわ」
そうして奇妙な二人の日々が始まった。まるで、ミーリアの乾燥した心に遠慮なく水が注がれ、再びひび割れるのを恐れるような日々が。
ミーリアはアシュの頭を膝の上に乗せて、彼の口元にスープの入った匙を近づけた。最初はとんでもないと断られたが、咳き込んで傷が開くことの方がもっと困ると脅すと、頰を赤らめながら大人しくなった。それから毎日食事の時はこうしていた。
アシュは従順に口を開けてスープを嚥下する。
「……ミーリアさんって、料理上手ですよね」
「これくらい普通」
「いやいや、俺が隣国で滞在した宿なんて酷いものでした」
アシュはその味を思い出したのか、口元に節張った手を当てて顔から血の気が引いていった。吐き戻すのかと思い、器を咄嗟に彼の顔の横に置いたが彼は恥ずかしそうに首を振った。
アシュはこういった、森の外の話や旅で見たものの話をよくしてくれた。
少し動けるようになると、傷口が完全に塞がったわけでもないのに勝手に部屋を掃除し、下手な手つきでスープを焦がした。
そして彼は時間があれば窓の外を見て、何でもないものを指さした。振り向かなければいいのに、その声にミーリアは振り向いて、彼の指さす方を見てしまう。
「あの葉、光に透けると金色です」
まるで子どもに色を教えるような声色でアシュは言う。ただ彼は思ったことを口に出しているだけなのだろうが、ミーリアにはそう聞こえたし、実際そう見えるようになった。
乾燥した心が、遠慮なく彼から与えられる水を吸い込んでいった。
「夕方の空、今日はすごい。橙と紫が混ざってる」
日々の些細なものにさえ、彼は色を見つけていた。
ミーリアはそれを可笑しく感じていた。
「あの花、よく見ると真ん中だけ青いんです」
それらはミーリアにとって、ずっと灰色だったものたちだった。
けれどアシュがそう言って指さすたび、その声に引きずられるようにミーリアの視界に入るものが増えていった。知っていたはずなのに、今更ミーリアは世界に色がついていることを知った気がした。
ミーリアはしばらくその花を窓越しに眺めた。
まだ外に出られないアシュの慰めになればと、ミーリアは花を手折って花瓶に刺した。なんの変哲もないこの花に、彼の心が癒せるのかと怪訝に思いながらも、ミーリアはひっそりと窓辺にその花瓶を置いた。
アシュはすぐに窓辺の花瓶の存在に気づいた。ミーリアは彼なら当然気づくだろうと思い、自然と口角が持ち上げられた。
「この花、採ってきてくれたんですね」
「べつに」
窓辺に彼の言う青色があるだけで、部屋の中が、主に彼の周りが色づいて眩しかった。
朝、椅子の上で目覚めると、今日アシュは何を見つけて笑うだろうと考えている自分がいた。退屈だった日々が、彼の手で壊されていくのを感じた。
一日に一度、ミーリアはアシュの傷の手当てをした。
はじめは膿んで熱を持っていた脇腹の刀傷も、日を追うごとにふさがっていった。赤黒かった傷口に薄い皮が張り、かさぶたが落ち、やがてつるりとした桃色の線になる。
初めて彼を拾ってからどれくらい経ったかはわからないが、布を巻き直しながら、ミーリアはその移ろいを不思議な心地で眺めた。
「随分、綺麗になった」
「ミーリアさんの薬のおかげです」
寝台に腰掛けるアシュは、口元から笑いをこぼしながらくすぐったそうに身をよじった。
「もう、ほとんど痛みません」
指先が彼の脇腹の素肌をかすめる。
あたたかくて生きていると思った。傷ついて、血を流して、それでも時が経てば人の身体は自分でふさがっていく。
アシュの傷がそれを教えてくれた。
ふと、ミーリアは自分の背の傷のことを思った。肩甲骨に縦に走る二本の傷。あれもきっと、ずっと昔にこうして痛んで、血を流して、それから時をかけてふさがったのだろう。
いつのことかも思い出せないが、自分もアシュと同じ、傷を負えば癒える人間なのだから。
そう思うとなぜだかほっとした。彼と同じように生きて、同じように歳をとって、同じように傷が治る。周りから阻害されたような場所で生きていたミーリアにとって、そんな当たり前のことが、たまらなく嬉しかった。
「……何か、いいことありました?」
アシュが顔を覗き込んでくる。
「べつに」
慌てて顔を背けたが、口元が緩んでいるのは自分でもわかった。
ミーリアはアシュの額を指で弾いた。
雨の降る日は小屋に二人きりだった。
アシュは寝台の上、下手な手つきで木を削って匙をこしらえ、ミーリアは椅子に座って繕い物をしながら時折彼の鼻歌に耳を澄ませた。言葉のない時間さえ、もう灰色ではなかった。
屋根に当たる雨音と、薪の水分が爆ぜる音と、すぐそばにある彼の気配。それだけで、部屋の中が仄かに色づいて見えた。
「我ながらいい出来だ」
アシュは出来上がった匙を高く上げて、誇らしそうにそれを見つめた。
「ここにある匙は全部わたしの手作りよ」
「なんと。……俺のは、劣るなあ」
アシュは顎に手を当てながらそう言い、ミーリアは顔を隠して肩を振るわせた。
「……それにしても、雨は冷えますね?」
「あら、なら薪を焚べましょう」
彼は意地悪気に眉をあげて笑いながらそう言った。ミーリアが笑っているのを見透かしているようで、肩が震えたのをアシュの冷え性のせいにした。
繕い物を机の上に置き、薪が置いてある場所へと向かう。
ミーリアが薪をかかえて屈んだとき、ずれた襟もとから背中の傷が覗いた。まさか見えているとは思っていなかった。そうとは知らずに暖炉のそばへ行き、熱せられた空気が悶々と漂うところへ薪を投げ入れた。
するとアシュの指が、そっと背中に触れた。
雨の音が一段と大きくなった気がした。足音のしなかった彼の気配と置かれた手に肩が跳ねたが、その手をわざわざ払いのけようとは思わなかった。
「……この傷、痛みますか」
「わからない」
アシュは自分の脇腹をさすりながら、いつもより低い声でそう尋ねてきた。ミーリアは顔を上げず、床に膝をついて薪を焚べた。
「いつからあるのかも、覚えてないの」
アシュはそれ以上は聞かなかった。
ただ、傷の上に温かい手のひらがそっと重ねられた。たったそれだけで、二本の傷が、これまで感じたことのない熱を持ってじくりと疼いた。
夜、暖炉の火を見つめながら、アシュはよく妹の話をした。
「気が強くて……。俺がいないと、すぐ無茶をするんです。早く帰らないと、またあいつを泣かせることになる」
アシュの火を見る目が、遠かった。
ミーリアは帰ればいいのに、と不器用にも思った。それだけ妹を愛しているのなら、こんな場所早く捨てて街へ戻ればいい。こんな閉鎖的で、吐き気がするほど退屈な場所から、アシュなんて消えてしまえばいい。
アシュの傷が治っていくのを見るたびに、ミーリアの心にはまた別の黒い気持ちが湧き上がってくる。
寝台のシーツをギュッと掴んだ。
「両親はもういないんです。だからあいつには、俺しかいない」
家族、という言葉がミーリアの胸にすとんと落ちてこなかった。
両親の顔も生まれた家も、いくら探っても記憶のどこにも見当たらない。
気がついたらただこの森にいて、それをずっと当たり前だと思ってきた。けれど、帰る場所を恋しがるアシュを見ていると、自分の胸の真ん中だけが、しんと空っぽなことに気づいてしまう。
「ミーリアさんには、家族は?」
「……もういないわ。たぶん」
言ってから、少しだけ笑ってみせた。
「でもきっと、どこかにいたのよ。覚えていないだけで」
そう口にして自分を慰めた。
だって自分も、アシュと同じ誰かの腹から生まれてきた人間なのだから。どこかに帰る場所が、待っていてくれる誰かが、きっとあったはずなのだ。
アシュはしばらく黙って、それからぽつりと言った。
「じゃあ、見つかるまで俺がここにいればいいですね」
「妹が待っているでしょう」
「俺は旅人です。少し帰りが遅くなっても問題はない」
暖炉の明かりのなかで聞いたその言葉は、ミーリアがこれまでに受け取ったどんなものより温かかった。愛する妹よりも自分を選んでくれたような気がして。
体力が少し戻って歩けるようになると、アシュは森の縁まで足を延ばすようになった。ミーリアは元々の生活に戻りつつあったが、アシュがいることへの違和感はもうなくなっていた。
ある昼下がり、木洩れ日の下で彼はふと西を指さした。
「ここを真っ直ぐ行くと海があるんです。夕陽が落ちる頃、海全体が橙に染まって波の先まで金色になる」
「へぇ」
洗ったばかりの衣服片手に、ミーリアはそれがどんなものかと想像した。
「……もっと歩けるようになったら、一緒に行きませんか。あなたに見せたいものがたくさんあるんです。街も、市場も、祭りの灯りも」
彼の真剣な声色が耳に入ってくるうちに、ミーリアの胸の奥がすうっと冷たくなった。
理由はわからない。けれど、この森を出ると想像した瞬間、足もとが崩れるような恐怖が突きあげた。
見えない手に、後ろから襟首を掴まれているような。
「……行かない」
思ったより硬い声が出て、ミーリアは視線を下へずらした。誤魔化そうと洗濯物を握り、バサッと音を立てさせた。
「わたしはここから出ない。ずっと、ここにいる」
アシュがきょとんと目を丸くした。それを尻目に、洗濯竿に洗濯物を通した。
「どうして? 何か理由が……」
「わからない」
ミーリアは、自分の腕を抱いた。震えそうな程強く腕を掴み、首を小さく横に振った。
「でも、だめなの。出てはいけない気がする。考えただけで、こわいの」
言ってから自分でも戸惑った。出てはいけないなんて、誰に決められたわけでもないのに、どうしてこんなにも身体がそれを拒むのだろう。
そもそもあまりこの外のことを考えたことがなかった。外に出なくても食料は箱から湧いて出てくるし、生活に必要なものだけは最初から全て揃っていた。
ここに慣れすぎているだけなのかもしれないが、いざ外のことを考えると、こんなに体がすくむとは思いもしなかった。
アシュはしばらく黙っていた。それから、それ以上は追わず、柔らかく笑った。
「わかりました」
彼は瞳の奥に炎を灯して、まっすぐにミーリアを見た。その視線が刺さる額が、じりじりと熱を帯び始めたのに気づいた。
「……だったら俺が持ってきます。外の世界を、全部、ここに」
ミーリアはハッとして顔を上げた。
その言葉の意味は、その夜にわかった。
動けるようになったアシュと日替わりで寝台に寝るようになり、今日はミーリアの番だった。窓辺には月明かりに照らされた青い花が煌々と輝いている。
花を眺めているだけなのに、頭の中に住人がいるかのような喧騒で、体も落ち着かないので寝返りを打った。
寝つけずに苛立っていると、戸口からアシュの声がした。
「ミーリア、ちょっとだけ出てきてくれませんか。森の中なら、いいでしょう?」
アシュは最近呼び捨てでミーリアを呼ぶようになった。なんだかそれが心地よくて、咎めることはしなかった。
言われるがまま寝台から足を下ろし、ミーリアは戸口へと向かった。外に出ると、冷たい空気が肌を撫でるように通り過ぎた。
アシュは草の上に寝転がって、それを見上げている。ミーリアは彼の視線を追って空を見上げた。そこには星たちがそれぞれ輝きを放っていた。
「街には連れていけないけど」
その落ち着いた声色の方に視線を戻すと、彼は自分の隣をぽんと叩いた。
「空なら、ここからでも同じものが見える。海の話、ここでします」
ミーリアは恐る恐る、その隣に身を横たえた。
肩が触れそうな距離で、頭の中の住人はいつのまにか口を噤んでいた。彼の体温が夜気のなかではっきりと伝わってくる。
「では海の話を……」
アシュは咳払いをして、話を始めた。潮の匂い、妹と砂浜を駆けたこと、祭りの夜、空に咲く火の花のこと。
彼の声は見たこともない景色を、ミーリアの胸の中にひとつずつ描いていった。
森を出なくても、彼の言葉のなかには世界中の色が詰まっていた。ミーリアはそれを聞くだけで、心が艶を取り戻していた。
「……綺麗ね」
彼の横顔を見て、思わず呟いていた。彼の話す景色のことか、彼の横顔について賛美したのかは自分でもわからない。ただ、心の底から綺麗だと思った。
「でしょう」
アシュが笑った。
「いつか、本物を……」
言いかけて、彼は口を噤んだ。
妹の待つ街へいつかは帰る身だと思い出したようで、約束はしなかった。
そのことが、なぜだかちくりと胸を刺した。
アシュもこちらを見た。
夜目にも、彼の瞳の色がわかった。
深くて、温かい茶色。ミーリアの世界に最初に灯った色のひとつでもある。
手を伸ばせば届く距離で、ふたりは息をするのも忘れてただ見つめ合っていた。
その瞳で何を見ているのか、いつかアシュと同じように自分の目で色を見つけ出すことはできるだろうか。それができるようになるには、誰の隣を望んでいるか伝えなければならないのか。
心臓が痛いほど鳴っている。
アシュの喉がこくりと動いた。彼の手がわずかに持ち上がり、けれど、ミーリアの熱を帯びた頬に触れる手前で止まった。
先に目をそらしたのは、ミーリアだった。
「……もう、寝ましょう」
立ち上がる声は、自分でもわかるほど震えていた。
その夜、ミーリアは寝台で長いこと眠れなかった。住人は星の中へ消えていったのに、胸の奥で名前を知らない色がゆっくりとけれど確かに滲みはじめていた。
背中の傷が疼くようになったのは、その頃からだった。




