浄化の塔
白い光の梯子を昇りきった瞬間。世界の音が、すっと遠ざかった。
大盤宮を満たしていた人々の悲鳴。割れた魔導灯の破裂音。泥のように逃げ惑う観客たちの地鳴りのような足音――その全部が、厚い水の向こう側へ深く沈んでいく。 代わりに、耳の奥へと滑り込んできたのは、低く一定な振動音だけだった。それはまるで、この乗り物、あるいは世界そのものが静かに呼吸しているかのような響きだった。
操縦席に座るロドが、振り返らないまま口を開く。 『ここから先は、外界の干渉は届かない』 硝子質の面具の奥から響く声は、どこか低く、現実味を欠いていた。 『境界層へ入る』
境界層。その言葉の意味を、カイはまだ知らなかった。 機体がゆっくりと、けれど凄まじい速度で上昇していく。窓外の夜の闇が、濃密な雲の海へと変わった。
そして、その雲を突き抜けた瞬間――“それ”は姿を現した。
白い塔だった。 漆黒の夜空のただ中へ、一本の針のように鋭く突き刺さっている。 月光をそのまま切り取って固めたかのように、静かで、酷く冷たい塔。その滑らかな表面には、見たこともない古い紋様が浮かび上がり、深海の生物のように淡く、規則正しく脈動していた。
隣で、エリルが小さく息を呑んだ。 「……綺麗」
その呟きは、どこか怯えていた。カイもまったく同じ心地だった。 綺麗すぎたのだ。人の手によって造られた建造物には、到底見えなかった。まるで、最初からこの世界に刻まれていた、巨大な“傷跡”のようでもあった。
音がなかった。機体は塔の中腹へと滑らかに吸い込まれ、着地の衝撃すら存在しなかった。あまりの静けさに、逆に心臓の音がうるさく感じられ、不安が首筋を這う。
プシュー、と微かな音を立ててハッチが開いた。 流れ込んできた冷たい空気に、カイは微かな既視感を覚えた。どこか懐かしい匂い。 古びて乾いた羊皮紙。すり潰した薬草。そして、雨上がりの冷えた石畳。 それらが奇妙に混ざり合った、酷く静かな匂いだった。
ロドが先に、音もなく床へと降り立つ。 『来い』
カイとエリルは視線を交わし、それから、ゆっくりと未知の床へ足を踏み出した。
塔の内部は、どこまでも白かった。 白い壁、白い床、天井を満たす柔らかな白い光。けれど不思議と、凍えるような冷たさはなかった。 むしろ、大盤宮での戦い以来、胸の奥でずっと荒れ狂っていた魔力と動悸が、少しずつ凪いでいく感覚すらあった。まるで塔そのものが、外界で乱れた彼らの呼吸を、優しく整えてくれているかのように。
遠くで、ゴーン、と鐘の音が響いた。 静かで、深くて、どこか気の遠くなるほど悲しい音色だった。
長い廊下の向こうから、白衣を纏った数人の女性たちが歩いてくる。誰も大声を出さない。その足音すら、布が擦れる程度に小さい。 その徹底された静けさに、カイは微かな息苦しさを覚えた。ここにいる人間は皆、自らの意志で“静かでいよう”と努めている――そんな、奇妙な切迫感が伝わってきたからだ。
歩調を緩めないまま、前を行くロドが言った。 『ここはスーラ・タワー』 短い、重い沈黙。 『侵食者の保護施設だ』
エリルの肩が、目に見えて小さく揺れた。「侵食……した人たちが、ここに?」 『正確には、“戻ってきた”人間たちだ』 ロドはやはり振り返らない。その声は淡々としていたが、静けさの底に、ひどく重い過去の澱が沈んでいるのが分かった。 『完全に壊れた人間は、自分の意志では戻れない。ここにいるのは、世界との境界を失いかけた人間たちだ』
境界。また、その言葉だった。 カイがその意味を尋ねようと口を開きかけた、その時。
廊下の奥から、タタタ、と小さな足音がこちらへ走ってきた。 白い衣に、短く切り揃えられた髪。小柄な少女だった。少女はロドの姿を視界に捉えた瞬間、その表情をぱっと灯りがともったように明るくした。
「ロドさん!」 ロドの面具が、ほんの少しだけ下を向く。『走るな。まだ治療中の身だろ』 「ご、ごめんなさい」
少女は慌てて足を止め、気まずそうに手を組んだ。 その顔を見た瞬間、カイは喉の奥で息を止めた。見覚えがあった。ロドがかつて語った、あの雨の夜の話に出てきた少女だった。 エリルも気づいたらしく、隣で小さく目を見開いている。 あれから数年は経っているはずだった。背も伸び、少し大人びてはいる。けれど、あの面影は確かに残っていた。
少女はカイたちに視線を向けると、少しだけ緊張したように背筋を伸ばし、お辞儀をした。 「……こんにちは」
それは、かつてのような歪な作り笑いではなかった。けれど――笑みを浮かべる直前に、ほんの一瞬だけ、どう笑えばいいのか迷うような独特の癖が、今の彼女にも残っていた。
ロドが少女を見下ろしたまま、静かにカイたちへ告げる。 『深度接触者だ』 言われた少女は、自嘲するわけでもなく、静かに視線を落とした。 『激しい侵食を受けたが、完全には壊れなかった』
少女は己の胸元を細い手で小さく握りしめながら、寂しげに、けれど確かに微笑んだ。 「ここ、本当に静かだから」 少し言葉を選ぶように、ぽつり、ぽつりと間を置く。 「前いた場所より……ちゃんと、息ができるの」
その言葉に、エリルがいたたまれないように小さく目を伏せた。 彼女の生きる世界の静けさは、穏やかさゆえのものではない。これ以上感情を乱せば、再びあの怪物の声に呑まれてしまうという、薄氷を踏むような生存の選択なのだ。
廊下をさらに進む。その途中、大きな窓際に一人の人影が立っているのが見えた。 じっと動かず、外のセピア色に近い夜空を見つめている。 窓から差し込む淡い光の中で、その人物の白い髪が、まるで発光しているかのように静かに輝いていた。
カイは無意識のうちに、足を止めていた。 気配が、明らかに違った。 ロドや、他の白衣のスタッフたちとも違う。もっと古く、もっと圧倒的に静かな――世界の成り立ちそのものを抱え込んでしまったかのような、異質な人間の気配。
その人影は、こちらを振り返ることはしなかった。ただ、自分たちの存在を確実に感じ取っていることだけが、肌を刺す空気で分かった。
「……誰、ですか?」 エリルが、消え入りそうな声でロドに尋ねる。 「このタワーで、最も長く“ここ”にいる人間だ」 ロドはそれ以上足を止めず、冷淡に歩き出した。「今は話しかけるな」
廊下を進みながら、カイは一度だけ、どうしても気になって後ろを振り返った。 あの白い髪の人影は、やはり微動だにせず、ただ静かに窓の外の闇を見つめ続けていた。
ロドがカイたちを促すように視線を向け、その声のトーンを一段と低くする。 『スーラ・タワーは、“沈黙によって心が壊れた者”を、かろうじて繋ぎ止めるための墓標のような場所だ』 その言葉が、二人の胸に重く突き刺さる。 『だが、お前たちは違う』
廊下の空気が、張り詰めたように一瞬で凍りついた。 遠くで鳴り響いていた鐘の音の残響だけが、長い尾を引いて二人の耳の奥で震えている。
『お前たちは、沈黙のままで――互いを繋ぎ止めた』
カイとエリルは、言葉を失って立ち尽くした。自分たちが大盤宮の盤上で、そしてこの何年もの間で守り続けてきたあの距離が、どれほど異質な奇跡だったのかを、ロドの言葉が暴いていく。
ロドは硝子質の面具越しに、じっと二人を見つめた。
『だから――“女王”はお前たちを、決して見逃さない』
その瞬間。 カイの頭の奥で、あの色のないセピア色の草原が、陽炎のように一瞬だけ激しく揺れた気がした。
ロドはそれきり背を向けると、白い廊下の最奥、さらに深い闇が口を開ける部屋に向かって、ゆっくりと歩き出した。
『来い。――すべての真相を話す』




