境界の外へ
塔の最上階は、天井のない夜空へと完全に剥き出しになっていた。 頭上には、大盤宮の幻影とは違う、本物の星々がどこまでも冷たく、静かに広がっている。気の遠くなるほど遠い夜の深淵だった。
部屋の中央には、一台の巨大な戦略棋盤が鎮座していた。だが、大盤宮の豪奢なそれとは明らかに違っていた。 もっと、気の遠くなるほどに古い。 盤面の木目は黒く沈み込み、長い年月を吸い込んだかのように鈍く光を放っている。近づいただけで、周囲の空気がわずかに震えるほどの圧倒的な存在感があった。
エリルが小さく息を呑む。「……すごい魔力」
ロドは盤の前へ歩み出ると、躊躇うことなくその面具へ手をかけた。 カチャリ、と乾いた音がして、硝子質の仮面が外される。 そこに現れたのは、酷く疲れ切った、一人の青年の素顔だった。ただ、その瞳だけが異質なほど鋭い。まるで、もう何年もの間、まともな眠りを与えられていない人間のような目をしていた。
『座れ』
促されるまま、カイとエリルは盤の前へ腰を下ろした。 ロドが手袋を外した指先で、静かに黒い盤面へ触れる。その瞬間、蒼白い光の帯が盤全体へと滑らかに広がっていった。 光が形を結び、駒が立ち上がる。王、兵、騎。どれも半透明で、まるで剥き出しの光の骨を見ているようだった。
『侵食は、弱い人間だけに起きるわけじゃない』 ロドが静かに、己の過去をなぞるように言う。『むしろ逆だ。誠実な人間ほど、より深く、あそこまで落ちる』
駒が一つ、意思を持つように前へ進んだ。盤面へ、小さく波紋が走る。 『慎み深い人間。責任感の強い人間。思いやりの強い人間。――自分の感情を押し殺す人間』 ロドの昏い視線が、盤上へ落ちた。 『そういう人間は、自分の受けている痛みよりも、献身と理想を無意識に優先する』
進んだ駒の表面が、砂のように静かに削れていく。 『女王は、その摩耗の隙間へ、滑り込むように入り込んでくるんだ』
カイは、無意識のうちに膝の上で拳を強く握り締めていた。 婦人の前で心を乱すな。誠実であれ。慎み深くあれ。分をわきまえろ。 幼い頃から、高潔な教えとして胸の奥へ打ち込まれていた言葉たちが、今、おぞましい怪物の輪郭へと形を変えていく。
エリルが、縋るような声を小さく漏らした。「……じゃあ、私たちが今まで正しいと信じて目指してきたものは、何だったの?」
『間違いじゃない』ロドは即座に、強くそれを否定した。 『だが、“正しさだけ”で人間を縛り、閉じ込めれば、最後には誰も呼吸ができなくなる』 その声だけが、微かに低く揺れた。 『ここへ来る連中は、皆そうだ』 ロドがゆっくりと視線を上げる。 『――ただ、ちゃんとしようとして、壊れたんだ』
部屋に、重苦しい静けさが落ちた。 カイは、この塔へ来てから目にした人々の姿を思い出していた。大声を出さず、足音を殺して歩く白衣のスタッフたち。笑う前に、どう笑えばいいのか迷っていたあの少女。誰も声を張り上げない、徹底された静寂の塔。 ここは――“静かすぎる人間”ばかりが集められた、魂の避難所なのだ。
ロドが、真っ直ぐにカイたちを見つめた。 『だが、お前たちは違った』
その瞬間、盤面の上に二つの小さな光が現れた。 互いへ近づきながらも、決して衝突しない。絶妙な、けれど頑強な距離を保ったまま、二つの光は盤上を巡り続けている。
『お前たちは、互いの境界線を決して壊さなかった』ロドの声が、静かに響く。 『近づきすぎず、踏み込みすぎなかった。だからこそ、あの侵食領域の底にあっても、精神が融解せず、自我を繋ぎ止めることができた』
カイとエリルは、言葉を失ってその光を見つめた。 あの沈黙。あの、どうしようもなく不器用で、もどかしかった時間。自分たちを縛る呪いだと思っていたあの距離こそが、皮肉にも二人を救う絶対の杭になっていたのだ。
『女王はお前たちを放置しない』ロドが冷酷な現実を告げる。 『世界を侵食するあの理を、内側から壊す可能性を持っているからだ』 盤面の中央で、どす黒い霧がゆっくりと広がり始める。その立ち上る霧の形は、どこか、あのセピア色の草原で見た長い髪の女のシルエットに酷似していた。
『だが、今のお前たちは世界の中で目立ちすぎている。狙われやすい状態だ』 ロドが盤面から手を離すと、光の駒たちは一瞬で消え去った。 『一度、戻れ』
カイは弾かれたように顔を上げた。「……戻るって、どこへ?」 『日常へだ』ロドは淡々と言った。『大盤宮の事件の直後に、二人の重要人物が急に姿を消せば、逆に侵食側へ居場所を教えることになる』
エリルが不安そうに、長く美しい睫毛を伏せた。 『頭の中に残るノイズを落ち着かせろ。自分の生活へ戻り、まずは自分自身の呼吸を思い出せ』
そこまで言うと、ロドは黒い外套の内側から、小さな銀色のペンダントを二つ取り出した。その中央には、心臓のように薄い蒼光を宿した鉱石が埋め込まれている。 『持っていけ』 カイとエリルへ、それぞれの手のひらへと渡される。触れた石はひんやりと冷たかったが、不思議と嫌な冷え方ではなかった。
「これは……?」 『水が入り口となる』 「水?」 『川でも、街の井戸でもいい』ロドが短く答える。『このペンダントを握り締めたまま、その身を水面へ沈めろ。スーラ・タワーの鏡面へと接続される』
エリルが小さく息を呑む。 『だが、むやみに使うな』ロドの目が、警告を帯びてわずかに鋭くなった。 『――お前たちをこちらへ呼ぶかどうかは、俺が決める』
その言い方はどこまでも冷徹だった。だが、カイたちには分かった。これは突き放されているのではない。いつでもここへ“戻る場所”を、彼は手渡してくれたのだ。
――タワーを発つ時、あの短髪の少女が、白い廊下の奥から小さく手を振ってくれていた。やはりまだ少しぎこちない、けれど、剥き出しの本物の笑顔だった。エリルもまた、小さく愛おしそうに手を振り返した。
次の瞬間、純白の光が視界を優しく包み込み――。 気がつけばカイたちは、元の王都の地上へと戻されていた。
頬を撫でる夜風。頼りなく明滅する街灯。遠くから聞こえる、日常の喧騒。 世界は、何一つとして変わっていなかった。それなのに、自分たちだけが、もう誰も知らない世界の裏側を見てしまったのだという奇妙な断絶感が、胸を重く満たしている。
カイとエリルは、誘われるように自然と、街外れにある静かな噴水公園へと足を向けていた。 ザー、と絶え間ない水音だけが周囲を包み込んでいる。 二人は、古びたベンチへと並んで腰を下ろした。
まだ、まともな言葉はうまく出てこなかった。けれど、それはあの頃のような、胸を締め付ける苦しい沈黙ではなかった。
エリルが、小さく噴水の水しぶきを見つめながら、ぽつりと言った。 「……なんだか、変な感じだね」 「何が?」 「こうして、ちゃんとカイと話せているのに……まだ、少しだけ緊張しちゃうところ」
カイは思わず、小さく吹きこぼすように笑ってしまった。エリルもそれを見て、少しだけ悪戯っぽく笑う。
その時だった。
コツ、コツ、と。 夜の静寂を切り裂くような、硬く上品な靴音が、公園の石畳へ響き渡った。
「あら、あなたたち――」
聞き覚えのある、酷く耳に馴染んだ声だった。 カイたちが弾かれたように顔を上げると、そこに一人の婦人が立っていた。 高等部時代の恩師――マダム・レイラ。
丁寧に仕立てられた上質な婦人服。一切の崩れもない整った化粧。 それは、彼らが学院にいた頃と何一つ変わらない、完璧で隙のない微笑みだった。
「エリルさん。相変わらず、本当に綺麗ね」 それから、レイラの視線が、ゆっくりとカイへと移動する。 「あら……もう一人は、確か……」 数秒、記憶を辿るように上品に首を傾げてみせる。「カイ君、だったかしら?」
「あ……お久しぶりです、先生」 カイが咄嗟に頭を下げると、レイラ夫人は慈愛に満ちた笑みを深めた。けれど――その視線は、妙に長く、深く、カイたちの間にある絶妙な“距離”を観察するように見つめていた。
「あなたたち、実は仲が良かったのね」 その言葉に、エリルの肩がわずかに強張る。 「学院にいた頃、あなたたちが言葉を交わしているところなんて一度も見たことがなかったから……少し驚いてしまったわ」
その声はどこまでも穏やかで、優しかった。かつて、自分たちを正しく導いてくれた、あの懐かしい教師の声そのもの。なのに、カイの胸の奥で、毒を流し込まれたような嫌なざわめきが急速に広がっていく。
「まあ、でも……」 レイラ夫人が、ゆっくりと、さらに深く笑う。 「エリルさんは本当に優しい子だから。……断れなくて、そこにいるのかもしれないわね」
空気の温度が、一瞬で凍りつくように冷えた。 「……先生?」 エリルが戸惑いと拒絶の混ざった声を出す。
けれど、夫人はその異変に気づかないかのように、朗々と言葉を続けた。 「人にはそれぞれ、向き不向きというものがありますもの。――無理をして、自分に合わない身の丈以上の場所へ、わざわざ行く必要なんてないのよ、カイ君」
ドクン、と。カイの心臓が、嫌な重低音を立てて跳ねた。
「静かに、自分にふさわしい身の丈の場所で生きること。それもまた、立派な“誠実”というものよ」
その言葉。その、人間を優しく否定する響き。 胸の奥へ、あの冷たい泥水のようなものが一気に入り込んでくる。 婦人の前で心を乱すな。慎み深くあれ。分をわきまえろ。お前のような者が、彼女の隣に立つな――。 頭の奥で、セピア色の世界で囁いていたあの“女”の声が、今のレイラ夫人の言葉と、不気味なほど完璧に重なり合っていく。
レイラ夫人は、まだ笑っていた。上品に、どこまでも生徒を想う慈愛の顔で。 けれど――その瞳だけが、生気を失ったガラス玉のように、妙に空虚だった。 一切の感情が抜け落ちたその瞳。そして、白く美しい夫人の首筋の皮膚の下で。
どす黒い線のようなものが、ドクンドクンと、歪に脈打った。
エリルが、ハッと息を呑む。 その瞬間、彼女はすべてを理解したのだ。
かつて自分たちに気高い“美徳”を教えていた最愛の恩師が。 今、その美徳の呪いによって――内側から、深く侵食されているということを。




