十人目の孤独
機体の内部は、驚くほどに狭かった。 湾曲した壁面には細い銀線が走り、淡い蒼光が心臓の鼓動のように規則正しく脈動している。
エリルが、そっと小さな手で額を押さえた。まだあの侵食の残響が、彼女の脳裏を苛んでいるのだろう。カイもまた、頭の奥に時折ちらつくあの草原の残像を必死に振り払っていた。セピア色の空、痩せ細った地平線、そして、長い髪のあの女。
飛行の轟音が狭い車内に鳴り響く中、カイは視線を前に向けたまま、静かに問いかけた。
「……なぜ、俺たちを助けた」
正面の操縦席に座る人物は、すぐには答えなかった。しばらくの間、機体の重々しい振動音だけが、対話の拒絶のように室内に響き続ける。
『ロドだ』
それだけだった。低く、地を這うような声で、名前だけが返ってきた。
「……俺には、理由がある」
長い沈黙のあと、ロドはようやく、言葉を絞り出すように続けた。 「昔、助けられなかった奴がいた。――雨の日だった」
その言葉に、エリルが隣で小さく息を呑む。ロドの視線は、硝子質の面具の向こうで、はるか過去の景色を見つめているようだった。
ロドは、昔から他人の頼みを断るのが致命的に苦手な男だった。 頼まれれば二つ返事で引き受け、揉め事があれば身を挺して間に入る。どれほど心身が疲弊していても、他人の前では決して崩れず、ただ穏やかに笑う。そういう人間だった。
「悪いな、ロド」「本当に助かったよ」 誰もが彼を重宝し、口々に感謝を述べた。ロドもまた笑った。他人から必要とされることは、何より善いことだと信じていたからだ。酒場の仲間たちも、彼のその実直さを好んでいた。
正確には――彼らはロドを“使いやすい道具”として好んでいたのだ。 遅番のシフトを理不尽に押し付けても怒らない。急な穴埋めを頼んでも絶対に断らない。誰かが不手際を仕向けば、黙ってその責任を肩代わりしてくれる。
「ロドなら大丈夫だからな」 皆が気楽に笑い、ロドも同じように笑った。その言葉の刃に、少しだけ救われている自分がいた。だからこそ気づけなかったのだ。そうして都合よく消費されるたびに、自分の心という輪郭が、少しずつ削り落とされていることに。
閉店後の酒場は、肺が痛くなるほど静かだった。 外は雨が降っている。薄暗い店内には、ロドが床を拭く規則正しい雑巾の音だけが空虚に響いていた。 その時、厨房の奥から店主の呑気な声が飛んできた。
「悪いロド! 明日の朝番、急に代わってくれねえか!」
ロドは反射的に顔を上げた。断ろうとした。本当に、胸の針がほんの一瞬だけ拒絶を示した。だが。 「ああ……いや、無理ならいいんだ。お前、最近ちょっと疲れてそうだしな」 店主の、申し訳なさそうな、困ったような声。
その瞬間、ロドの脳裏よりも早く、肉体が反射的に笑顔を作っていた。 「ああ、大丈夫です。いけますよ」
店主がホッとしたように顔を綻ばせる。「助かるよ!」 ロドもまた笑みを返す。そう微笑みながら、ロドは自分の胸の最奥にある何かが、また少しだけ凍りついていくのを感じていた。
帰り道。雨に濡れた石畳を、ロドは一人で歩いていた。 街灯の淡い魔導光が、濡れた水たまりへ白く、冷たく滲んでいる。 本当は、ずっと前から限界だった。身体も、心も、とうに。
「……少し、疲れたな」
ぽつりと、夜の闇に本音をこぼした、その瞬間だった。 頭の奥の暗がりに、誰かの声が、滑り込むように囁いた。
――その程度で、心を乱すな。
ロドは足を止めた。ひどく冷徹で、感情のない女の声。けれど、その響きは、当時のロドにとって妙に心地よく、甘美だった。
――周囲を困らせるな。誠実であれ。
耳を打つ雨音が、ふっと遠ざかる。脳髄の奥が、奇妙なほど静まり返っていく。 そうか、疲れていることすら、考えなければいい。苦しいという事実を、口に出さなければいいのだ。 己の感情をすべて押し殺してしまえば、世界の調和は保たれ、何も壊さずに済む。
その日を境に、ロドはますます静かになっていった。 決して怒らず、疲れたと言わず、苦しいとも言わない。 誰よりも冷徹に働き、誰よりも早く動き、誰一人として他者に迷惑をかけなかった。周囲の人間は彼を絶賛した。
「最近のロド、本当にすごいよな」「彼こそ本物の、誠実な人間だ」
ロドもまた、彼らの理想通りの笑みを浮かべ続けた。ただ、その瞳の奥だけが――生気を失った水底のように、ひどく静かだった。
そして、ある雨の日のことだった。 酒場の近くの薄暗い裏路地で、男たちの怒号が上がった。雨は、昼からずっと執拗に降り続いていた。 石畳の隙間にはどす黒い泥水が溜まり、路地の奥は、昼間だというのに夜の底のように暗かった。
若い男たちが、一人の少女をいびるように囲んでいる。身寄りのない、うらぶれた旅の少女だった。年齢は、まだ十二か十三か、その程度。 泥の跳ねた頬を拭うこともできず、雨に濡れた外套を小さな両手で必死に握りしめて立っていた。
彼女は、身に覚えのない盗みの罪を着せられていた。本当に盗みがあったのか、その真相などロドには分からなかった。ただ、ひとつだけ明白な事実があった。その少女には、彼女を命懸けで守ってくれる人間が、この街に誰もいないということだ。
その時、横にいた酒場の仲間の一人が、縋るようにロドの肩を強く掴んだ。
「頼むロド……お前が、“あの子が盗むのを見た”って証言してくれ」
男の顔は、恐怖で青ざめていた。 「相手はあの衛兵隊長の息子なんだよ。逆らったら、俺たちの店なんか一瞬で潰される!」 別の仲間も、泣きそうな声でロドにすがりつく。 「お前なら分かってくれるだろ? 皆が困るんだよ」「なあ、頼む、ロド。お前の一言で全部丸く収まるんだ」
ロドは、唇を戦慄かせて立ち尽くした。言葉が出てこない。 頭の奥の暗闇で、いつものあの心地よい声が、優しく囁きかけてくる。
――波風を立てるな。皆を困らせるな。ただ、誠実であれ。
それは、彼をいつも救ってくれた静寂の声だった。従えば、何もかもが楽になる。考えるのをやめ、誰かの期待する“正しさ”に、自分という器を差し出していればいい。
ロドは、泥を浴びた少女を見つめた。 少女は全身を小刻みに震わせ、怯えきっていた。だが――彼女は決して泣かなかった。泣かないように、必死で己の心を殺しているのだと、ロドには痛いほど分かった。 小さな唇を強く噛み締め、それでもなお、周囲を安心させるように表情を整えようとしている。
ロドと、その少女の視線が、雨の中で真っ直ぐに交わった。
その瞬間だった。少女は、ふっと唇を綻ばせてみせたのだ。 それは、あまりにも下手くそな、痛々しい作り笑いだった。 決壊しそうな泣き顔の上へ、無理やり貼り付けたような、歪な笑み。
「……いいの」
小さな、掠れた声だった。激しい雨音に、今にも溶けて消えてしまいそうな声。
「うん。大丈夫だよ。わたし、平気だから」
少女は、自分自身に言い聞かせるように、何度も何度も小さく頷いた。 「みんなが……みんながうまくいくなら、わたし、これでいいの」
その言葉が鼓膜に触れた瞬間、ロドの胸の奥で、何かが致命的な音を立てて停止した。
少女はまだ幼かった。 誰かを守るための誠実の価値も、痛みを一人で引き受ける覚悟も、大人の社会の都合にその身を差し出す不条理も、本当は、何も知らなくていいはずの年齢だった。 それなのに。 彼女はもう、知ってしまっていたのだ。 自分が我慢すれば、この場が丸く収まることを。自分が無理に笑えば、周囲の大人が安心することを。 自分が理不尽に傷ついたまま黙ってさえいれば、世界が“正しく”回るのだということを。
小さな身体を激しく震わせながら、それでも少女は、周囲の期待に応えるために、健気に笑おうとしていた。
「わたし、本当に平気だから……っ」
ロドは、息の仕方を忘れた。彼の中で長年冷え切っていた鉄の杭が、みしりと音を立てて軋み始める。
周囲の男たちは、安堵したように大きな息を吐き出した。 「ほら見ろ、本人もこう言ってるじゃないか」「な? 頼むよロド。お前が一言、嘘でもいいから証言してくれれば、それで全部『済む』んだ」
済む。その言葉だけが、異様な反響を伴ってロドの脳裏にへばりついた。 何が、済むのだろう。誰の都合の上が。何を犠牲にして、終わったことにするのだろう。
頭の奥で、あの女の声が、狂おしいほど柔らかく木霊する。
――そうだ。この子も分かっている。正しい子だ。周囲を困らせない、本当に良い子だ。
ロドは少女を見た。少女はまだ、あの痛々しい作り笑いを浮かべたままでいた。けれど。 その目からは、雨なのか、それとも堪えきれなくなった涙なのか分からない熱い雫が、幾筋も幾筋も頬を伝って流れ落ちていた。
その瞬間だった。
ロドの心根に、生まれて初めて、烈火のような拒絶の感情が湧き上がった。 そんな顔で子供を笑わせてまで守る平穏が、そんな嘘で成り立つ調和が、一体何が正しいというのだ。
答えなんて出なかった。正義が何なのかも、何が誠実なのかも、何一つ分からなかった。 ただ。ひとつだけ、世界の何よりも明確に分かった。 この子に、今、その顔をさせているのは、他でもない俺たちの“誠実”という名の保身だ。
ロドは、ゆっくりと、震える喉を開いた。
「……やめてください」
声は情けないほど小さく、惨めに震えていた。だが、激しい雨音を割って、確かにその場に響き渡った。 仲間たちが、驚いたように一斉に振り返る。「ロド……?」
ロドは、少女の泣き顔から、二度と目を逸らさなかった。 「その子に……そんなこと、言わせないでください」
誰かが露骨に舌打ちをした。「おいロド、お前、自分が置かれてる状況が分かってんのか?」 「分かりません」ロドは正直に言った。「でも――」 喉の奥が、何かに締め付けられるように詰まる。頭の奥の女の声が、一瞬にして刺すような冷気へと変貌した。
――黙れ、愚か者が。
ロドは、その制止を無視して叫んだ。「その子、あんなに怖がってるじゃないですか……っ!」
刹那、路地に重苦しい沈黙が落ちた。 それはあまりにも拙く、子供じみた言葉だった。誰かを論破する論理もなければ、大義名分を語る力もない。ただ、目の前にある残酷な事実を、見たままに叫んだだけの剥き出しの言葉。
けれど。
その拙い一言が触れた瞬間、少女の顔に張り付いていたあの歪な作り笑いが、くしゃりと音を立てて崩れ落ちた。彼女は、堰を切ったように激しく泣き崩れた。 ロドは、その本物の顔を見てしまったのだ。もう、引き返せるはずがなかった。
「僕は……何も見ていません」 男たちの顔色が、一瞬で怒りと焦燥に変色する。「ロド!」 「見ていないものを、見たとは言えません」
言い終えた時、ロドは自分の両膝が、情けないほどガタガタと震えていることに気づいた。怖かった。本当は、死ぬほど怖かったのだ。人から嫌われることが、責められることが、自分のせいで誰かを困らせてしまうことが。それでも。
「……嫌です」
その拒絶の一言だけは、人生で初めて、はっきりと自分の意志で放たれた。
次の瞬間、脳髄を直撃するような、凄まじい激痛が走った。
――愚かな、人形風情が。
頭の奥で、あの女が冷酷に嘲笑った。視界が一瞬にしてあのセピア色へと染まり、狂ったような耳鳴りと激しい吐き気が襲う。皮膚の下を、どす黒い侵食の線が生き物のように蠢き、脈打ち始めた。
「う、あ……っ、あぁ……!!」
激痛に耐えかね、ロドはその場に生々しく膝を突き、崩れ落ちた。 周囲の男たちは、彼のその異変を見るや、化け物を見るかのような目で怯え、一斉に距離を取った。誰も近づこうとしない。誰もその手を差し伸べない。 ただ一人、あの少女だけが、泣きながらロドへと小さな手を伸ばそうとした。けれど、すぐに冷酷な大人の腕によって後ろへと引き戻される。 「関わるな、行くぞ!」
誰かの冷え切った声が聞こえ、ロドは冷たい泥水の中へと完全に倒れ込んだ。頭の奥では、あの女の声が狂ったように反響している。
――誠実でいろ。周囲を困らせるな。黙って、ただ人形のように笑え。
苦しくて、痛くて、肺が潰れそうで息もできなかった。けれど。 泥水に顔を伏せながら、ロドの心は、なぜか奇妙なほど深く、静かに安らいでいた。
ああ。今。俺は初めて、ちゃんと、自分の意思で苦しんでいる。 これまでの人生、俺は苦しむことすら自分に許していなかった。疲れたと言わず、嫌だと言わず、助けてくれとも言わず、ただ都合の良い人形のように笑っていたのだ。
だが、もう、二度とあんな風には笑えない。
「……うるさい」 泥に塗れた石畳へと血の滲む手を突き、ロドは低く、地を這うように呟いた。 「俺は……」 息が切れる。言葉が形にならない。
女の声が、頭の奥で冷酷に宣告する。 ――お前のそんな無力な誠実など、誰の役にも立たない。お前が拒めば、世界が困る。お前一人が我慢すれば、すべての人間が救われるのだ。
ロドは、割れそうな奥歯を血が出るほど食いしばった。目に入り込む雨水が痛い。吐き気のする泥の匂いがする。 はるか遠くで、あの少女が、もう笑うこともできずに、小さな声で激しく泣きじゃくっている気配がした。 その、彼女の剥き出しの涙の声だけが、混濁するロドの意識を、この世界に繋ぎ止める杭となった。
「違う……っ!」 ロドは初めて、頭の奥の絶対的な女の声に、全力で言い返した。 「俺が我慢したって……誰も、救われてなんか、なかった……!」
脳髄の奥で、何かが決定的に軋みを上げる。 「ただ、俺という人間が……都合よく、消されていただけだ……っ!!」
刹那、女の声が、金切り声のような激しいノイズへと変貌した。視界を覆うセピア色の草原が、ガラスが割れるように激しく歪み、揺らぐ。 ロドは泥の中で、骨が軋むほどに拳を強く握り締めた。
「俺だって、疲れる……!」声は惨めに震えていた。「嫌なものは、嫌なんだ……っ!」 呼吸が狂い、血を吐くような苦しみの中で、それでも、彼は最後の一言を叩きつけた。
「それを口にしたら壊れてしまうような誠実なら……そんな偽物、もう、いらねえ……!!」
その瞬間だった。 バツン、と。頭の奥深くで、頑強に自分を縛り付けていた精神の鎖が、音を立てて千切れ飛んだ。 どす黒い侵食の霧が、ロドの身体から一気に噴き出し、雨の夜空へと激しく霧散していく。狂ったような耳鳴りが、潮が引くように消え去った。
ロドは激しい呼吸を繰り返しながら、泥まみれの身体を支え、ゆっくりと、己の足で立ち上がった。
雨は相変わらず降り続いていた。世界は、何一つとして変わっていない。 かつての仲間たちは、もう誰もロドを見ていなかった。少女もまた、誰かに連れ去られるようにして、暗い路地の向こうへと消えていくところだった。
最後に一度だけ、少女が遠くから振り返った。 それは、涙でぐしゃぐしゃに泣き腫らした、醜いほどの素顔だった。あの歪な作り笑いは、もうどこにもなかった。 ――それだけで、十分だった。
ロドは雨の中で、ただ一人立ち尽くしていた。 あの少女を救えたのかは分からない。世界の何かを正せたのかも、何一つ分からない。 ただ。もう、誰かのために無理に笑わなくてもいいのだということだけが、彼の胸に深く、静かに染み渡っていた。
——後に、ロドはその少女に名をつけた。ルウ、と。
数年後。
王都大盤宮の漆黒の天蓋を、一台の黒い機影が猛烈な速度で駆け抜けていく。 蒼白い魔力輪、尾を引く白い残光。硝子質の面具を纏ったその男は、冷徹な動きで垂直の壁面を疾走していた。
ロドは、眼下の対局場に立ち尽くす、二人の若者の姿を見下ろした。 互いの不器用な距離を見つめ合いながら。その手を繋ぎ、壊れずに、ただ真っ直ぐに立っている二人。 それは、かつての自分には、どうしてもできなかった顔だった。
『……なるほど』 面具の奥で、ロドは小さく、愛おしむように呟いた。 『まだ、そんな風に……壊れずに、繋がれる奴らがいるのか』
それから彼は、愛機の速度を静かに減速させた。 崩壊へと向かう大盤宮の、光を失った暗闇の底へと――彼らを迎えるために、静かに降下していった。




