浸食
『――お前たち、何を見た』
硝子質の面具の奥から投げかけられたその問いは、声というよりは、剥き出しの冷たい刃物のようだった。
大盤宮の空気はいまだ混乱に震えている。割れた魔導灯の残骸。逃げ惑う観客たちの怒号。鼓膜を刺す耳鳴りのような高周波。そのすべてから完全に切り離されたかのように、黒装束の人物だけが静寂を纏っていた。
エリルの肩が、小さく震えている。カイもまた、いまだにまともな呼吸を整えられずにいた。頭の奥には、さっき見たあの草原の残像がねっとりと張り付いている。色を失ったセピア色の空。痩せ細った地平線。そして、長い髪の――あの“女”。
『答えろ』面具の人物が静かに促す。『侵食領域へ落ちた人間は、通常、会話すら成立しない』
カイは喉を動かそうとして、一度失敗した。口腔は砂漠のように乾ききっている。 それでも、肺腑から無理やり声を絞り出した。
「……草原だ」
隣で、エリルが小さく息を呑む気配がした。
「色のない、セピア色の草原……その真ん中に、女が立っていた。身体の内側が、星図みたいに光っていたんだ」
言い終えた瞬間。面具の人物の動きが、ほんのわずかに止まった。 首元を走る銀線が、警告を告げるように一瞬だけ鋭く明滅する。
『……深いな』
初めて、その無機質な声へ、微かな感情が混じった。
『あそこまで深く降りて、なお自我を保ったというのか』
面具の人物が、ゆっくりとこちらへ歩を進めてくる。絨毯を踏む足音すら一切しなかった。
『侵食は、人間の弱さから始まるわけではない』
静かな、けれど残酷な事実を告げる声だった。
『むしろ逆だ。慎み深さ、誠実さ、責任感。他者を思いやる心――そういう、人間が“美徳”と呼ぶものへ好んで寄生する』
その瞬間、カイの胸の奥で、何かが悲鳴を上げるように軋んだ。 婦人の前で心を乱すな。誠実であれ。慎み深くあれ。 幼い頃から、古い英雄譚に憧れる自分の内側へ、楔のように打ち込まれていた戒めの声。 あれは――ただの頑なな性格ではなかったのか。
『感情を押し殺す人間ほど、侵食は深くなる』 『痛みを黙って抱え込む。疲弊しても他者のために笑う。それでも理想を目指す。そういう人間ほど、“あれ”にとって都合のいい器はない』
エリルが、小さく俯いた。 彼女もまた、昔からそうだった。言葉にしない。迷惑をかけない。静かに微笑んで耐える。 そしてカイたちは、互いへ何も言えないまま、何年ものあいだ不器用な沈黙だけを抱えていたのだ。
『だが、お前たちは戻ってきた』面具の人物の声が低くなる。『互いを繋ぎ止めながら』
カイは思わず息を止めた。
『普通なら、侵食領域で直接接触した精神は例外なく崩壊する。己と他者の境界線が融解し、混ざり合ってしまうからだ』 『だが、お前たちは違った』
沈黙。それから、面具の人物は小さく首を振った。
『――互いの“距離”を、正しく知っていた』
胸の奥で、何かが小さく、決定的な音を立てて鳴った。 距離。踏み込めなかった。触れられなかった。だからずっと、互いの境界線を壊してしまわないように、ただただ黙っていた。 情けないと思っていたその臆病さが。結果として、混濁する侵食の世界の底で、カイたちの精神を繋ぎ止める絶対の杭になっていたのだ。
『皮肉なものだ』面具の人物が、かすかに視線を落とす。『壊れるほど不器用だったその沈黙が、お前たちを生還させた』
キィィィィィン。
その時、再びあの不快な高周波が大盤宮の館内へ混ざり狂った。復旧しかけた魔導灯が激しく明滅する。観客席のどこかで、再び誰かが悲鳴を上げた。
『来る』面具の人物が短く告げる。『お前たちの残した精神の痕跡を辿っている』
空気が、世界そのものがビリビリと震えていた。 エリルが、そっとカイの衣の袖を掴んできた。細く、頼りない指先。けれど、もうあの夏の日のような、怯え切った震え方ではなかった。怖がっている、それでも、決して離れないという強い意思。
カイはその手を、そっと握り返した。驚くほど自然に、その指が重なる。 うまく話せなくてもよかった。盤の上でなくても、この手の温もりだけで伝わるものがあった。
『……なるほど』面具の人物が、繋がれた二人の手を見て小さく呟く。『まだ、壊れていないわけだ』
次の瞬間、凄まじい轟音が響き、ドームの上部をあの漆黒の機影が再び走り抜けた。 蒼白い魔力輪が半円状の壁面を激しく焼きながら疾走し、死にかけていた魔導灯を一つずつ、強制的に復旧させていく。 闇が裂け、白い残光が踊り、人々の悲鳴が遠ざかる。その狂乱の中心で、黒装束の人物だけが完全に静止していた。
『時間がない』
機体の側面が、ガシャリと静かに展開する。そこから、純白の光で編まれたような梯子が、対局場の真下へと滑らかに降りてきた。
『付いてこい』
数秒、張り詰めた間が空く。それから、面具の人物は静かに付け足した。
『……盤鬼たち』
その人物は、答えを待たなかった。最初から、待つつもりもないようだった。
カイは隣のエリルを見た。エリルもまた、カイを見つめていた。
「……行く」
エリルが先に、小さな、けれど確かな声で言った。どちらが先でも、もう関係なかった。 カイは深く頷いた。
二人で同時に、その白い光の梯子へと足を踏み出す。 連れていかれたのではない。自分たちの意志で、その未知を選んで乗ったのだ。
たったそれだけのことが、胸の奥で、なぜか新しく、心地よい重さとなって響いていた。




