白金の黒
天蓋を覆い尽くした幾何学の網が、金の木漏れ日となってドームの闇を焼き切った、その直後だった。
暗闇の天蓋を、機影が再び走り抜ける。
今度は、肌が粟立つほどに近かった。
黒い硬質な外装、細長く研ぎ澄まされた機体。自らが張り巡らせた「光の網」のレールをなぞるように、金と白。そして白と黒の不気味な力を壁面へ強烈に押し付け、垂直に近い半円状の内壁を猛烈な速度で疾走している。
その通過に合わせるように、ドームの全方位で魔導灯が次々と完全復旧していった。蒼白く、けれど鋭利な光が、残酷なほど正確に空間の闇を削り取っていく。
観客席では、いまだ悲鳴と怒号が泥のように混ざり合っていた。結界の崩壊に怯え、遮二無二出口へと逃げ出そうとする者、ただ呆然と立ち尽くす者。防衛魔導士たちが必死の形相で声を枯らし、瓦解しかけたドームの結界の維持を叫んでいる。
けれど、その現実の喧騒のすべてを切り裂くように、頭上の機影は唐突に、あり得ない速度で減速した。
重力を完全に無視したまま壁面を滑り、そして――カイとエリルが立ち尽くす対局場の真上で、ぴたりと停止したのだ。
慣性をどこか別の世界に置き去りにしてきたかのような、不気味なほどの静止。天蓋に構築された網の目から、残光の粒子だけが、熱を持たないままゆっくりと空気へ溶けていく。
『――対象を確認』
声が響いた。館内の拡声器からではない。カイたちの頭の奥深く、さっきまであのセピア色の女が触れていた領域へ、直接楔を打ち込むようにして滑り込んでくる声。一切の抑揚を排除した、感情のない響きだった。
『深度、想定以上』『接続痕あり』
隣で、エリルが息を小さく呑み込む。カイも指一本動かせなかった。頭蓋の裏側には、まだあの冷たい視線の残滓がねっとりと張り付いている。だが、頭上に停止した機体から放たれる強固な「外側の拒絶」によって、その侵食はかろうじて足止めされていた。
機体の側面が、機械音もなく静かに展開した。そこには。影が立っていた。
身体に完全に密着した細い黒装束。首元には、まるで皮膚を引き裂くようにして怪しく走る一本の銀線。そして顔の上半分は、鏡のように周囲の残光を無機質に映し出す、透き通った硝子質の面具で覆われていた。
年齢も、性別すらも分からない。ただ、その佇まいと動きだけが妙に静かだった。こういう異常な光景に、数え切れないほど立ち会って、そのたびに物理の線で世界を切り裂いてきた者の動きだ。
『……遅かったか』
その無機質な呟きと同時に、頭の奥の暗闇で、“あれ”が嘲笑った気がした。
ぞわりと背筋に冷たいものが走る。エリルが小さく肩を震わせた。どうやら、彼女も同じものを脳裏で感じ取ったらしい。
面具の人物が、ゆっくりとこちらを見下ろした。正確には――カイとエリル、二人の“間”にある、目に見えない空気の空間を凝視していた。
『共振』『封鎖前に接続されたか』
意味が分からない。だが、その無機質な言葉を聞いた瞬間、胸の奥の魔力が酷くざわついた。「接続」。まるで、自分たちが盤の上で心を乱し、隠していた想いに形を与えてしまったせいで、開けてはならない扉を開け、世界の深淵に触れてしまったとでも言うような。
その時だった。観客席の上部から、引き裂かれたような絶望的な叫びが上がった。
「ぉお、ぁぉお……っ!!」
全員の視線が、弾かれたように一瞬で跳ね上がる。
一人の男が、避難通路の途中で不自然に硬直していた。いや、立っているというよりは、文字通り、空間ごと“停止して”いた。目を見開いたまま、その顔から一切の人間的な感情だけが綺麗に抜け落ちている。
次の瞬間、男がぼそりと、壊れた機械のように呟いた。
「静かに……するんだぁはっ」
息切れたその声には、不気味な反響が混じっていた。まるで、背後にいる何十人もの人間の声が重なって響いているかのような。
「守れ……」「乱すな……」 「……為に」「その為にこそ……」
空気が一瞬で氷結する。違う、これは普通じゃない。 男の身体の輪郭が、ゆらゆらと陽炎のように滲み始めていた。皮膚の下を、どす黒い線のようなものが生き物のように脈打っているのが見える。
観客席が再び凄まじい悲鳴に包まれた。逃げ出す人々、激しく倒れる椅子。だが男は、自らを自傷するように、壊れた人形の如く呟き続けていた。
「それこその為に……」
その狂った言葉に対して。壁面に佇んでいた機影の人物が、一瞬だけ動きを止めた気がした。ほんの刹那の沈黙。
『……また』
面具の人物が、小さく、吐き捨てるように呟いた。 初めて、その鉄のような声に、微かな、けれど確かな感情が混じる。
『壊されるのか』
次の瞬間だった。凄まじい爆音と、白い閃光。 黒装束の人物は、すでに観客席へと降り立っていた。速すぎて、網膜に一筋の光の軌跡しか残らない。 その冷徹な片手が、錯乱する男の額へ音もなく触れる。 首元の銀線が一瞬だけ眩しく発光し、男の身体が、電流を流されたようにびくりと大きく痙攣した。
「――眠れ」
静かな、命じるような声だった。直後。 男の全身の毛穴から、どす黒い霧のようなものが一気に噴き出した。霧は空中で一瞬だけ、あのセピア色の草原にいた“女の横顔”の形を歪に象り、そしてすぐに、煙のように霧散した。
館内の重苦しい空気が、ほんの少しだけ軽くなる。観客席は、水を打ったように静まり返っていた。誰も、目の前で起きた事象を理解できていなかった。
黒装束の人物は、床へ力なく崩れ落ちた男を一瞥したあと、ゆっくりとカイたちへ視線を向けた。 鏡のような面具越しであるはずなのに、なぜか分かった。 こちらを観察している。値踏みしている。
『……初期侵食から、自力離脱』 『あり得ない』
その声だけが、ほんの少しだけ驚きに揺れていた。エリルが、縋るような不安そうな目でカイを見つめる。カイもまた、いまだにまともな呼吸の整え方を思い出せずにいた。
頭の奥では、まだ微かに「キィン」という細いノイズが残っている。あのセピア色の痩せた世界。そして、脳裏に「ようやく」と囁きかけてきた、あの女の影。
黒装束の人物が、静かに口を開いた。
『お前たち』
数秒の、張り詰めた間が空く。
『――何を見た』




