生の隣に
ピタリと、世界のすべての崩壊の連鎖が止まった。
暴威を振るっていた『老』『病』『死』の三つの概念が、弾かれたように四方へと散開していく。
魂を内側から削り取ろうとしていた悍ましい絶望の叫びが、嘘のように一瞬で消え去った。
四つの巨大な駒は、それぞれ盤面の遠い極点へと退き、そこで石化したかのように停止している。
……もう、動かない。
カイは、その絶対的なシステムの外側に孤立した『生』の駒の上に、一人で真っ直ぐに立っていた。
その足の裏から伝わる感触は、温かくも、冷たくもなかった。
ただ、そこに厳然として「ある」という、剥き出しの存在の質量だけが彼を支えていた。
果てしない沈黙が続いた。
世界の限界を告げるような、あまりにも長い、深い沈黙だった。
それから。
その空間のすべてを満たすようにして、ひとつの「声」が響いてきた。
それはクリスタルの声であり、同時に世界の絶対者たる、女王の声だった。
遥か盤面の深淵の奥底から、冷徹な、しかしどこか揺らぎを孕んだ女の声が静かに響く。
「……何をしている」
カイは生の駒を踏み締めたまま、その虚空を見据えて答えた。
「ここにいる」
「それは、苦しみだ」
「分かってる」
ふたたび、重苦しい沈黙。
「なぜ、そこから離れない。なぜ、絶望のシステムに身を委ねない」
カイは答えなかった。
ただ、ここから離れる理由が、今の自分にはどこを探しても一つも見当たらなかった。それだけのことだった。
「この世界に、本物の誠実などもう存在しない」
女王の声が、急激に低く、重苦しいものへと変わる。
「私は数千年の間、この盤面の底ですべてを見てきた。例外なく、全員が摩耗していった。誰よりも誠実であろうとした高潔な者たちが、その誠実さゆえに自ら壊れていった」
その言葉には、世界への冷酷な断罪が満ちていた。
「だから、壊す。私はクリスタルの結論に従い、末法を実行する。不実な者どもを傀儡に壊させ、その引き裂かれた魂のすべてを糧にして、この歪んだ世界を根底から正す。……そうしなければ」
一瞬、女王の声が、かすれるようにして細くなった。
「そうしなければ……もう誰も、救われないではないか」
圧倒的な沈黙が、ふたたび盤面へと滑り落ちる。
カイは『生』の駒の上に佇んだまま、その告白を静かに聞いていた。
そこには、世界を滅ぼそうとする絶対者への怒りはなかった。激しい憎悪や悲しみもなかった。
ただ、気の遠くなるような永い時間を絶望の観測者として過ごしてきた、ひどく、ひどく疲れ果てた一人の人間の声が、そこにはあった。
「私はずっと見ていた。数千年もの間。誠実な人間が、その誠実さの重みに耐えかねて壊れていく姿を。……私は彼らを憎んでいたのではない。止めたかったのだ。もう、それ以上苦しまなくていい。ただそれだけを、私はずっと願い続けていた」
カイは、静かに口を開いた。
「でも。まだ、ここにある」
沈黙。
「お前の言う完璧な誠実は、確かにこの世界から消滅したのかもしれない」
「……」
「でも、まだここにあるんだ」
「それは不完全だ」女王の声が拒絶するように遮る。
「ああ。不完全だ」
「純粋じゃない。泥に汚れている」
「ああ、純粋じゃない」
「それは……ただの、出来損ないの例外だ!」
「例外でいい」カイは怯むことなく、まっすぐに声を届けた。「例外で構わない。たとえ世界中でたった一つだったとしても、それが本物なら、本物だ」
「それでも……」
カイは、自らの不器用な歩みを振り返るように言葉を続けた。
「それが、お前の言う通りの本物かどうてかは、俺には分からない。……でも。確かにあったんだ。ちゃんと、俺の目の前にあった」
「黙れ」
突如、空間の声の質が変わった。
それは、カイが生まれてからずっと、その胸の奥底に檻のように張り付いていた、あの忌まわしい「声」そのものだった。
「常に誠実であれ。感情を乱すな。身の程を知れ」
カイは微動だにせず、その呪詛を全身で受け止める。
「高貴なる婦人の前で、醜く心を揺らすことすら許されない」
聞いたことがある。思い出すまでもない。自らを縛り、息を詰まらせてきた、タワーの冷徹なルール。
「沈黙したまま、誰にも看取られずに血を流す者だけが、美しいのだ」
カイはゆっくりと、深く目を閉じた。
その容赦のない呪いの言葉が、自らの肉体と魂を真っ直ぐに通り抜けていくのを感じる。
不思議と、もう痛くはなかった。
だって、それは他ならぬ自分自身が、ずっと前から、この人生の中で誰よりも熟知していた声だったからだ。
「……なぜ」
女王の声が、驚愕に引き絞られるようにして、一段と低くなった。
「なぜ、私の呪いが通らない。なぜ、絶望して膝をつかない」
「慣れてる」
カイは目を閉じたまま、静かに答えた。
「その声には……もう、嫌というほど慣れているんだ」
沈黙が広がる。
「長年、ずっと耳元で聞いてきた。……他の誰でもない、俺の中にも、ずっとその声があったからだ」
その瞬間、『老』『病』『死』の三つの巨大な概念の駒が、わずかに微動だにした。
そして、今度は破壊の現象を起こすためではなく、磁石に引き寄せられるかのように、ゆっくりと、静かに『生』の駒へと近づいてくる。
「お前一人では」女王の声が、凍てつくように冷たく響く。「何もできない」
「そうだ。俺一人じゃ、何もできない」
「弱い」
「ああ、弱い」
「あまりにも不器用だ」
「ああ、その通りだ」
カイは、自らのすべての不甲斐なさを認めるように、深く頷いた。
「エリルに、何年も自分から話しかけることすらできなかった」
「命を懸けてくれた先生に、最期まで何一つ言葉を返せなかった」
「俺は、盤面の前でしか、まともに呼吸すらできない男だ」
「それでも」
カイは顔を上げ、眩い光の海を見据えた。
「棋場で静かに打っていた老人たち。あの地下の石壁に刻まれていた、エリルの不器用な文字。激しい泥の雨の中で、名もなき少女を必死に庇おうとしたロドの背中。そして……最期に、俺の手を強く握り返してくれた、先生の手」
右手のひらを、ぎゅっと握り締める。そこにはまだ、あの泥臭い人間の確かな温もりの感触が、鮮烈に残っていた。
「あったんだよ。確かに、そこに」
近づいてきていた『老』『病』『死』の三つの駒が、カイの目の前でピタリと動きを止めた。
「それでも」
カイは『生』の駒の上に立ったまま、世界の底に向かって真っ直ぐに告げた。
「本物の誠実って、きっと、お前が探していたような完璧なものじゃない。そういう、泥臭いものじゃないか」
「完璧じゃなくても」
「純粋じゃなくても」
「今、確かにここにある」
「どれだけ深い泥の中にあっても……それは、絶対にあるんだ」
その瞬間、世界を構築していた盤面の光が、優しく揺れた。
ぽつんと、一つ。また、一つ。
まず『老』の駒が、これまでの禍々しい赤ではなく、透き通るような純白の光を放ち始めた。
それは、狂ったような叫び声をあげることもなく、静かに、世界の理へと還るように消えていく。
続いて『病』の駒が、優しく光を放つ。暴れることもなく、空間を解き放つようにして消えていく。
最後に『死』の駒が、静かに光を放ち……ただ、そこにあった絶望の重みを消し去るようにして、霧散していった。
その刹那だった。
空間に響いていた絶対的な女王の声の、さらにその奥底から、一瞬だけ「別の声」が漏れ出た。
それは女王としての威厳に満ちた断罪の声ではなく、その冷徹な仮面の奥から滲み出るような、あまりにも優しく、そして疲れ果てた人間の声だった。
カイは、その微かな声のする方角へと、迷いなく身体を向けた。
世界の絶対者たる女王ではなく。
その仮面の奥で、ずっと泣いていた「誰か」の声の方へ。
「まだ、あるよ」
短く、確信を込めて、彼はそう言った。
空間を満たしていた女王の強固な輪郭が、境界線を失ったようにドロドロと溶け始めた。
けれど、その崩壊していく絶対的な光の奥から、別の何かが、ゆっくりと姿を現した。
純白の、素朴な衣。
永い時間を一人で耐え抜いてきた、ひどく疲れ切った顔。
そこには、世界を滅ぼそうとした恐ろしい怪物などいなかった。
ただの、一人の儚い女がそこに立っていた。
気の遠くなるような長い間、クリスタルの無機質な声にその身を捧げ、世界の身代わりとなって座し続けていた、かつての高潔な巫女の姿だった。
「……そうか」
その唇から漏れた声は、数千年もの歴史の中で初めて、彼女自身の、等身大の魂のものだった。
「まだ……この世界に、あったのか」
彼女の、静かな両目が、真っ直ぐにカイの姿を捉えた。
そこには、もう世界への怒りは一切なかった。人間への憎しみも、何もかもが消え失せていた。
ただ、すべてを見届けて、ようやく役目を終えることができるという、ひどく、ひどく疲れ果てた、けれど穏やかな目がそこにあった。
「本物の誠実は、もうこの世界から完全に消滅した、と……」
「クリスタルは、ずっと、そう残酷に判定し続けていた」
「でも」
女の瞳が、涙を湛えるようにして、わずかに優しく揺れた。
「私は、本当は……ずっと待っていたのかもしれない」
その声が、子供のように小さく震えていた。
「本当は、ずっと……あなたのような人間が、ここに届くのを……」
その言葉を最後に、世界のすべてを包み込むような、圧倒的な純白の光が爆発的に広がっていった。
女の輪郭が、その眩い光の中に完全に溶けていく。
同時に、この世界を、そしてカイの胸の奥を永年縛り続けていた、あの冷徹なシステムの声も、跡形もなく完全に消滅した。
絶望の叫びも。空間を焼き尽くした火も。肉体を裂いた電流も。足場を奪った不気味な水も。
そのすべてが、温かい、祝福のような純白の光へと変わっていく。
白く、どこまでも静かに。
光は神の盤面の全体を、そして世界の隅々までを、優しく覆い尽くしていった。
「カイくん……!」
遥か遠くから、自分を呼ぶエリルの愛おしい声が聞こえた気がした。
カイは、その光の中で、ゆっくりと目を開けようとした。
視界のすべてには、まだ白い光だけが満ちている。
けれど、不思議ともう、これっぽっちも怖くはなかった。
胸の奥で、あの大盤宮の崩壊の中で交わした、先生の手のひらの感触を、もう一度だけ強く思い出した。
最期に、すべてを託すように強く握り返された、あの不器用な、けれど何よりも温かかった人間の感触。
それが、今も、これからの人生も、自分の右手にずっと残り続けていることを、彼は確かに確信していた。
ゆっくりと、光が薄幕を剥がすようにして引いていく。
どこからともなく、ざわざわと草を撫でる、現実の風の音が耳に届いた。
そこは、元の広大な草原だった。
夜明け前の最果ての空気は、肌が痛くなるほどに冷たい。
カイは、しっかりと自分の両目で世界の光景を見開いた。
エリルが、すぐ隣で涙を拭いながら、愛おしそうに自分を見つめていた。
少し離れた崩れた石柱の場所に、アルカがいつの間にか、その足で真っ直ぐに立っていた。
彼女は、もうペンダントを握り締めることもなく、ただ静かに、夜明けの空を見つめている。
誰も、すぐには話さなかった。言葉を交わす必要など、どこにもなかった。
ただ辺境の冷たい風だけが、新しく始まる世界の草を、ざわざわと静かに揺らし続けていた。
完璧な世界など、どこにもない。それでも、自分たちはこの泥臭い世界の中で、これからも不器用に生きていく。
ただそれだけで、今は、十分すぎるほどに十分だった。




