静かな朝
草原の端から、ロドがゆっくりとこちらへ歩いて来た。
執行官の硝子の面具を外し、泥と油に汚れた無骨な顔を晒している。三人の無事な姿を確認すると、彼は深く、短く頷いた。
「……終わったか」
「ああ」
カイが答えた。ロドの目はまだ鋭かった。
「確かか」
カイは少し考えた。すべての因縁が解き明かされ、盤面が消滅した瞬間を思い返す。
「……本当に確かかどうかは、俺には分からない」
でも、とカイは顔を上げ、世界の天井を仰ぎ見た。
「何かが、決定的に止まった気がするんだ」
ロドは機体の把手へ無言で手を置いた。その視線の先では、世界の崩壊を告げていた禍々しい光の収束が、完全に霧散していた。
「……そうか」
ロドはそれだけ言った。その一言に、執行官として世界の歪みを処理し続けてきた男の、すべての安堵が込められていた。
街へと戻る帰り道。
車内の受信機は、驚くほど静かだった。
ザ、ザザ……と、ただ意味のない純粋な雑音だけが一定の周期で流れている。
昨日まで街の至る所で響いていた、原因不明の狂気や集団の異変を告げるあの忌まわしい断片音声は、跡形もなく消え去っていた。
エリルが、助手席の窓から流れ行く外の景色をじっと見ていた。
「……線が」
「どうした?」
カイが尋ねると、彼女は窓に額を寄せたまま呟いた。
「ちょっとだけ、軽くなった気がするの」
世界の底を縛り付けていたあの重苦しい因縁の糸が、ほんの少しだけ弛み、人間に呼吸を許したかのように。彼女はそれだけ言って、小さく微笑んだ。
北門広場の、古びた噴水の前でロドが機体を静かに止めた。
「ここでいいわ」
アルカが最初に席を降りた。彼女は広場の中心にある噴水をじっと見つめた。
湧き上がる水面が、東の空から差し込み始めた柔らかな朝の光を、静かに、美しく弾いている。
「きれいね」
その呟きに、誰も返事をしなかった。
けれど、ロドも、カイも、エリルも、全員が同じその静かな水面を見つめていた。かつて大盤宮の冷徹な少女だったアルカが、初めて世界の美しさに目を向けた瞬間を、誰も邪魔したくはなかった。
ロドは何も言わず、機体を揺らしてスーラ・タワーの格納庫へと戻っていった。
アルカもまた、その背中を追うようにゆっくりと歩き出した。
広場の角を曲がり、タワーの影に身を隠す直前、彼女は一度だけ足を止め、振り返った。
まっすぐに、カイとエリルの方を見つめる。
彼女は何も言わなかった。
ただ、少しだけ、本当に少しだけ、二人の未来を祝すように小さく頷いた。
それから、朝の光の向こうへと、その姿を消した。
噴水が、今も静かに規則正しい水を吐き出し続けている。
街頭の魔導灯は、まだ夜の名残を残して点いたままだ。
見渡す限り、世界は何も変わっていない。
この街で行き交う人々は、世界の底で何が起きたのかを誰も知らない。
クリスタルの非情な判定が止まったことも。
数千年もの間、その底で絶望していた女王の魂が消えたことも。
ただ、いつもと同じように、当たり前の朝がそこに、静かに来ているだけだった。
エリルが、静かに歩き出した。
カイもその隣に、自然と歩幅を合わせて並んで歩いた。
「……終わったね」
「ああ」
「実感、ある?」
カイは歩きながら、少しだけ考えた。
手のひらを握り締めても、そこにはもう、かつて自分を追い詰めていた凍りつくような盤面のルールは浮かび上がらない。
「……あまり、ないな」
エリルが、その答えを聞いて少しだけ笑った。
それは、カイが昔、大盤宮の講堂の隅で遠くから見ていた彼女の笑い方だった。
苦しさに俯いてから無理に作る笑いではなく。
まっすぐ、前を向いたまま、世界の光を受け止めるような、凛とした笑顔。
二人は、どこまでも続く石畳の道を歩き続けた。
背後で響いていた噴水の水音が、一歩ごとに遠ざかっていく。
街灯が、朝の訪れを告げるように、一つ、また一つと静かに消えていく。
生まれたての澄んだ朝の光が、灰色の石畳へと、静かに、優しく降りてきた。
クリスタルは、この世界のどこかで、まだ静かに待っている。
これからも不器用に、泥にまみれながらも、誠実であろうともがき続ける人間の姿を。
彼らの紡ぐ因縁は、これからもずっと、この世界がある限り続いていく。
ただ。
歩く二人の足取りは、昨日よりも、ほんの少しだけ軽くなった気がした。




