路傍の確信
セドの息子の家を後にした。
それからしばらくの間、誰も口を利かなかった。
言葉を発することを世界が拒んでいるかのように、重苦しく、それでいて透き通った沈黙が車内を支配していた。
やがて機体を止め、花畑の端にある、崩れかけた低い石垣に全員で腰を下ろした。
いつの間にか夕暮れが訪れていた。
世界の端から、空が鮮やかな橙色から徐々に深い藍色へと、そのグラデーションを暗く染め上げていく。
遠くには、先ほど通り抜けてきた広大な花畑がまだ見えていた。
辺境の冷たい風が吹き抜けるたびに、無数の白い花がまるで本物の海の波のように、ざわざわと音を立ててうねりを上げている。
ロドが、機体の把手から大きな手をゆっくりと離した。
「……ひとつ、聞いていいか」
その問いに、誰も返事をしなかった。だがそれは拒絶ではなく、「続けろ」という無言の促しだった。
「俺はこのタワーの執行官として、ずっと世界の歪みに呑まれた汚染者を処理してきた」
ロドは硝子の面具を外し、燃えるような夕焼け空を仰ぎ見た。
「カイのように、相手の内側へ入るような真似はできなかった。だが、泥をすするような苦労をして、奴らを排除してきたんだ。……あの男たち、セドや丘の上の青年だけが特別だったわけじゃない」
ロドの拳が、みしりと音を立てる。
「世界には、ああして怪物になる手前の人間が他にもたくさんいた。俺はそれらをすべて、この手で処分してきた。……それが、今更どうなるというんだ」
重い沈黙が落ちる。
「8つの苦しみを個別に救えば、それでこの世界がすべて元通りに解決する。……そんな単純な話じゃないはずだろ」
その言葉を受け、アルカが石垣の端から静かに立ち上がった。
「そうじゃない」
彼女は、振り返らずに告げた。
「私たちが……女王を打倒するための『術』を、ようやく身につけたということよ」
「術だと?」
「戦い方を、知ったの」
アルカは視線を白い花の波へと向けたまま、淡々と事実を紡いでいく。
「女王がこの世界で何をしていたか、あなたたちには視えていた?」
ロドは答えなかった。
「女王はね、まずセドや先生のように、誰よりも『誠実な人間』の心の隙間に付け入り、彼らを傀儡に変えた。そして、彼らが抱く高潔ゆえの苦しみを、自らの糧として吸い上げていたのよ」
「力を、増すためにか」
「ええ。そして増大したその力を使って、今度は世界に溢れる『不実な者』、あの盗賊や強欲な村長のような人間たちを、傀儡の力で徹底的に壊させた。……そして、壊された汚れた魂をも、女王はすべて自らの糧にした」
アルカの声は、どこまでも冷徹で、平坦だった。だからこそ、その真実の悍ましさが際立つ。
「誠実な側からも。不実な側からも。世界を善と悪、美と醜に分断し、その両方から絶望の力を集めていた。それが女王の盤面」
風が、一段と強く吹き抜けた。
花畑の白い波が、激しく、悲鳴のように揺れる。
「そのまま、彼女は『末法』を実行するつもりだった。この世界の構造を、根底から完全に破壊し尽くすために」
「……なぜ」
エリルが、絞り出すような小さな声で言った。
「なぜ、彼女はそこまでして、この世界を壊そうとするの」
「クリスタルが、ひとつの結論を出したから」
アルカが答えた。
「『この世界から、本物の誠実は消滅した。よって、これ以上の存続は無意味であり、破壊を許可する』。その冷酷な結論を、女王はただ忠実に実行しようとしていたのよ」
「でも」
ここで、カイが重い口を開いた。
「まだ、ある」
「……ええ」
「だから、俺たちがこうして生きている」
アルカは、ほんの少しだけ間を置いてから、静かに頷いた。
「そういうこと」
夕暮れの最後の残光の中で、前を見据えるアルカの横顔は、驚くほど静謐だった。
エリルが、ゆっくりと目を閉じた。
呼吸を整えるように、しばらくそのままの姿勢でいた。
「……見える」
彼女が、静かに、だが確信を込めて言った。
「大きな、大きな盤面が……世界の底に広がっている」
「中心に、何かあるな」
カイもまた、同時に目を閉じていた。
脳内の白い空間のさらに深淵、世界の理の底流に、その巨大な影がはっきりと視えていた。
「ああ」
「8つの巨大な駒が、円を描くように並んでいる」
「精神の盤面と、全く同じ構造だ」
エリルが小さく頷く。
「すべてが、そこに向かって収束している。私たちの旅の座標も」
「だから」
アルカが、二人の言葉を引き継いだ。
「そこへ行けば、必ず、彼女(女王)に会える」
ロドが、鋭い眼差しをアルカへと向けた。
「残りの4つの苦しみも、さっきと同じ方法で満たせるのか」
「行ける。……いいえ」
アルカは、そこで少しだけ言い淀み、深く考え込んだ。
「同じ方法は、おそらくもう通じない」
「なぜだ」
「怨憎会苦も、求不得苦も、愛別離苦も、五蘊盛苦も……」
アルカは石垣の前に毅然と立ったまま、冷たい風に髪を揺らせて言った。
「それらはすべて、誰かの特別な物語だった。個人の魂の歪みが引き起こした、局所的な裂け目だった。……でも、残りの4つは決定的に違う」
一拍。
「生きること(生)、老いること(老)、病むこと(病)、死ぬこと(死)」
「それは、この世界に生を受けた者なら、誰にでも、絶対にあるもの」
「そこに個人の特別な亀裂なんて存在しない。万人にとっての普遍的な絶望だからこそ、個人の裂け目から侵入するような、これまでの入り口は使えない」
沈黙が、ふたたび全員を包み込む。
「……なら、どうすればいい。別の入り口がどこにあるか、分かっているのか」
「……分からない」
アルカは、嘘偽りなく正直に言った。
「でも。行かなければ、何も分からないのは確かよ」
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
視界の先で、花畑の波がまた大きく揺れた。
夕暮れの残光を浴びた白い花々は、まるで世界の終焉を惜しむかのように、血のような橙色に染まりながら揺れ続けている。
「……行くしかない」
カイが、自らの右手を固く握り締めながら言った。
「勝てない戦いじゃないはずだ。俺たちには、この盤面が視えている」
エリルもまた、その力強い言葉に寄り添うように頷いた。
「そうね。そう思うしかないわ。行きましょう」
アルカがそれに続いた。感情の削ぎ落とされた、いつもの声。けれど、その言葉の奥底には、かつての大盤宮の少女にはなかった、人間らしい確かな質量が沈んでいた。
白い花の波が、また大きくうねる。夕暮れの光が、辺境のすべてを深い橙色へと染め上げていく。
ロドは無言で機体の把手へと手を戻し、少しの間、その美しい世界の境界線を静かに見つめていた。
「……乗れ」
ガタガタと機体が震え、その結晶から放たれる蒼白い光が、夜の帳が下りる一歩手前の、橙色の道を猛然と走り出した。
最果ての盤面へ向けて、彼らの本当の戦いが、ここから始まろうとしていた。




