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花のある場所へ

まだ夜の冷気が足元にまとわりつく、静かな朝だった。

タワーの白い廊下を、ルウが両腕にたくさんの洗い物を抱えて、せかせかと歩いていた。

だが、その足が、不意にぴたりと止まった。


廊下の壁を切り取るように嵌め殺された、一枚の大きな窓の前。

ルウは洗い物を抱え込んだまま、まるでそこに縫い付けられてしまったかのように、しばらくの間、じっと佇んでいた。

その異様な様子に気づき、通りかかったエリルが声をかける。

「ルウちゃん……? どうしたの」


「……なんか」

ルウは視線を窓の外に固定したまま、吸い込まれそうな声で言った。

「温かいものが、このタワーに、今、来た気がして」

「温かい?」

「うん。何て言うか……怖くはなかったんです」

ルウは少しの間、自らの胸の奥に灯った微かな感覚を確かめるように考えてから、言葉を繋いだ。

「ただ、ちゃんとしに来た、みたいな……そんな感じ」


エリルはルウの横に並び、窓の外を見つめた。そこには、朝靄に煙るどこまでも平坦な空だけが広がっている。

けれど、エリルにはルウの言わんとする言葉の意味が、直感的に、なんとなく理解できていた。あの大盤宮の広場で、カイがその命の全てを賭して相手の内側へと打ち込んだ、あの「救い」の残響。それが、祈りのような温かさとなって、この白いタワーへと静かに還ってきたのだ。


そのルウの言葉を、アルカに伝えたのはエリルだった。

アルカはエリルの話を聞きながら、長い間、ただ黙って俯いていた。

小さな膝の上で、白い花びらを一枚だけ弄びながら、彼女の脳内にある膨大な記録の海から、何かを必死に手探りで探しているみたいだった。


やがて、アルカは静かに顔を上げた。その瞳には、今までにない確かな指向性が宿っている。

「……花のある場所へ行きましょう」

「花?」

「あの人が……盤宮で背中を蹴られながらも、最期まで思い浮かべていた場所」

アルカは淀みない動作で、寝台からすくと立ち上がった。

「そこに、あの人の息子がいる」


その方針は、すぐにロドへと伝えられた。

ロドは感情の読めない硝子の面具を再び顔に装着し、ただ短く、低く頷いた。

「……分かった。機体ビークルを出す」


タワーを本格的に出発する直前、カイは廊下の端にぽつんと立っているルウの姿を見つけた。

カイは一瞬だけ足を止め、その少年のような背中に声をかけた。

「……行ってきます」

ルウは振り返り、カイの目をまっすぐに見つめると、小さく、だが頑なに頷いた。

「ちゃんと、帰ってきてください」

それだけだった。余計な感傷は交わさない。けれど、その一言には、ルウの持てる全ての祈りが込められていた。


荒涼とした辺境の荒野を、ロドの駆る機体が砂煙を上げて疾走する。

車内に据え付けられた古い受信機が、パチパチと不快な雑音ノイズを吐き出しながら、不穏な緊急放送を告げていた。

『――中央農村部にて――原因不明の事変が発生――生存者はなく――現場にはただ、不気味な金色の灰だけが大量に残されており――付近を縄張りにしていた盗賊団の構成員、および村の有力者たちが――一夜にして一人残らず消滅――』


ロドが忌々しげに手を伸ばし、受信機の音量を絞った。

「……また、か」

カイが助手席からロドの横顔を睨む。

「同じ性質バグか?」

「おそらく。女王の歪みが、また新たな『苦しみ』の形をとって現世へ溢れ出したのだろう」


だが、後部座席にいたエリルが、前を見つめたまま静かに首を振った。

「でも、あの男――セドとは違うわ」

「ええ。あれは、あまりにも美しさを愛しすぎていた人間よ」

アルカが、感情を削ぎ落とした低い声で応じる。

「世界の醜さと、人間の果てしない強欲が、彼の繊細な精神には耐えられなかった。……それだけで、人間は十分に壊れる」


やがて、荒涼とした景色が終わりを告げ、視界の一面に鮮やかな花畑が見えてきた。

その美しすぎる色彩の海の遠くに、ぽつんと小高い丘がある。

その丘の頂に、一人の男の影が立っていた。

すらりと背が高かった。

男は衣服のポケットに両手を突っ込んだまま、静かに眼下に広がる広大な景色を見つめていた。


機体が、不自然な静寂の中で止まった。

カイ、エリル、ロド、アルカの四人は車を降り、ゆっくりと丘を上がっていった。


気配を察したのか、丘の上の青年がゆっくりと振り返った。

息を呑むほどに、美しいかんばせだった。

その外見の年齢は、カイとそれほど変わらないかもしれない。

だが、その瞳の奥だけが、まるで何百年も世界を見続けてきたかのように、ひどく、深く疲れていた。


「どうしたの」

青年は、驚くほど穏やかな声で問いかけてきた。その声には、一切の敵意も、悪意すらも含まれていない。

「どうして、こんな辺境の場所にまで僕を追いかけてきたの」


アルカが、三人の前に一歩進み出た。

「あなたの仕業ね。あの村の、人たちを消し去ったのは」

青年は、不思議そうに少しだけ首を傾げた。

「何が? 何か悪いことでもしたかな」

「村の、人たちが、金色の灰になったと言っている」


青年の長い睫毛が、わずかに揺れた。その目が、哀れみの色に染まる。

「……あの盗賊たちは、ひどく醜かった。あの村の村長も同じだ。彼らはただ私利私欲のために、弱い者から執拗に奪っていた。だから、消し去るのが正しかったんだよ。この世界を美しく保つためにはね」

その声は、どこまでも穏やかなままだった。

狂気ではない。彼にとっては、それが絶対的な、神の如き「確信」なのだ。


「あなたは……本当は、誰よりも美しかったはずだ」

アルカが、静かに言った。

責め立てるような口調ではない。ただ、その青年の本質を突くような、あまりにも短い一言だった。


その瞬間、青年の完璧だった微笑みが、一瞬だけ、嘘のようにピタリと止まった。


青年は、ゆっくりと右手を高く掲げた。

すると、彼の白磁のような手のひらから、一匹の美しい生き物が産み落とされた。

金色の蝶だった。

光を浴びて、その薄い羽が目も眩むような黄金の輝きを放っている。あまりにも、美しかった。


その金色の蝶が、ひらひらと舞い、静かに地面へと触れた。

――次の瞬間。

地表へ触れた一点から、悍ましいほどの速度で「金色」の領域が広がっていった。

まるで、精緻に織り上げられた黄金の絨毯のように。

それは美しく、そして確実に、四人の足元へと迫ってくる。


「走れ!」

ロドの鋭い怒号が響いた。

カイ、エリル、ロドの三人が、本能的な危機感に従って左右へと激しく散った。

けれど、金色が地面を浸食していく速度は、彼らの身体能力を遥かに凌駕していた。一歩でもそれを踏めば、その肉体は瞬時に吸い上げられ、金色の粉となって風に消える。

エリルが鋭く右の端へと跳躍し、カイは必死に後方へと後退する。

金色の絨毯は、意志を持つ生き物のようにカイの足を追いかけてくる。

青年の手のひらから、さらに二匹、三匹と、金色の蝶が次々に羽ばたいていく。


その絶体絶命の瞬間だった。


アルカが、ただ一人、驚くべき軌道で動いていた。

四方から押し寄せる金色の絨毯の、ほんの数センチしかない「隙間」――まだ地面が侵食されていない、辛うじて踏める安全なスポットだけを、彼女は寸分の狂いもなく正確に選び取っていた。

視線すら足元に落とさず、迷いなく、まっすぐ、青年へ向かって歩を進めていく。


「アルカ!」

カイが叫んだ。

だが、アルカは決して振り返らなかった。


青年の疲れた瞳が、驚愕に目を見開き、自分へと肉薄してくるアルカの姿を捉えた。

「どうして……どうして、僕の『美の領域』を完璧に避けられるんだ」

「知っているから」

アルカは足を一歩も止めることなく、冷徹に言い放った。

「あなたの世界のルールも、その亀裂の場所も……私は、全部知っている」


アルカは、ついに青年の目の前へと立ちはだかった。

彼女は自らの首にかけられた、ロドから譲り受けたあの銀色のペンダントを素早く取り出すと、それを青年の眉間へと真っ直ぐに向けた。


――ほんの、数秒の間だった。


二人の身体が、激しい熱に炙られた陽炎のように、空間ごとぐにゃりと歪み、揺れた。

その内側で一体何が起きているのか、外側に弾かれたカイの「盤面師の目」をもってしても、光が強すぎて何も見えなかった。隣のエリルもまた、動くことすら忘れて、その光景をただ凝視していた。


それから。


青年の美しい顔から、一切の色彩が失われ、真っ白に変色した。

彼は糸が切れた人形のように、どさりとその場に膝をついた。

同時に、空中を舞っていた金色の蝶たちが、幻影のように煙となって消えていく。地を這っていた金色の絨毯もまた、陽光を浴びた雪のように、ゆっくりと溶けて消え去っていった。


その隙を見逃さず、ロドの巨体が文字通り「動いた」。

彼が腕を振るうと、周囲の空間に存在していた不可視のブロックが次々と浮き上がり、鋭く、細い、致命的な楔へとその形を変えていく。

ロドは音もなく、一瞬で青年の懐へと走り込み、その漆黒の楔を突き立てた。


青年の口から、苦悶の叫び声はついに上がらなかった。

彼はただ、胸の奥に溜まっていた毒素を全て吐き出すように、小さく、深く息を吐き出した。

その表情は、苦痛に歪むどころか、どこか……ようやく重荷を下ろしたかのように、ひどく安心したみたいに見えた。


徹底的な静寂が、再び丘の上にドサリと落ちてきた。

役目を終えたアルカは、青年の亡骸を振り返ることもなく、無言でまた歩き出した。


「アルカ!」

カイが、その小さな背中に向かって声を荒げた。

「お前、今、何をしたんだ」

アルカはやはり、振り返らない。

「あなたと同じことをしただけ」

彼女は淡々と、歩きながら言った。

「あのあの大盤宮で、あなたが老人に施したように……あの男に、鏡を見せたの」

「鏡……何を見せたって言うんだ」

「あの男自身を。彼が醜いと断じて切り捨ててきた世界が、本当は彼自身の内側にこそあったのだという、その残酷な真実をね」


アルカはそのまま、感情の消えた足取りで丘を下りていく。

「行きましょう。目的の場所は、この先よ」

カイは隣にいるエリルと視線を交わした。だが、エリルもまた、その問いに対する明確な答えを持っていなかった。

二人は言葉を交わすのをやめ、静かにアルカの後を追った。


美しい花畑を通り抜けたその向こうに、ひっそりと佇む小さな集落があった。

その最も端に、一軒だけ、とりわけ見事に手入れされた庭を持つ家があった。

庭には、色とりどりの花が美しく植えられている。雑草一つ生えておらず、隅々まで行き届いた人の手が感じられた。


そこでは、一人の若い男が、黙々と土をいじって花の世話をしていた。

四人が敷地に近づくと、男は気配を察してゆっくりと顔を上げた。

そして、カイの姿をその瞳に映した、その一拍の間。

「……皆さんですね」

若い男は作業の手を止め、静かに立ち上がった。

「父を……あの忌々しい大盤宮の狂気から、救ってくれたのは」


四人は、家の薄暗い土間へと通された。

男は手際よく竈に火をかけ、古い薬缶で湯を沸かしながら、静かな声で語り始めた。

「父は、ある日から突然、おかしくなっていました。取り憑かれたように『盤面』のことばかりを呟くようになり、ある日突然、家を出たきり戻らなかった」

「でも」

男は、湯呑みを並べる手をふと止めた。

「ある夜……ちょうど皆さんが大盤宮にいたであろうあの夜、不思議な夢を見たんです。父が、私の夢の中に現れました」

「その父は、ひどくちゃんとした顔をしていました。あの狂気に呑まれる前の、優しかった頃の父の顔でした」

「父が、私に言いました」

男は言葉を噛み締めるように、静かに続けた。

「『お前をこの家に残して逝く苦しみは、怨念だった』と。でも、『誰かが、私のその苦しみを、盤面を通じて確かに知ってくれた。分かってくれた。だから、私はもう、未練なくあちらへ行ける』と」

「そして、『もし、その人たちがいつかここへ来たら、これを伝えてほしい』と言い残したんです」


男は、まっすぐにカイの目を見つめた。

「『盤面の駒を、三つ消してくれた。あとの苦しみは、五つだ』と。父は夢の中で、それだけを私に伝えてほしいと言っていました」


部屋に、しんとした静けさが落ちてきた。

古い薬缶が放つ、シュウシュウという湯の沸く音だけが、寂しく響き続けている。


その沈黙を破り、アルカが静かに、だが重々しく口を開いた。

「――怨憎会苦おんぞうえく

その低い声は、世界の真理を読み上げるかのように響いた。

「怨み、憎む者に会う苦しみ。それが、あの老人が最期まで抱え、カイによって昇華された苦しみの正体」

アルカは、少しの間を置いてから言った。

「そして……私の抱える苦しみは、求不得苦ぐふとくく。求めるものが、どうしても手に入らないという苦しみ」


さらに、アルカはエリルの瞳をじっと見つめた。

愛別離苦あいべつりく……」

「愛別離苦、ですって……?」

エリルの声が、微かに震える。

「愛別離苦は」アルカはエリルを見つめたまま、冷酷なまでに静かに続けた。「あなたたちの恩師――あの盤宮の『先生』と呼ばれていた男が、その歪みの傀儡だったのよ」

エリルの華奢な肩が、びくりと、わずかに動いた。

「先生が……そんな……」

「愛する者と離れること、その悲劇を、彼は自らの『美徳』という歪んだ言葉で覆い隠し、耐え続けようとした人間。……だからこそ、世界の女王は、彼のその心の隙間に深く入り込んだのよ」


誰も、その言葉に返事をすることができなかった。

あの大盤宮の崩壊の最中、カイの右手を掴んで息絶えた、先生の最後の言葉が、再び二人の胸の奥深くへと重く沈んでいく。

『ちゃんと育っていたのね』

その掠れた声の感触だけが、今もカイの右手のひらに、生々しく残っている。


ロドが、仮面の下から低く、地を這うような声で言った。

「……だとするなら。さっき、あの丘の上で俺たちが葬った青年は――」

「ええ。あれは五蘊盛苦ごおんじょうく

アルカが答える。

存在すること、生きることそのものが、制御できない歪みとなって周囲を巻き込む苦しみ。美しさを純粋に愛したまま、その手に触れるものすべてを無慈悲に破壊し尽くした、あの哀れな青年。


「これで、八つの苦しみのうち……四つだな」

ロドの呟きが、部屋の空気を完全に支配した。世界の崩壊を止めるための条件。満たすべき女王の「苦しみ」の半分が、これでようやく開示されたのだ。


沈黙が、部屋を優しく満たしていった。

若い男が、沸騰した湯を静かに急須へと注ぐ。

粗末な木机の上に、四つの茶杯が静かに置かれた。

そこから、白い湯気が、細く、頼りなく立ち上っていく。


ふと窓の外に目をやると、手入れの行き届いた庭の花々が、朝の光を浴びて健気に揺れているのが見えた。

かつて父親が、大盤宮の冷たい石畳の上で、他人に背中を蹴られ、罵倒されながらも、その魂の拠り所として最期まで守り続けようとした、あの「花」の記憶。

そしてその息子が、父親の遺志を継ぐように、今もこの場所で大切に育て続けている、本物の花。


カイは、その花をただじっと見つめていた。

言葉は、何も出てこなかった。

けれど、今の彼には、それで十分だった。言葉にならなくても、確かにそこに繋がっているものがある。その沈黙の温かさだけが、これからの過酷な旅路を進むカイの胸を、静かに、そして確かに満たしていた。

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