エリルとアルカ
夜。静まり返ったタワーの廊下を歩いていると、ほのかな明かりが漏れているのが見えた。突き当たりの大きな窓際に、月光を浴びて淡く輝く、雪のような白い髪の人影があった。
「……テアさん」
エリルが静かに声をかけると、その人影がゆっくりと振り返った。すべてを見通すような、けれどどこまでも穏やかな、慈愛に満ちた瞳だった。
「眠れないの?」
「ええ、少し……考えることがあって」
テアは冷たい壁にそっと背を預けた。
「あの、アルカという子のこと?」
「……はい」
エリルは窓の外の闇を見つめた。
「一度の会話で、彼女は少しだけ変わった気がするんです。でも……本当にそれでよかったのか、今の私には分からなくて」
テアは少しの間、夜の静寂を噛み締めるように考え込んだ。
「世の中にはね、変わることを何よりも怖がる人間がいるのよ」
「変わるのが、怖い……?」
「ええ。自分が変わってしまったら、それまで血を吐くような思いで苦しんできた過去の自分が、すべて否定されてしまうような気がするのね」
エリルは、その言葉の重みに静かに頷いた。
「でも」
テアは、視線を再び窓の外へと向けた。
「変わることを頑なに拒んで、結局変われなかった人間を、私はこれまでに何人も見てきたわ」
「その人たちは……」
「みんな、壊れてしまった」
重苦しい沈黙が、二人の間に降りてくる。
「……テアさんは」
エリルは、胸の奥にそっと触れるように、低い声で尋ねた。
「ご自身も、壊れかけたことがあるんですか?」
テアは何も言わず、ただ自分の右手首を少しだけ持ち上げてみせた。頼りない廊下の灯りの中で、彼女の白い肌に、かつて深く刻まれたであろう傷の痕跡が、うっすらと浮き上がって見えた。
「あるわ」
テアは、愛おしむようにその傷跡を撫でた。
「だから私は今、ここにいるの。……助けてもらったから」
「……誰に、ですか?」
テアは少しだけ間を置いた。
「――あの人に」
その、名前すら呼ばない、けれど絶対的な響きを孕んだ言い方だけで、エリルにはすべてが理解できた。その人は、もうこの世界にはいないのだということが。
「怖かった。苦しかった。でも、誰にも言えなかったの」
テアの声は、どこまでも透き通って静かだった。
「誠実な人間ほどね、他人に助けを求めることを『弱さ』だと思い込んでしまうのよ。だから全部自分の中に飲み込む。黙って一人で抱え込んでしまう。……かつての私も、全く同じだった」
エリルは、何も言葉を返すことができなかった。
「あの人が、最後に私に見せてくれたものはね――」
テアは窓の外の遠い空を見つめたまま、祈るように言葉を紡いだ。
「どんなに美しい魂でも、たった一人だと、やがて腐っていくだけなのだと」
沈黙が、長く、長く夜の廊下を満たしていく。
「気づいた時には、もうすべてが遅すぎたのだけどね」
テアは、消え入りそうな声で小さく呟いた。
「もっと別のことも、伝えたかった……」
その先にある言葉を、彼女は口にしなかった。けれど、言わなくてもエリルには分かった。それは、言葉にならなかった、記録にも残らない、最も大切な想いだ。
「あなたの、カイ君は」
テアがゆっくりと視線を戻し、エリルをまっすぐに見つめた。
「あの人と、同じ目に合わせないでね」
エリルの瞳が、大きく揺れた。
「言えることは、言えるうちに伝えておくのよ」
テアは、優しく微笑んだ。そこには怒りも悲しみも、何ひとつ混ざっていない。ただ、すべてを受け入れた者の静かな気高さを湛えた顔だった。
「あなたたちには――まだ、時間があるのだから」
アルカが深く眠りについたのを確認してから、エリルはそっと部屋を出て、夜の廊下へと足を止めた。タワーの冷たい壁に、吸い込まれるようにそっと手のひらを触れさせる。
(……あぁ、また、見える)
あの、情報の線だ。けれど今夜は、これまでとは決定的に違うものが見えていた。少女から伸びる無数の線の、その遥か奥の奥に――何かが存在している。少女がこれまで数千年にわたって読み続けてきたという、膨大な「世界記録」の源。その巨大な大元流が、一条の光の線として、かすかに透けて見えたのだ。
(……なんて、大きいの)
それは、目眩がするほどに巨大な、超物質的な構造物だった。まるで、世界そのものを定義づける「盤面」のような。けれど、カイが自らの直感と命を削って創り出す盤面とは、その次元が根本から違っていた。もっと、悍ましいほどに古くて。もっと、狂おしいほどに広い。エリルは思わず、呼吸をすることすら忘れて息を止めた。
(……これが、世界の――)
言葉が出てこなかった。ただ、直感だけで理解できた。これが、この世界の理不尽な構造の、すべての奥底に鎮座している「何か」なのだと。
「エリル」
背後から、低く硬い声が響いた。ロドだった。暗い廊下の端に、彼は壁と同化するようにして佇んでいた。
「……何が見えた」
エリルは少しの間、頭の中の光景を整理するように考えてから、震える声で答えた。
「大きな……盤面が、見えました」
「どのくらい大きい」
「……この世界の、全部を覆い尽くしてしまうくらい、大きなものです」
ロドは何も言わなかった。ただ、その面具の奥の瞳が、何かを確信したように静かに動いた。
同じ夜。タワーの記録室の分厚い扉の隙間から、細い灯りが漏れていた。ルウは少しだけ迷う仕草を見せたが、意を決して、中をそっと覗き込んだ。部屋の奥では、アルカが山のように積み上げられた、色褪せた古い羊皮紙の前にぽつんと座っていた。
「……こんな夜更けに、眠れないの?」
アルカは振り返ろうとはしなかった。
「――眠るのが、怖いのよ」
「なんで?」
「目を閉じて、夢を見ている間も……あの膨大な『記録』が、容赦なく私の中に流れ込んでくるから」
「……どんな記録が、来るの?」
「人間の、絶望と苦しみのログよ」
ルウは静かに部屋の中へと入り、アルカのすぐ隣に、何も言わずに腰を下ろした。そして、目の前に広げられた羊皮紙へと視線を落とす。そこには、針の先で突いたような細かい文字が、びっしりと羅列されていた。
「これ、全部読んだの?」
「ここにあるものは、すべて読んだわ」
「……疲れちゃわない?」
「――私は、ずっと疲れているのよ」
アルカの冷え切った横顔を見つめながら、ルウは少しだけ考えてから、ぽつりと言った。
「私も、同じだよ」
アルカが、ここで初めてルウの方を振り返った。
「あなたは……」
少女のセピア色の瞳が、ルウの顔を観察するように動く。
「これほど酷く疲弊しているというのに、どうしてそんなに、ちゃんと息をしているの?」
「……え、息? してるかな」
「してるわ。……前に会ったときよりも、ずっと深く」
二人の間に、静かな沈黙が降りてくる。アルカは、それ以上追及することなく、再び目の前の羊皮紙へと目を戻した。
「……かつてこの世界で生み出された、『傀儡』たちの記録を整理していたの」
「なんでそんなことを?」
「何らかの共通するパターンがあるような気がして。データによれば、全く異なる種類の人間たちが、それぞれ違う理由で壊れているように見えた」
アルカの細い指先が、羊皮紙の一点に刻まれた古い紋章を強く押さえた。
「けれど、その崩壊のプロセスを大きく『八つ』の特性に分類していけば――」
突如、少女の指がぴたりと止まった。
「……あと少し。あと少しで、その核心が見える気がするの」
翌朝。ルウがいつものように廊下を歩いていると、少女の部屋の扉が、今日も少しだけ開いていた。覗き込むと、少女が窓際に座って、ぼんやりと外の景色を眺めていた。
ふと見ると、彼女の手元、窓枠のすぐ端に、何かが置かれているのが見えた。
それは、かすかに萎びかけた、真っ白な花びらが一枚。昨日、彼女が敗北したあの茶房の石畳に、無惨に落ちていた花束の残骸に違いない。
少女はその花びらを、捨てるのでもなく、かといって大袈裟に飾るわけでもなく、ただそこに、そっと静かに置いていた。
ルウはそれを見て、あえて声はかけなかった。
ただ、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じながら、優しく微笑んでその場を通り過ぎた。
次の日。エリルが再び部屋を訪れると、アルカは昨日と同じように窓の外を見つめていた。
「……ルウがね、勝手に花を持ってきて置いていったわ」
少女の視線を追うと、窓枠の端には、昨日の白に加えて、新しく鮮やかな数枚の花びらが増えていた。
「一枚じゃ、なくなっちゃったね」
「押し付けがましいのよ。私の許可も取らずに、勝手に置いていくなんて」
「ふふ、うん。ルウはそういう子だから」
「……理解できないわ。なぜ、そんな無意味なことをするのか、私にはさっぱり分からない」
エリルは、いつもの壁際の椅子に静かに腰を下ろした。
「きっとね、何かの役に立つから、とかそういう理由じゃないと思うの」
「じゃあ、なぜ?」
「ただ……そうしたかったから、じゃないかな」
アルカは、その言葉の意味を咀嚼するように少しだけ黙り込んだ。
「『したい』という感覚が、私には分からないのよ」
「……何かの記録が読みたい、とか、そういうのも違うの?」
「読みたい、という欲求はあるわ。けれど、それはシステムに組み込まれた命令に近い。心から『したい』と思う感覚は――」
アルカは、窓枠の花びらを一瞬だけ、愛おしそうに見つめた。
「きっと、私の持つすべての記録の、外側にあるものだわ」
エリルは、深く頷いた。
「そうかもしれないね」
「――あなたは?」
アルカが突然、まっすぐな視線をエリルへと向けた。
「あなたは、あのカイ君という盤面師に対して、長い間、学舎の廊下ですれ違いながらもずっと話しかけられずにいた。……それは、彼に話しかけたかったの?」
エリルは、不意の問いに少しだけ照れたように笑った。
「……話しかけたかったよ。ずっと、ずっとね」
「でも、できなかったのでしょう?」
「うん。できなかった」
「どう違うの? 『したいのに、しない』ということと、私のようにそもそも感覚が『分からないから、しない』ということの違いは」
エリルは少しだけ視線を落とし、あの薄暗い廊下の記憶を手繰り寄せながら、丁寧に言葉を選んだ。
「『したいのに、しない』のはね……怖かったからよ」
「怖かった……?」
「ええ。もし声をかけて、今の関係すら壊れてしまったらどうしようって、怖くてたまらなかった。でも――」
エリルは顔を上げ、アルカのセピア色の瞳を見つめた。
「感覚が『分からないから、しない』というのは、ただ……本当に、道が分からないだけなんだと思う」
アルカは、再び窓の外の流れる雲へと目を戻した。
「……そう。だとしたら、私は――」
少女の声が、かすかに震えた。
「この世界のすべてを知りながら、本当はただ、怖かっただけなのかもしれないわね」
エリルは、それ以上は何も言わなかった。ただ、静かに彼女の傍らに寄り添い続けた。窓から差し込む陽光の中で、アルカの頑なだった両肩の力が、ほんのわずかだけ、優しく緩んでいくのが分かった。
部屋を出たエリルは、廊下で待っていたロドの前に立ち、きっぱりとした口調で告げた。
「ロド。……カイくんを、ここに呼んだ方がいいと思います」
ロドは、硝子の面具を被り直すこともなく、ただ短く頷いた。
「……分かった。手配する」
遠くから、タワーの境界を告げる重厚な鐘の音が、ゴーンと響き渡った。巨大なスーラ・タワーが、まるで一つの生き物のように、夜の闇の中で静かに呼吸している。エリルは廊下の高窓から、どこまでも広がる深い夜空を見上げた。
今夜。カイもまた、この世界のどこかで、同じ星空を見上げているだろうか。不器用で、誰よりも誠実な彼の横顔を思い浮かべながら、エリルはただ静かに、そう願わずにはいられなかった。




