それぞれの想い
宿の煤けた天井を、カイはただじっと見つめていた。
どれほどの時間が流れただろう。結局、一睡もできなかった。硝子の面具を外し、ただならぬ気配を纏ったロドがこの部屋を去ってから、すでに何時間が経過したのか、もう感覚すら曖昧になっている。
『何かあれば水に入れ』
別れ際、ロドはそれだけを硬く言い残し、夜の闇へと弾かれたように走り去っていった。
カイは寝台の上で、胸元に潜む冷たいペンダントをそっと掌で握り締めてみる。その微かな肉体の振動に応じるように、結晶の奥で蒼い光が、呼吸のごとく静かに脈打っていた。
この光の向こうに、あのエリルたちの待つ「スーラ・タワー」への道がある。分かってはいる。けれど、彼らから明確に呼ばれてもいない身で、あの排他的なタワーの領域へ勝手に足を踏み入れるわけにはいかなかった。
カイは重い上体を起こした。言葉にならない焦燥を振り払うように、壁に掛けられた上着を羽織って、静まり返った部屋を後にした。
夜の街は、気味が悪いほどに静まり返っていた。
大盤宮を離れ、あてどなく流れ着いた、名前も知らない辺境の街。どこまでも続く鈍色の石畳の路地、等間隔に配置された頼りない街灯の光。どこか遠くの建物の屋根から、壊れかけた受信機が吐き出す不快な雑音が、風に乗って低く響いている。
カイはただ歩いた。目的地など、最初から決めてはいない。ただ、体内に溜まった澱を吐き出すように、一歩一歩、足を前へと進めた。
古びた酒場の前を通りすぎようとした、その時だった。建て付けの悪い扉の細い隙間から、押し殺したような声が漏れてきた。
「……すみません」
それは、若い男の擦り切れた声だった。
「本当に、すみません。私が、私が悪かったんです……」
誰かを激しく怒らせ、糾弾されているわけではなさそうだった。中からのぞく気配に、他人の影はない。男はただ、暗闇に向かって――自らの過去に向かって、狂ったように謝り続けていた。まるで、一度始まったその自己処罰のプログラムを、自力ではもう止められないみたいに。
少し先の薄暗い路地に入ると、今度は一人の女が、壁にへばりつくようにしてぽつんと立っていた。
「大丈夫。大丈夫だから。私はまだ、ちゃんとここにいるから……」
虚空を見つめるその目は完全に焦点が合っておらず、ただ自分をこの世界に繋ぎ止めるためだけに、同じ言葉を呪文のように繰り返していた。
さらに宿のすぐそばにある共同の水汲み場では、腰の曲がった老いた男が、空の桶を両腕で固く抱え込んだまま、石像のように動けなくなっていた。誰かの帰りを待っているわけでも、明日の準備をしているわけでもない。ただ、時間の流れから完全に切り離されたように、そこに静止していた。
彼らは、怪物ではない。世界を侵食する、あの悍ましい歪みに直接呑まれているわけでもない――まだ、今は。
けれど、何かが、彼らの魂の最も柔らかい部分が、この世界の理不尽な構造によって静かに削り取られている。「盤面師」としての視覚を持つカイには、彼らの輪郭から零れ落ちる精神の破片がありありと見えていた。
でも。ここで自らの脳内に「盤面」を展開しようとしても、その白磁の空間の、一体どこへ救いの駒を打てばいいのかが全く分からない。
エリルが、いない。
ただそれだけのことだった。彼女という、世界の調律者が隣にいないだけで、天才と呼ばれたカイの指先は、世界の救い方を完全に見失ってしまうのだ。
あてどなく歩き続けていると、細い路地の奥に、ぽつんと温かな灯りが見えた。
磨りガラスの向こう側に、規則正しく並んだ、見慣れた四角い「盤」の影が浮かび上がっている。棋場だった。こんな夜更けだというのに、まだ細々と店を開けているらしい。
カイは足をとめ、しばらくその灯りを見つめていた。それから、何かに吸い込まれるようにして、静かにその扉を押し開けた。
店内の客は少なかった。二組か、三組か。誰もが深く帽子を被り、新参者であるカイに顔を上げようともしない。ただひたすらに、目の前の木盤と、そこに並ぶ駒だけを見つめている。
カイは、最も薄暗い奥の席へと腰を下ろした。机の上には、静かに使い込まれた盤が置かれている。その上では、黒と白の駒たちが、美しく整列したまま、主の訪れをじっと待っていた。
対局の相手など、そこにはいない。ただ、盤の前に座る。カイにとっては、それだけで十分だった。
かつて生きていた、あの遠い故郷の漁村の外れにも、これと全く同じ、潮風に晒された古い棋場があった。親にも世界にも馴染めず、ただ息を詰まらせていた少年時代。夏のうだるような暑さの中でも、冬の凍てつくような寒さの中でも、カイはあの静かな盤の前でだけ、本当の呼吸をすることができた。
盤面は、カイに小難しい「言葉」を要求してこない。ただ、己の魂を込めて駒を置けばいい。読むべき真実、相手の欺瞞、世界の構造、そのすべては、言葉を介さずに盤面の上へと寡黙に現れる。
でも、今は――。こうして慣れ親しんだ盤の前に座っても、胸の奥の何かが決定的に違っていた。
ふと見ると、隣の奥の席で、一人の老いた男が黙々と一人で駒を動かしていた。
老人はカイの存在に気づくと、ゆっくりと顔を上げた。老い先短いことを感じさせる、ひどく深く刻まれた皺。けれど、彼は何も言わなかった。ただ、自らの向かいにある空席を、静かに皺だらけの手で指し示した。
カイは少しだけ迷い、誘われるままその席へと静かに腰を下ろした。
白い駒を一つ、指先に持つ。男が打つ。カイが、それに応じる。二人の間に、言葉は一言もない。ただ、古びた木盤が、沈黙の間に介在している。それだけだった。
数手、互いに駒を交わしたところで、カイは静かに直感した。この老人は、世界を救う盤面師などではない。ただ、打っているだけだ。世界の侵食に怯えているわけでも、特別な異能を持っているわけでもない。ただ、夜中にどうしても眠れず、この寂れた棋場へやってきて、盤の前に座っているだけの、どこにでもいるただの人間。
それだけだった。なのに――。
その老人と、ただ無言で駒を響かせ合っているだけで、カイの胸の奥の激しい疼きが、ほんの少しだけ静まっていくのを感じていた。
何局か打ち終えると、老人は満足したようにゆっくりと立ち上がった。カイに向かって静かに一礼し、夜の街へと帰っていく。
棋場に、カイは一人取り残された。
目の前の盤を見つめる。彼は、白く重い駒を一つ、再び手に取った。すると、視界の端から、いつものように盤面がじんわりと白く滲み始めていく。精神世界に広がる、あの絶対的な「白い空間」が、ゆっくりとカイの自意識を包み込んでいく。いつもと同じ、彼だけの聖域だった。
でも。駒を打とうとして、カイの指先は、虚空でぴたりと止まった。
どこへ、打てばいいのか。それが、どうしても分からない。
大盤宮の時とは違う。世界の構造そのものが、恐ろしいほどの密度で変質している。その亀裂がどこにあるのか、どの座標を塞げばこの世界の崩壊を止められるのかが、どれほど脳細胞を回転させても全く見えてこないのだ。
駒が、宙に浮く。行き先を失ったまま、ただ白い空間の中で、虚しく浮いている。
やがて、構築されかけた白い盤面は――力なく、少しずつ霧のように薄くなっていった。
カイは、自らの空っぽの手のひらを見つめた。そこには、何も残っていない。
精神の盤面が完全に消え去り、現実の、静かな棋場の風景が戻ってくる。目の前の盤の上には、ただ、どこへも打たれずに戻ってきた駒だけが寂しく転がっていた。カイはそれを、愛おしむように元の位置へと正しく戻した。
「……エリル」
その名前を声に出して呟いたのは、自らがそれに気づいた後だった。もちろん、誰も聞いてはいない。棋場の隅で、店主がカチャカチャと静かに盤を片付けている音だけが響いている。夜風に揺れる街灯の光が、磨りガラスを淡く白く染めていた。
ただ、彼女の名前だけが、夜の棋場の片隅に、短く、切なく残された。
部屋へ戻り、固い簡易寝台の上へと横になった。これで眠れるかどうかは分からなかった。けれど、さっき路地を歩いていた時よりは、不思議と胸の奥が静かだった。
カイは胸元のペンダントを手のひらで固く握り締めたまま、ゆっくりと目を閉じた。
――その時だった。
ビクン、と、掌の中で結晶が激しく震えた。驚いて目を開けると、暗闇の中でペンダントが、見たこともないほどに鮮明な蒼い光を放っている。ロドからだ、と瞬時に理解した。ついに、あのタワーから呼ばれたのだ。
カイは弾かれたように上体を起こした。窓の外は、まだ深い夜の帳に包まれている。けれど、遠い水平線の端が、ほんの少しだけ白み始めていた。カイは迷うことなく上着を手に取り、部屋を飛び出した。
宿の裏手にある、古びた石造りの井戸。カイは祈るような心地で、蒼く輝くペンダントを強く握り締めた。井戸を覗き込むと、漆黒だった水面が、まるで極上の鏡のようにピりピりと震え、静まり返っていく。
その冷たい水面の奥底に――あの、異彩を放つ白い「スーラ・タワー」の光景が、万華鏡のように鮮やかに広がっていくのが見えた。
カイは意を決し、その静まり返った水の中へと、迷わず自らの右手を深く沈めた。




