清水の淵
スーラ・タワーの冷徹な直線で構成された廊下に、ロドが戻ってきた。
その顔からは、いつも周囲を威嚇していた硝子の面具が外されたままであった。
彼のすぐ後ろには、あの茶房でカイの精神を徹底的に追い詰めた少女、アルカがついてきていた。
彼女が抱えていたあの夥しい諦念の象徴である花束は、もうどこにもなかった。
少女は、まるで初めて自分の肉体を手に入れたかのように、自らの白く細い両手を、歩きながらただじっと見つめている。
エリルは、その二人の姿を廊下の端に身を寄せ、静かに見届けていた。すれ違いざま、ロドはエリルと視線を交わすことすらなく、掠れた低い声で、一言だけ残した。
「……頼む」
それだけだった。ロドの背中には、かつてない重い疲弊と、少女の処遇をエリルに託すほかないという無言の信頼が滲んでいた。
翌朝。静まり返った廊下を、ルウが大量の洗い物を抱えて、せわしなく歩いていた。ふと、少女の部屋の前を通りかかったとき、その足が自然と立ち止まる。分厚い鉄の扉が、ほんの数センチだけ、隙間を作るように開いていた。ルウは首を少し傾げ、少しだけ考えてから、空いた片手で軽く扉をノックした。
「……手伝えること、ある?」
ルウの屈託のない声に応えるように、部屋の奥から、かすかな少女の声が返ってきた。
「……なぜ」
「んー」
ルウは抱えた洗い物の山に顎を乗せ、天井を見上げるようにして首を傾げた。
「特に、理由はないんだけどね」
ルウは少しだけ扉を押し開け、顔を覗かせた。
「暇なら、一緒にやる?」
少女は何も答えなかった。けれど、拒絶の言葉の代わりに、閉ざされていたはずの扉が、内側から引き寄せられるようにして、ほんの少しだけ、さらに開いた。
昼過ぎ。エリルは再び、少女の部屋へと足を運んだ。部屋の中では、ルウが朝から洗い終えた真っ白な布を、慣れた手つきで几帳面に畳み続けている。少女は窓際にぽつんと座ったまま、そのルウの指先の規則的な動きを、ただじっと見つめていた。
(……線が、見える)
エリルの瞳が、無意識のうちに少女の輪郭を捉える。少女の身体からは、あの茶房の時と同じように、情報の奔流である無数の細い糸が、全方位に向けて無数に走っていた。
けれど――あの時、ルウに見えていた「世界と繋がる線」とは、決定的に違っていた。
彼女の糸は、切れてはいない。確かにどこへでも向かっている。でも――そのどれ一本として、世界のどこへも届いておらず、繋がってもいなかった。
それは、純粋な情報だけが虚空を走り抜け、誰との繋がりも生み出していない、絶対的な孤独の証明だった。まるで、放たれた光が、何ひとつとして遮るものに反射せず、ただ永遠の闇を通り抜けていくみたいに。
「……あなたは、全部読んだのね」
エリルが、波立たない水面のような声で、静かに言った。少女の細い肩が、その言葉に反応してわずかに動いた。
「……ええ」
「どのくらい?」
「数えていないわ」
少女は窓の外の、流れる雲を見たまま言った。
「ただ……人類の記録があった。すべて。それがどこへ行き着くかも、最初の数行を読めば、私には分かった」
「どこへ、行き着いていたの?」
少女は、ルウが布を畳む音の合間に、少しだけ長い間を置いた。
「……すべて、同じところよ」
エリルは、責めるでもなく静かに頷いた。
「じゃあ」
エリルは少しだけ自分の記憶を辿るように考えてから、言葉を続けた。
「私とカイくんが、あの学院の廊下ですれ違っていた時のこと」
少女の、膝の上で微動だにしなかった指先が、ぴたりと止まった。
「……読んだ?」
少女は答えなかった。けれど、その頑なな沈黙の意味が、今のエリルには痛いほどよく分かった。
「記録に――なかったのね」
「……ないわ」
少女の声のトーンが、初めて微かに揺らぎ、変化した。
「私の書庫の、どこを探しても……そんなものは存在しない」
「そうね」
エリルは、どこか愛おしそうに微笑んで頷いた。
「あれは……世界のどこにも、書かれなかったことだから」
少女のセピア色の瞳が、この部屋に入ってきて以来、初めてまっすぐにエリルの方へと向けられた。
「……なぜ、書かれなかったの」
「言葉にしなかったから」
エリルは、少しだけ悪戯っぽく笑った。
「言葉にならなかったから……だから、世界のどんなシステムにも、記録にすらならなかったの」
「でも――」
「あったのよ」
部屋に、重い沈黙が降りてくる。
「言葉にはならなくても、ちゃんと、そこにあったの」
少女は、それからしばらくの間、何も言わなかった。ルウが静かに布を畳む、規則正しい衣擦れの音だけが、陽だまりの部屋に小さく響き渡っている。
「……私は」
少女が、絞り出すような低い声で言った。
「この世界のすべてを、知っていると思っていた」
「……うん」
「でも」
少女の両手が、膝の上で、白くなるほど小さく握り締められた。
「私の知らないものが、確かにあった」
エリルはそれ以上、何も言わなかった。ただ、彼女の隣で、その震えを受け止めるようにそこに佇んでいた。少女の視線が、ゆっくりと窓の外の景色へと戻る。けれど、そのセピア色の瞳は、さっきまでの乾いた絶望とは、少しだけ違う暖かな色を宿していた。




