誠実の奈落
巨大な頭部が、ゆっくりと左右に揺れる。 閉じた瞼の奥で、何かが、ドロドロとした狂気の熱を持って蠢いていた。男は、カイを真っ直ぐに見つめたまま、今度は、穏やかさと激しい自嘲が混ざり合った奇妙な笑みを浮かべた。
「……私を、癒してくれるとでも言うのですか。この、完璧な帳簿を汚した不誠実な者たちを、すべて『処理』し終えた私を」 声は静かだった。だが、その奥にあるものは、決して平穏などではなかった。
次の瞬間、白い盤面の床が派手に裂けた。 腐敗した巨大な手が、地面を突き破って飛び出し、濡れたように鈍く光る長い爪を剥き出しにして、カイの細い身体を目がけて一直線に振り下ろされた。
轟音が響き、白い床が波打つ。 カイの身体は、完全にその巨手によって押しつぶされた――はずだった。
しかし、その手は、霧を裂くようにカイの肉体をすり抜けた。まるで、カイの存在そのものが、この盤面の物理的な因果の「外側」に置かれているかのように。
セドの目が、驚愕にわずかに見開かれる。「……なるほど」
直後、二撃目、三撃目が容赦なく襲いかかる。 床を叩き、空間そのものを狂ったように叩きつける。巨大な手が、まるで自らの思い通りにならない現実に駄々を捏ねる子供のように、激しく暴れ狂う。白い地面に無数の亀裂が走り、不浄な指先が空気を激しく引き裂いた。
カイの肉体に傷はつかない。だが、直撃のたびに精神が激しく削られ、彼はついにその場に片膝をついた。喉の奥が、カッと熱くなる。
「……痛いです」 カイの口から、掠れた声が漏れた。「すごく、痛い」 セドの目が、冷酷に細められる。「肉体ではなく、心が痛むのですか。境界を越えて、私の痛みが、そのまま流れ込んでいるのでしょう」
「あなたは……不誠実な者たちに、罰を与えているだけだ。自分を犠牲にしてまで」 「罰を否定するのか、坊や」 セドの表情が、初めて醜く歪んだ。 「私がどれだけ尽くしても、奴らは平気で私を裏切り、財を貪った! 誠実ではない者は、正しい形に戻すべきだ。それこそが、この歪んだ世界の唯一の秩序だ!」
巨大な手が、さらに強烈な圧力でカイの頭上へと叩きつけられる。 カイの身体が激しく揺れた。今度は、明確な精神の激痛が脳髄を貫いた。物理ではない。敵の放つ「過剰な正義の言葉」が、カイの胸の奥底にある『正しくあろうとする揺らぎ』に、直接爪を立てて引き裂いているのだ。
「それでも……あなたは、もう疲れているんだ!」カイは吐き捨てるように叫んだ。
男の動きが、唐突に止まった。 それに連動して、暴れ狂っていた巨大な頭部も、その手も、ぴたりと空間に固定される。盤面の空気が、張り詰めた弦のように震えていた。 男の顔から、すべての感情が消え失せる。
「……疲れている、か」 その呟きは、ひどく弱々しく、今にも消えてしまいそうだった。
だが、男の目の奥に、今度は冷酷な「理解」の光が宿った。 「……ああ。そういうことか」 彼は、何か腑に落ちたような声で、低く笑った。 「カイ君。君のことが、ようやく分かったよ。君の胸の奥にいる、あの気高き『勇者(英雄)』は――これまで、君のために何か一つでもしてくれたのかね?」
カイの呼吸が、完全に停止した。少年の頃から、自らを縛り続けてきた聖書の言葉が、脳裏を駆け巡る。
「勇者は……本当に、人を救うのかね? 誰も救えず、ただ沈黙して血を流すだけではないのか」
その冷徹な言葉の刃が、カイの最も深い傷口を正確に抉った。 瞬間、巨大な手がカイのすぐ脇へと激しく叩きつけられる。直撃ではない。だが、言葉によって生じた胸の奥の「揺らぎ」のせいで、その凄まじい風圧だけで、カイの精神体は容易く後方へと吹き飛ばされた。 白い床の上を無様に転がり、泥塗れの片手をつく。
セドは、ゆっくりと、愉悦に満ちた笑みを浮かべた。 「……そういうことだ。ただの、哀れな小僧が」
その決定的な一言で、カイの心の芯が、ガシャリと音を立てて折れた。 支えていた両手がズルリと滑り、完全に床へと突っ伏す。激しい精神の拒絶反応により、喉の奥から本物の鉄の味がせり上がり、口端から赤い血がひと筋、白い床へと滴り落ちた。
視界が歪む。 巨大な頭部が、勝利を確信してゆっくりと近づいてくる。その巨大な口が裂けるように開き、すべてを飲み込む暗闇が広がった。 ここで噛み砕かれれば、現実の肉体も二度と目覚めることはない。死が、目前に迫る――その刹那だった。
『――泥の中の宝石を、信じなさい』
澄んだ、懐かしい恩師の声が、暗闇を切り裂いて脳髄に響き渡った。 かつて高等部の退屈な授業のあと、教科書をパタンと閉じたマダム・レイラが、悪戯っぽく微笑みながら付け加えた、あの一文。
カイの視界が、爆発的な白光の中に弾けた。 真っ白だった盤面が、今度は、急速に「黒い記憶の泥」へと染まっていく。
そこには、一人の少年がいた。 泥まみれの地面に咲いた、一輪の頼りない花。それを自らの身体で覆い隠し、庇うようにして、背中を大人たちに何度も蹴られ、踏みつけられ、冷たい泥の中に沈んでいく少年。 それでも――その少年は、泥を吐きながら、確かに笑っていたのだ。 「大丈夫だよ」と。
その泥まみれの少年の姿が、現在のカイの輪郭と、完全に重なり合う。 それを見た瞬間、セドの呼吸が、狂ったように激しく乱れた。
「……やめろ」 盤面が、引き裂かれるように激しく揺れる。 「やめろ……それを視せるな! やめてくれ……っ!」
巨大な生首が恐怖に震え、その黒髪が四方へと狂わしく乱れ飛ぶ。 カイは横倒しになったまま、浅い呼吸を繰り返していた。だが、その瞳の光だけは、泥の中でも決して消えてはいなかった。
男は自らの頭を両手で激しく抱え、狂ったように叫び続けた。 「なぜだ……なぜ、私の計算通りに戻らない……! 完璧な帳簿に、なぜこれほど莫大な『未払い(想い)』が残っている……!」
介入された結界が解けない。白い世界が、閉じない。 「ここから出せ……私を、この空白から出せぇえええ!」
セドの狂乱の叫びと共に、巨大な手が最後の悪あがきのようにカイの身体を押し潰そうとした、その瞬間。
世界に、もう一つの、決定的な声が響いた。
『――もう大丈夫だよ、父さん』
それは、あの泥まみれで笑っていた、少年の声だった。
男の動きが、完全に停止した。 巨大な怪物も、その長い爪も、すべての因果が解けるように、その場に固まる。 そして――真っ白な盤面の世界が、ガラスが割れるように、静かに、優しく崩壊し始めた。
◇
現実の倉庫の冷たい石畳の上で、カイは両手両膝をつき、激しく肩を上下させて荒い呼吸を繰り返していた。口元を拭うと、赤い血が手の甲にべっとりと付着する。
隣では、セドが頭を抱えたまま、現実の壁に向かって、掠れた声で叫び続けていた。その狂乱の声が、高い天井に虚しく反響する。
ロドが、動いた。 彼の周囲に浮かんでいた、スーラ・タワーの防衛機構である蒼白い「素体ブロック」が、一瞬にして鋭利な槍の形へと変形する。 そして、音もなく、躊躇いもなく、一直線にセドの胸元を貫いた。
男の叫びが、ぷつりと途切れた。
倉庫の中に、再び、しんとした静寂が落ちてくる。 カイは、未だに乱れた呼吸を整えることができず、膝をついたまま床を見つめていた。
ロドが、金属的な足音を立ててゆっくりと近づいてくる。 「……終わった」 その短い声だけが、夜の倉庫に冷たく残された。 貫かれたセドは、壁に背を預けたまま、どこかすべての計算を終えて安心したかのような、酷く穏やかな顔をして息を引き取っていた。
だが、事件はそこでは終わらなかった。
開け放たれた扉の外の暗闇に、いつの間にか、一つの人影が静かに佇んでいた。 その腕には、夜の闇に白く浮かび上がる、見事な花束が抱えられている。
少女だった。 彼女は、息絶えたセドの姿と、それを見下ろすロドの仮面をじっと見つめ、静かに言った。 「――お弔いに、参りました」
その声には、一切の憎しみも、怯えもなかった。 「私はこれから、あなたたちの定義する『敵』の側に身を置くことになります。ですが、私はまだ、この世界で何一つの罪も犯していません」
少女は、視線を転じ、床に這いつくばるカイの瞳を真っ直ぐに見つめてきた。 「……今の私を、ここで処分しますか?」
ロドは答えない。ただ、面具の奥の視線を鋭く尖らせるだけだ。 「少し待っていただけるのなら、私とあなたたちの間で、お話もできますけれど」少女は淡々と続けた。
夜の冷たい風が、鉄格子を抜けて室内に吹き込む。抱えられた花束から、白い花弁が一枚、ハラハラと零れ落ちて、黒い線が薄れゆく石畳の上へと静かに落ちた。
「お任せします」 少女が、ふいに歌うように言った。 「あなた――」
彼女の、射抜くような視線が、カイの心臓へと突き刺さる。
「私を、救えるのかしら」
その声は、決して浅薄な挑発などではなかった。ただ、この世界の深淵を覗き込んでしまった者としての、絶対的な『確認』。
「もし、できるというのなら」 彼女の唇に、ほんの微かな、妖艶な笑みが結ばれる。
「――私を、敗北させてみて」
それだけを言い残し、少女は花束を抱えたまま、夜の闇の向こうへと、滑るように姿を消した。
静まり返った倉庫の床で、カイは己の手のひらをじっと見つめていた。 何も持っていない。武器も、術式も、相変わらず何一つ。 けれど確かに――あの激痛の盤面の底に、自らの魂の一部を、楔のように置いてきたような、確かな重みだけが残されていた。
ロドが機体の把手に手をかけ、一度だけカイを振り返る。 「……前にも、お前のように『内側』に入り込まざるを得なかった男がいた。帳簿師ではなく、一人の不器用な医者だった」
カイは何も言わず、その背中を聞いていた。
「誰よりも正直に働き、患者のために身を粉にして動き、同僚の不正を涙を流して告発した、そんな誠実な人間だった。だが、告発した翌日から、奴の頭の中に『女王の声』が入り込んだ」 ロドの声が、夜の空気に重く沈む。 「俺のやり方では――外側から奴を消すことしかできなかった。中にまだ、救える魂が残っていたのかもしれん。だが、俺には入れなかった」
一拍の、長い沈黙。
「……だから、お前が必要だったんだ、カイ」
部屋の中は、再び元の静寂を取り戻していた。 積み重なった帳簿。誰にも触れられなかった金貨の箱。それらは何一つ変わらずそこに佇んでいる。 ただ、床に焼き付いていたあの不気味な黒い線だけが、夜明け前の光に洗われるようにして、ほんの少しだけ、薄くなっていた。




