全知の嵐
王都の片隅、旅人向けの小さな茶房には、まだ夜更けの灯が細々と残されていた。夜更けとあって、店内に客の姿はまばらだ。
店主は、硝子の面具を被ったロドの姿を認めると、何も聞かずに、ただ顎で店の最奥にある薄暗い席を指し示した。その無言の対応が、ここが訳ありの人間たちの吹き溜まりであることを物語っている。
少女は、音もなく静かに長椅子へと腰を下ろした。その細い指先が、懐から取り出した一枚の布紙を、木目の机の上へと滑らかに広げる。
それは、古びた、けれど奇妙に手擦れのない「盤面」だった。一見してチェスや将棋の類ではない。煤けた布の表面には、人間の歴史からは失われたはずの、無数の幾何学的な「線」と「記号」が、生き物の血管のように淡く刻まれている。
ロドの面具の奥の目が、危険な獣のように細められた。
『おい』
低く警告を孕んだ声。だが、少女は視線を上げようともしなかった。
「――入らなくていいわ」
静かな、どこまでも平坦な声だった。凍てつくような細い指先が、布紙の中央に描かれた歪な結節点へと触れる。
「私の内側へ潜ろうなんて、無駄な苦労はなさらないで。ここで――この盤の上でやりましょう」
その瞬間、世界から一切の雑音が消滅した。
カイの視界だけが、油絵の具をかき混ぜるようにゆっくりと歪み始める。茶房の喧騒も、窓外を吹き抜ける夜風の気配も、完全に途絶えた。ただ、机の上に広げられた布紙の盤面だけが、異常なほどの解像度を持って、カイの網膜に鮮明に浮かび上がっていた。
少女が、冷たい手元から小さな「黒い石の駒」を摘み上げ、中央の結節点へと静かに置いた。
「孤高の盤面師――カイ」
少女の声には、一切の抑揚がなかった。感情を完全に削ぎ落とされた、冷徹な記録の響き。
カイは、いつの間にか自分の側に置かれていた、三つの「白い駒」を見つめた。
「その領域を。あなたのその不器用な盤面を作る力のすべてを、私に見せて」
一手目。
カイは己の内に流れる長年の経験と、大盤宮での死闘を経て研ぎ澄まされた直感に基づき、最善の布石として、ひとつの白い駒を静かに滑らせた。
――まさに、その刹那だった。
少女は、迷わなかった。一秒の躊躇も、呼吸の乱れすらなく、黒い駒を斜め前の一画へと進める。
速い。
それは思考の速度などではなかった。まるで、カイが駒を打つ前から、その指先がどこへ向かうのかを、最初から全て知っていたかのような、絶対的な足取り。
カイは、焦りを押し殺して次の手を読もうとした。だが、駒を進めるにつれて、机の上の空気が目に見えない物理的な質量となって、カイの胸を容赦なく圧迫し始めた。
少女はカイの顔を一切見ない。ただ、冷酷なセピア色の瞳で盤面だけを見つめている。
カイが思考を巡らせ、罠を仕掛け、これまでの定跡を外した変則的な一手を選ぶたび――彼の脳裏に生じる「迷い」や「予測の火花」のすべてが、盤上の黒い空気となって、少女の側へと吸い込まれていくのが分かった。
四手先を読む。少女はそれを、言葉にすらならない冷笑で嘲笑うように、五手先を完璧に塞ぐ。
かつて天才と呼ばれたカイの頭脳が、限界まで回転して弾き出す、十手先の「必勝のルート」。しかし、少女はそのさらに十手先を、一ミリの狂いもなく、当然の義務を果たすように確定させていく。
あり得ない。すべて、先回りされている。
冷たい汗が、カイの額を伝って、布紙の端へと静かに落ちた。
これは――勝負などではない。
ただの「答え合わせ」だ。
少女は、この布の盤上で起こり得る数千、数万通りの未来の全てを、とうの昔に、自らの細い両手の中に収めきっているのだ。
「――これで、終わり」
少女の細い指が、最後の黒い駒を静かに置いた。ト、と小さな木のような音が響く。
完璧な、詰み。
カイの白い駒は、一歩も動けないまま、逃げ場のない黒い駒の網の中に、完全に囚われていた。
「――あ、――」
カイの口から、掠れた声が漏れた。脳が、この敗北を拒絶している。
セドの時とは根底から違う。自らの精神の拠り所であった「盤面ルール」そのものを完璧に支配され、叩き割られた動揺が、カイの心の隙間を無理やりこじ開けた。そこへ、底冷えするような絶望の恐怖が、濁流となって一気に流れ込んできた。
そして――世界が、悍ましい音を立てて崩壊した。
茶房の木目の机が、古びた壁が、ランプの温かな灯りが。すべて、煤けた「文字の羅列」へとバラバラに分解されていく。無数の文字列は滝のように二人の足元へと流れ落ち、カイの精神体は、底のないセピア色の暗黒へと真っ逆さまに落下していった。少女の、深く、澱んだセピア色の瞳の奥底へ。引きずり込まれ、融解し、消滅していく。
気がつくと、カイは、激しく舞い散る光の粒子の中に立っていた。見渡す限り、どこまでも広がっているのは――白に変色し、生命を失った「文字と記号の骸」の砂漠だった。数千、数万、数億――否、人類が誕生してから今日に至るまでに紡がれてきた、ありとあらゆる人間の言葉。見上げる空は、濁ったセピア色に染まり、明滅しながら無数に流れる高速の「ノイズの帯」が、天の川のように不気味に蠢いている。
サク、サクと、文字の砂を踏み鳴らしながら、少女が歩いてくる。その瞳は、現実世界にいたときよりも遥かに深く、昏いセピア色に染まっていた。彼女の背後では、巨大な文字の嵐が、まるで意志を持つ巨大な獣のように、黒いうねりを上げて狂い咲いている。
「ただし――」
砂嵐の向こうから、少女の声が響いた。
「記録にないものは、読めない。言語化されなかったもの。心の中で燻り続け、ついに書かれなかったもの。――そこだけが、私の支配の外にある」
少女はカイの前で足を止めると、足元から白い言葉の砂をひと握り、すくい上げた。指の隙間から、さらさらと、死んだ文字が零れ落ちていく。
「私はね、この数千年の間、人間が遺した記録のすべてを読んだわ、カイ君」
少女は、哀れむように、その全知の瞳をカイへと向けた。
「けれど、そこに書かれていたのは――綺麗な言葉で飾り立て、何千年も飽きずに吐き出し続けられた、自己弁護の嘘ばかり。どれほど読み進めても、最後には絶望に行き着くだけの、空虚な問いと答えの繰り返し」
少女のセピア色の双眸が、カイの魂の最深部、大盤宮で引き受けた傷口のすべてを見透かすように、静かに、冷酷に見つめていた。
「もういいでしょう? ――諦めを叶えてあげる」




