外道狩り
王都の喧騒を離れた茶房の窓外で、魔導受信機が雑音混じりに冷たく鳴った。
『――また昨夜――王都南区にて、未登録の武装暴力組織が――守衛到着時には、現場の全員が、すでに――』
誰かが忌々しそうに音量を絞る。 それだけで、茶房の空気は数度ほど急激に冷え込んだ。カイとエリルは、互いに言葉を交わすことなく、ただ手元の冷めかけた茶杯を見つめていた。その不穏なノイズが、自分たちのすぐ足元まで迫っていることを予感しながら。
夜の闇を切り裂き、蒼白い魔力の軌跡を残して、ロドの二輪走行体が王都の路地を滑るように疾走していく。 その後部座席で、カイは流れる街並みをじっと見つめていた。風の唸りに声をかき消されぬよう、前を向いたままのロドの背中に声をかける。
「……どんな敵だ」 「分からない」 ロドは感情を削ぎ落とした声で応じた。 「ただ――俺の走行体の突進が、正面から容易く弾き飛ばされたのは、これが初めてだ」
カイは黙って、迫り来る夜の重圧を肺に吸い込んだ。街灯の光が、一本、また一本と、残酷な速度で後方へと置き去りにされていく。
現場は、王都の最南端、人気のない寂れた区画の片隅にあった。 石造りの重厚な建物。外壁は要塞のように厚く、窓には一切の侵入を拒むように強固な鉄格子が嵌め殺されている。ひと目で、何かを執拗に蓄えるための場所だと分かった。 正確には――一度蓄えた財を、死んでも誰にも渡さないための、執念の檻。
ロドが機体を完全に停止させた。 低く唸っていた魔導エンジンが消える。 周囲は、異様なほどに静まり返っていた。耳の奥が痛くなるような、完全な空白。
「……入るか」 「ああ」
正面の重い鉄の扉は、まるで招き入れるかのように、最初から僅かに開いていた。 一歩、中へ足を踏み入れた瞬間、肌を刺す空気が一変した。 重い。そして、凍りつくように冷たい。 だが、そこには暴力の現場に特有の「血の匂い」が一切しなかった。それが、かえって生き物としての本能的な不気味さを増幅させている。
そこは、広大な帳簿の倉庫だった。 壁際まで天井高く積み重なった、膨大な紙の束。床に転がった、金貨が目一杯に詰まった木箱。 どれもが、誰の手にも付けられず、奪われることもなく、手つかずのままそこに取り残されている。 ただ――人間だけが、綺麗にいなくなっていた。
ロドが、ゆっくりと部屋の中央へ進み、石畳の床を見つめた。 「……跡がある」 その視線の先、冷たい石の上に、炭で描いたような「黒い細い線」が、まるで人間の輪郭を型取るようにして、虚しく床に焼き付いていた。服も、肉体も、すべてが溶けて消え去ったかのような、悍ましい影。
「先客がいたか」 ロドの声が、低く鋭く室内に響いた。
その時だった。 部屋の最奥にある、厚い木製の扉が、何の前触れもなく静かに開いた。
一人の男が、そこに立っていた。 年齢は四十を過ぎた頃だろうか。仕立ての良い高級な外套を完璧に着こなし、髪は一筋の乱れもなく丁寧に整えられている。ただ、その首元には、まるで皮膚を引き裂くようにして、一本の歪な銀の線が走っていた。
男はこちらの姿を認めると、驚く風でもなく、帽子のつばへ静かに指先を触れ、会釈した。 「どうも」 穏やかな、耳に心地よいほどの声だった。焦りも、敵意も、そこには見当たらない。
「……お前が」 ロドの声の温度が、一気に氷点下へと叩き落とされる。 この男こそが――後にロドから知らされることになる、女王の新たな尖兵、帳簿師『セド』だった。
男は、品良く微笑んだ。 「お仕事の途中ですので。少々、お待ちを」 それだけを平然と言い残し、彼は再び奥の暗闇へと向き直ろうとする。
ロドが動いた。 一瞬にして二輪走行体が室内で魔力へと還元され、蒼白い鋭利な光の塊となって、石畳を猛然と蹴った。ロドの全魔力を込めた、必殺の突進。
しかし次の瞬間、ロドの身体は、何一つ遮るもののない空間で、音もなく派手に弾き飛ばされた。 凄まじい質量に叩かれたように、彼の肉体が背後の壁へと激突する。固い石壁が蜘蛛の巣状に砕け、派手な土煙が舞った。 ロドは苦渋に満ちた舌打ちを漏らす。 「……やはり、物理の術式は効かないか」
セドは、一度も振り返ることはなかった。 「困りますね」と、相変わらず穏やかな声で呟く。「あまり大きな音を立てられると、計算が狂います」
部屋の奥で、何かが蠢き始めていた。 音ではない。肌を圧迫する、圧倒的な空気の変質だ。 床が――いや、空間そのものが、足元からじわじわと沈み込んでいる。 違う。何かが、底知れぬ地下から、この現実を押し上げようとしているのだ。 男の足元、石畳の微細な継ぎ目から、あの人間の輪郭を消し去った「黒い油のような線」が、ゆっくりと、確実に滲み出て、部屋全体へと広がり始めていた。
「ロド」 「分かっている。……だが、俺の力では、奴の『内側』には入れない」 壁に背を預けたまま、ロドが呪うように低く言葉を絞り出す。 「俺は世界の『外側』を走ることしかできない。だが、お前は奴の内側へと介入できる。それは――俺には一生、逆立ちしてもできないことだ」
その言葉が引き金だった。 カイは、気づいた時にはすでに歩き出していた。黒い線が這い回る、男の足元に向かって。
「カイ……っ!」 遠ざかるロドの制止の声を、背中に聞き流す。
男が、ゆっくりと振り返った。 その顔は、やはりどこまでも穏やかで、慈悲深い大人のそれだった。 けれど、その硝子のように澄んだ目の奥底には――絶望的なまでに、ひどく疲れ切った何かが、泥のように深く沈殿していた。
「……来ますか、あなたも」 男は、カイの姿をじっと見つめ、一拍の間の後、静かに言った。 「どうやらあなたは、物事の構造を『視る』ことができる目の持ち主のようだ」
次の瞬間、世界の境界線が、爆発的な白光の中に融解した。
気づけば、そこは無限の「盤面」だった。 果てしなく広く、天井も、壁もない。ただ、真っ白な床だけが、静かに、どこまでも広がっている。 その盤面の向こう側に、あの男が立っていた。 現実にいたような、仕立ての良い外套も、首元の銀の線も、そこにはない。ただただ、人生のすべてに疲れ果てた一人の「中年の男」が、そこに虚しく佇んでいた。
「……なんだ、ここは。私の帳簿には、このような空白の頁は存在しないはずだが」 男の声に、初めて困惑の揺らぎが混ざる。
「分かりません」カイは正直に、けれど真っ直ぐに男を見据えて言った。「でも、ここでなら、あなたの本当の言葉と話せる気がしたんだ」
男が、わずかに眉を動かした。 その刹那、カイは視線を落とし、息を呑んだ。
盤面の白い床が――歪に沈み込んでいる。 男の足元から、ゆっくりと、悪夢のような巨大な質量が、その全容の半分だけを地上へとせり上がらせていた。 それは、頭だった。 あまりにも巨大な、そして、おぞましく腐敗した「人間の生首」。 ぴったりと閉じられた巨大な瞼。泥に塗れ、ぬめり狂った肌。何百年も洗われていないような長い黒髪が、白い盤面の床を生き物のように這い回っている。 その怪物は、怒ってはいなかった。 ただ当然の権利を主張するように、静かに、地の底から巨大な手を伸ばしてくる。その爪だけが、異様に、鋭く長い。 まるで、不浄な存在を「処理」するための、絶対的な秩序の道具のように。
カイは肺の空気を止め、身構えた。 男は、自分の足元にあるその怪物の存在に、気づいていないのかもしれない。 あるいは――とうの昔に、それがある日常に、慣れきってしまっているのかもしれなかった。
「あなたは」 男が、静かに、けれど明確な拒絶を孕んで言った。 「なぜ、私の領域にまで踏み込んでくる。一体、何が目的だ」
「……あなたの『線』が、悲鳴を上げて繋がっていたからだ」 男の目が、鋭く動いた。 「線だと? 何の計算違いだ。私は完璧だ。これまで一分の狂いもなく、誠実に、正しく、組織の財を管理し続けてきた」
「分かりません。ただ」カイは、逃げずに男の瞳の奥を見つめ続けた。「あなたは、もう限界なほどに、疲れている」
沈黙が、真っ白な世界に叩きつけられた。 その瞬間、強固だった盤面が、みしりと音を立てて僅かに揺らいだ。男の口元から、あの張り付いたような穏やかな笑みが、一瞬にして消え失せる。
「……疲れている、か」 男は、地を這うような低い声で呟いた。 「そんな言葉を私に向ける人間は――本当に、何年ぶりだろうな」
その声に、張り詰めていた何かが、確かに滲んだ。 盤面の床が小さく軋み、カイを値踏みしていたあの巨大な頭部が、一瞬だけ、その動きをぴたりと止めた。
しかし、その静寂は、怪物の真の暴走への序曲に過ぎなかった。




