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静かな街

ロドからの連絡は、酷く短かった。

『王都南西、三日の距離に港町がある。調査案件だ』

書き置きのインクのように冷たい、それだけの文字列だった。 カイは手のひらの中で、小さな銀色のペンダントを強く握り直す。先ほど井戸の水面から微かに受け取った彼の声は、もうそこにはなかった。ただ、蒼い石の冷たさだけが指先に残っている。

「……どんな案件なの?」 隣を歩くエリルが、横顔を覗き込むようにして小さく尋ねてきた。

「分からない」 カイは正直に首を振った。「行けば、分かるんじゃないか」

エリルは少しだけ困ったように眉を寄せた。けれど、それ以上は何も追及せず、ただ黙ってカイの歩調に自らの足を合わせた。

――王都を出て、街道を歩くこと三日。 目指す港町が見えてきたのは、太陽が南の空を過ぎ、影が東へと傾き始めた頃だった。

なだらかな丘の上から見下ろすと、穏やかな湾内には大小無数の帆船が整然と並び、市場の赤茶けた屋根が波打ち際に沿ってひしめいている。どこからどう見ても、ありふれた、平和な活気に満ちた日常の景色だった。

カイは、不意に足を止めた。 潮風が、彼の外套を大きく揺らす。

「……似た匂いがする」 「港の?」 「ああ」

一拍、波の音だけが二人の間に流れた。 「俺が育った辺境の村も、こういう海沿いの街だったんだ」

エリルは、その過去について深くは問い詰めるような真似はしなかった。ただ、少しだけ愛おしおしそうな、それでいてどこか切ない目をカイへと向けた。 カイはそれに気づかない振りをしながら、すでに次の歩みを始めていた。

だが、街の境界線を一歩跨ぎ、その内部へと足を踏み入れたとき、最初に違和感に気づいたのはエリルの方だった。

「……変ね。すごく、静かだわ」

確かに、奇妙なほどに静かだった。 市場の店先には新鮮な魚が並び、布を広げて客を待つ商人の姿もある。行き交う人々の数も決して少なくはない。 だが――誰も、大声で怒鳴り合っていないのだ。

活気ある港町につきものの、威勢のいい値切り交渉の掛け声がない。 犬の遠吠えも、路地裏を駆け抜ける子どもたちの騒がしい足音すらもしない。 荷運びの男たちは、まるで精巧なからくり人形のように黙々と重い樽を積み上げ、互いに決して目を合わせず、笑い合うこともない。

カイは、あの最上階の戦略棋盤を読むときと同じように、鋭い視線で街全体の動きを俯瞰する。 どこかが、決定的に狂っている。 だが、その狂気の正体が何であるのか、すぐには明確な言葉にならなかった。

その時、市場の外れで、小さな子どもが荷車に躓いて派手に転んだ。 固い石畳に両手をつき、衣服が泥だらけになる。 あきらかに痛そうだった。子どもの顔はみるみるうちに涙でくしゃっと歪み、大声で泣き叫ぼうと、胸いっぱいに息を吸い込んだ。

その、まさに瞬間だった。

近くで果物を並べていた一人の大人が、音もなく、素早い動きで子どもの傍らへと滑り込んだ。 「静かにね」 それは、耳を疑うほどに穏やかで、優しい声だった。 「周囲の人の、迷惑になってしまうから」

子どもの顔が、まるで見えない凍結の魔術をかけられたかのように、ぴたりと静止した。 涙は溢れていた。けれど、叫び声は一切漏れなかった。 子どもはただ、人形のようにゆっくりと立ち上がり、泥を払うことも忘れて、再び静かに歩き始めた。

エリルが、恐怖に耐えるようにカイの袖をそっと強く掴んだ。

カイは、その場から一歩も動けなくなっていた。 脳髄を、冷たい杭で打たれたような感覚。 見覚えがあった。 あの子どもの顔に、ではない。声をかけた大人の優しさに、でもない。

――叫ぶのをやめ、自らの痛みを押し殺して歩き出したあの子供の顔に。 カイは、かつて「正しい子供」であろうとして沈黙を選び続けた、自分自身の身を切るような生き写しを見た気がしたのだ。

「ここで待ってろ」

カイはそれだけをエリルに言い残すと、彼女の返事を待たずに、一人で市場の薄暗い奥へと割り込むように入っていった。 背後でエリルが何かを言いかけた気配がしたが、焦燥に駆られたカイの足は、もう止まらなかった。

(盤面を読むんだ――) 自分に言い聞かせるように、思考を加速させる。 この歪みの中心はどこだ。一体、誰がこの侵食の核になっている。 一人の人間が相手なら、どれほど強大でも必ず呼吸の癖がある。弱点がある。盤面を支配する固有の流れがあるはずだ。

だが――。 市場の交差点に立ち、街全体を見渡した瞬間、カイの背筋に冷たい戦慄が走った。

(読めない……!)

そこには、対峙すべき「一人の人間」など存在しなかった。 百人、あるいは千人の人間が、全く同じ顔をしていた。同じ速さで歩行し、同じ音量で言葉を交わし、同じ角度で視線を地面へと落としている。 個の境界線が消え去り、巨大な一つの集団という名の化け物が、街の形をしてそこに佇んでいるのだ。

かつて、辺境の棋場で風変わりな老人に言われた言葉が、不意に脳裏をよぎる。 『小僧、目先の駒ばかりを見るな。盤の上の“空白”を見ろ。真の戦局はそこに現れる』

カイは必死に、その調和の壊れた「空白」を探した。 だが、この街にはどこを探しても空白など存在しなかった。 どこを切り取っても、均一で、均等。逃げ場のない「正しい静けさ」が、皮膚を突き刺すような密度で、街の隙間という隙間を完璧に埋め尽くしていた。

市場の最奥、古い井戸のそばに、一人の老漁師が立ち尽くしていた。 破れた網を手にしたまま、濁った水面をじっと見つめている。

カイが足音を立てて近づくと、老人がゆっくりと首をこちらへ巡らせた。 その目が――完全な「空白」だった。 人の目の形をしているのに、その硝子質の奥には、魂の光が何一つとして残っていない。

その瞬間、カイの胸元でペンダントが爆発的な熱を帯びた。

視界が裏返り、あのセピア色の草原が広がった。ほんの一瞬。 だが、今度の草原は、今まで見てきたものとは決定的に違っていた。 これまでの草原はどこまでも広く、自分の内側の世界のようだったが、この草原には、明確な「端」があった。

天を衝くような、見えない壁。 街全体をドーム状に覆い尽くしている、強固で薄い魔力の膜。 カイが自らの意識の指先でそれを引き剥がそうとした瞬間、絶望的な現実が腕を伝って返ってきた。

(重すぎる――) それは、カイが一人で動かせるような質量では、到底なかった。

「カイくん……っ!」

背後から、遮るように声が響いた。 エリルだった。 肩を激しく揺らし、息を切らしている。カイの言葉を無視して、小走りでこの不気味な市場の奥まで追いかけてきたのだ。

「待っててくれって、言っただろ」 少しだけ苛立ちの混ざった声でカイが振り返る。

「ペンダントが……急に、怖いくらい熱くなったから」エリルは、言い訳を口にする代わりに、街全体をその澄んだ瞳で静かに見渡した。それから、真っ直ぐにカイの目を見つめる。「……一人じゃ無理だよ、これ」

そこには、独断を責めるようなニュアンスは一切なかった。 彼女はただ、見えてしまった圧倒的な事実を、そのままカイと分かち合おうとしていた。

エリルが躊躇うことなく、自らのペンダントを井戸の濁った水面へと沈める。 水が小さく波紋を描き、しばらくして、頭蓋の裏側へ直接、あの低く冷徹な声が流れ込んできた。

『引け』 ロドだった。

「でも――」 『今すぐ引け。お前たちの手に負える段階ではない』

有無を言わさない、絶対的な命令だった。

――ロドがこの港町へ姿を現したのは、西の山並みに太陽が沈みかけ、街が長い影に包まれる頃だった。

黒い魔導二輪の駆動音を響かせ、彼は街の外れの荒れ地へと静かに降り立った。 ロドは、面具の奥から街の情景を一度だけ冷ややかに見渡した。それから両手を静かに広げ、己の魔力から紡ぎ出した薄い蒼光の粒子を、周囲の空気へと滑らかに溶かしていく。

それは、完全な救済ではない。 これ以上、この街の「美徳の侵食」が外の世界へと広がらないようにするための、一時しのぎの、仮の蓋に過ぎなかった。

一通りの処置を終えると、ロドは仮面を外さないまま、カイの方へと視線を巡らせた。

「また一人で、盤面を動かそうとしたな」 「……」 「隣のエリルを守るために、先走ったか?」 「そうじゃない」カイは拳を握りしめ、地面を見つめた。「そんなつもりじゃなかった」 「じゃあ、何だ」

重苦しい問いかけに、カイはしばらくの間、言葉を返すことができなかった。潮騒の音だけが、やけに大きく耳に響く。

「……読めなかったんだ」 ようやく、肺の底からそれだけを絞り出した。 「一人の人間が相手なら、どんな呪いだっていつかは読める。だが――街全体が同じ顔をして、同じように心を殺していたら、どこに駒を置けばいいのか、全く分からない」

「読めなくなるさ」 ロドが、遮るようにその言葉を静かに引き取った。「当然だ。盤面の論理ルールは、ここでは通用しない」 彼は一歩カイへと近づき、その低い声を重ねる。 「お前がこれから相手にするのは、規律で動く駒じゃない。感情を持った人間だ。綺麗に整えられた盤面など、世界のどこにも存在しない」

沈黙が、夕闇のなかに落ちる。

「それに」 ロドの声が、ほんのわずかだけ、人間らしい低い温度を帯びた。 「あの街の静けさが、お前の育った故郷の景色に、酷く似ていたのは分かっている」

カイは、ハッとして顔を上げた。

「だから……一刻も早く、あの子供を救おうと急いだんだろう」 「……」 「――気持ちは、分かる」

それは、酷く珍しい言い方だった。 カイたちがロドと出会って以来、彼が他人の感情に寄り添うような言葉を口にしたのは、これが初めてのことだった。

「だが、感情が急けば、どれほど優れた打ち手であっても盤面は見えなくなる。お前自身が、一番よく知っているはずだ」

カイは、もう返すための言葉を持ち合わせていなかった。ただ、自らの未熟さと、胸の奥を見透かされた恥ずかしさに、じっと耐えるしかなかった。

――帰り道。 三人は、薄暗くなった街道を静かに歩いていた。

ロドは、二人の少し前を、相変わらず感情の読めない背中で歩いている。 エリルは、カイのすぐ隣に寄り添うようにして歩いていた。 彼女は、カイを慰めるような言葉は何も言わなかった。 ただ――自分の歩く速さを、傷ついたカイの歩調に合わせて、ほんの少しだけ緩めてくれていた。

夕暮れの残光が、石畳の上に、二人の長い影を寂しげに落としている。

「……あの子ども」 沈黙に耐えかねたように、カイがぽつりと言った。「最後まで、泣かなかったな」

エリルが、カイの影を見つめたまま、小さく頷いた。 「うん」

「俺も……子供の頃、きっとああだったんだと思う」 「……うん。知ってるよ」

それだけだった。 夜の風が、街道の草むらをサワサワと揺らしていく。

前を行くロドは、一度も振り返らなかった。だが、二人の不器用な会話を聞いていたのか、彼の歩く速度が、ほんの少しだけ落ちたような気がした。

背後で、あの静かすぎる街の気配が、ゆっくりと遠ざかっていく。 何一つ解決していない。侵食はまだ、終わってもいないのだ。 それでも――二人が並んで伸ばす影は、確かに、世界の闇の向こう側へと向かって、確かな一歩を踏み出していた。





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