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束の間の日常

翌朝。

カイはいつも通りの時間に起き、冷たい水で顔を洗った。 鏡の中に映る自分の顔が、昨日までの自分と少しだけ違っているような気がした。いや、何も変わっていないのかもしれない。自分では分からなかった。

ただ、カイはまっすぐに机へと向かい、一枚の小さな紙に、短い手紙を書きつけた。 それは、ロドへの返事だった。

『――準備ができたら、連絡する。』

たった、それだけの一行だった。

以前のカイであれば、もっと多くの言葉を選び、推敲していただろう。自分の意図が誤解されないように、余計な感情を伝えて調和を乱さないように、慎重に、慎重に。 けれど、今のカイは、これでいいのだと思えた。

言葉が少ないという性質は、きっとこれからも変わらない。たぶん、生涯変わることはないだろう。 ただ。 その少なさが、もう己の感情から逃げるための言い訳ではない。

これこそが、今の自分が示せる、精一杯の答えの形だった。

封書を丁寧に折り畳み、外套の深いポケットへと滑り込ませる。

窓を大きく開け放つ。 王都の少し肌寒い朝の空気が、灰色がかった石畳の向こうから部屋へと流れ込んできた。

どこかの屋根の上で、鳩が静かに鳴いている。遠くの通りから、また魔導受信機の音が聞こえた。昨夜と同じ、耳障りな雑音。けれど今朝のその音は、昨夜よりも少しだけ遠い場所で鳴っているように感じられた。

カイは、王都の空を静かに見上げた。 低く垂れ込めた、どんよりとした雲。 それは、見飽きるほどにいつも通りの、何の変哲もない王都の空だった。

それでも、カイの足は、確実にその先の一歩を踏み出せる確信に満ちていた。

二日が過ぎた。

わずか二日しか経っていないというのに、体感としてはもう随分と昔の、遠い記憶のことのようだった。 それなのに。 カイの右手のひらに残るあの生々しい感触だけは、どうしても消えてくれなかった。

最後に、引き裂かれそうな力で強く握り返された感触。 「ちゃんと立派に、育っていたのね」と、涙の中で静かに笑ってくれた恩師の声。

冷たい水で何度洗っても。どれだけ深く眠っても。なぜか、そこだけが熱を持ったまま、頑固に残され続けている。

昼過ぎ、カイの机の上へ、一通の小さな封書が届けられた。 万年筆の細い青インクで綴られた、ひどく短い文面だった。

――明日の夕方、もし時間があれば。 北門広場のあたりで。 エリル

『もし時間があれば』という、逃げ道を用意した不器用な書き方が、いかにもエリルらしかった。 もし彼にその気がなければ、角を立てずに断れるように。彼女はいつだって、そうやって二人の間に慎み深い余白を残そうとする。

翌日の夕方。 王都の北門広場は、沈みゆく夕暮れの橙色に染まり、行き交う人影もまばらだった。絶え間なく響く噴水の水音だけが、寂寞とした石畳の上へと虚しく響き渡っている。

エリルは、広場の端にある古びたベンチの、そのまた端にひっそりと座っていた。 緊張を押し殺すように、膝の上で白く細い両手を小さく組んでいる。 カイが足音を殺して近づくと、彼女は弾かれたように、静かに顔を上げた。 泣き腫らしたその瞳の跡が、薄く、まだ名残のように皮膚に残っていた。

「……待った?」 「ううん、今来たところ」

特にどこへ行くとも決めていなかった。二人はどちらからともなく歩き出し、しばらくの間、並んで噴水の水しぶきを眺めていた。 冷たい風が吹き抜けるたび、水面がざわりと大きく揺れる。 あの夜、ロドの操る水が、光の粒子となって巨大な鯱へと姿を変えた。けれど、今目の前で流れる水の音は、世界中のどこにでもある普通の、ただの水音だった。

しばらくの沈黙の後。 「……少し、寒いな」 気づいたら、そんな言葉がカイの口から自然と漏れ出ていた。

エリルは少し考えるように視線を彷徨わせた後、広場の隅にある一軒の建物をそっと指差した。「あそこ、まだ開いてそう」

古い木造建築の一階から、琥珀色のぼんやりとした温かい灯りが漏れ出ている。 「入ろう」とも「休んでいこう」とも、どちらも口にはしなかった。 ただ、吸い寄せられるように、自然と二人の足がその店へと向いていた。

店内に一歩足を踏み入れると、微かな薬草茶の芳しい匂いと、古い木材が軋む特有の落ち着いた音が二人を迎えた。 薄暗い店の最も奥まった席へ腰を下ろすと、天井のスピーカーから、物悲しい小さな弦楽器の生演奏が低く流れている。 ひどく静かな店だった。ここなら、誰も無理に喋らなくていい。ただ沈黙していることが許される、そんな空気だった。

エリルが、運ばれてきた温かい茶杯へと両手をそっと添えたまま、視線を落として言った。

「……ロドさんへの、返事」

カイは、ほんの少しだけ息を止めて、黙った。

「もう、決めた?」 「――ああ、ほぼ」

エリルは顔を上げないまま、小さく深く、自分を納得させるように頷いた。「私も」

再び、沈黙が訪れる。 けれど、それはあの頃のような、互いの身分や世間体を気にして息が詰まるような苦しい沈黙ではなかった。多くを語らずとも、二人の間に確かに積み重なった「秘密」と「覚悟」が、その空間を温かく満たしている――そんな沈黙だった。

その時、窓の外の通りから、魔導受信機の雑音混じりの声が低く響いてきた。

『――昨夜、王都南区にて、原因不明の精神混濁者が多数発生――当局による詳細は未だ不明――』

店の主人が、不穏な空気を嫌うように音量を手早く下げる。茶房の空気は、それによってさらに一段と静まり返った。

エリルが、深く、小さく息を吐き出す。「……怖い?」

「……分からない」カイは嘘をつかず、正直に答えた。「ただ――」 彼は窓の外の、急速に夜の闇へと沈んでいく王都の街並みを見つめた。 「これが、自分たちの全く知らない、遠い場所で起きていることだとは……もう思えないんだ」

エリルは、その言葉に何も返さなかった。 ただ、カイと同じように、昏い窓の外の景色をじっと見つめ返していた。

――帰り道。

夕暮れの細い裏路地を歩いていると、向こうから買い物袋を片手にぶら下げたレオンと、不意に鉢合わせた。

「おっ。珍しいな、お前がこんな時間に――」

レオンはいつもの調子で足を止めたが、カイの隣にいる人物に気づいた瞬間、その言葉を凍りつかせた。「……え」 一拍の、奇妙な静寂。 「え、エリルさん……っ?!」

「お久しぶりです、レオンさん」 エリルが、何事もないように静かに頭を下げると、レオンの驚愕に満ちた視線が、目まぐるしくカイへと戻ってきた。「お前……やっぱり、付き合ってたのか!?」

「偶然だよ」 「偶然ねぇ……」 「ああ」 「……そうかぁ」

レオンは重い買い物袋を持ち直しながら、顔中の筋肉を使って「全く納得していない」という表情を作ってみせた。

「それより、南区の話」カイはこれ以上の追及を避けるように、意図的に話題を遮った。「また何かあったんだろ」

「……あ、ああ」 レオンは、気を取り直したように少し声を落とした。 「そうそう、それだよ。最近さ、そういう不可解な事件が多すぎてさ。なんか気味が悪いんだよな。誰に聞いても、明確な理由がさっぱり分かんねえのが、余計にさ」

冷たい夜風が通りを吹き抜けていく。遠くの広場から、また受信機の無機質な雑音が微かに聞こえた。

カイは短く頷くだけに留める。「ああ、そうだな」 それ以上は、世界の裏側を知ってしまった自分たちからは、何も言えなかった。

レオンは少しだけ、カイとエリルの顔を交互に不思議そうに見比べた後、 「……まあ、夜道だし、気をつけろよ」 それだけを言い残して、そそくさと裏路地の闇へと消えていった。だが、角を曲がる直前、もう一度だけ振り返って、わざとらしく付け加えた。 「――偶然、な!」

二人はそれには返事をしなかった。

街を歩くにつれ、別の場所からも、また魔導受信機の声が風に乗って流れてきた。

『――王都第三区、救済診療院――院長であるヴィナ先生が――本日突如として、全患者への診療を拒絶し、行方を――』

誰かがまた、不快そうにラジオの音量を絞った。

「……ヴィナ先生」 エリルが、ぽつりと、小さくその名を呟いた。

「知っている人なのか?」 「名前だけ。大盤宮の後遺症……あの精神接続で壊れてしまった人たちを、たった一人で親身に診続けていた、とても高名な先生よ」 「……誠実な人だったんだろうな、その先生も」

エリルは、悲痛な面持ちで静かに頷いた。 「だから――」

それ以上は、言葉にする必要がなかった。 言わなくても、分かったのだ。彼女もまた、どこまでも慎み深く、責任感が強く、他人のために己を摩耗させ続けた結果、あの「女王の静かな侵食」にその身を拐われてしまったのだと。

レオンと別れてしばらく進んだ頃。 エリルが、ふと何かに導かれるように足を止めた。 暗い路地の壁際に、一人の老いた男が、ボロ切れのように力なく座り込んでいる。

「……カイくん」 「どうした?」 「あの人――」エリルは、声を極限まで潜めて言った。「なんだか……『色』が、おかしいの」

カイもまた、視線をその老人へと向けた。 男は深く顔を伏せたままピクリとも動かない。ただ、その痩せた肩だけが、泣いているかのように小さく、不自然に震えていた。

「今までも、ひどく疲れている人とか、苦しそうな人って……なんとなく雰囲気で分かる時があったの」エリルは自らの胸元をきつく押さえながら続けた。「でも、あの人は、それとは決定的に違う。もっと、禍々しくて、冷たい何かが……」 言いかけて、彼女は唇を噛んだ。「……うまく言えないけれど」

その瞬間、カイの脳裏に、あの最上階の戦略棋盤が鮮烈に浮かび上がった。 半透明の、光の骨の駒。歪む呼吸。そして――侵食された人間が放つ、特有の空間の“揺れ”。 ロドが言っていた「見えている」というのは、こういうことなのか。

エリルは、自分の白く震える手のひらをじっと見つめた。「私……見えているんだわ」

カイは何も言わなかった。 そして、それが彼女の錯覚だとは、決して否定もしなかった。

二人は息を潜め、その老人の傍らを、波風を立てないようにゆっくりと通り過ぎていった。 男はついに最後まで顔を上げなかった。ただ――二人の身体が真横を通り過ぎたその瞬間だけ、男の肩の不気味な震えが、ぴたりと静止した。

それだけだった。 けれど、それは明確な拒絶であり、あるいは彼らの存在に対する「侵食」側の小さな融解の証だった。

暗い角を一つ曲がってから、エリルが意を決したように静かに言った。

「……ロドさんに、このことを話した方がいいかな」 「ああ」 「――一緒に、行こう」

今度は、カイが彼女の言葉を待つことなく、先にそう告げていた。

エリルは驚いたように目を見張り、それから、今度は逃げない確かな笑みをその唇に結んだ。 「ええ。一緒に行きましょう、カイくん」

二人はもう、迫り来る夜の闇を怖れてはいなかった。彼らの手には、あの蒼く脈打つ小さなペンダントが、しっかりと握り締められていた。





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