呪いの正体
眠れなかった。
宿舎の古びた石造りの天井が、重苦しい暗がりの中でひどく低く見えていた。 開け放たれた窓の向こうでは、眠らぬ王都の夜がどこまでも続いている。遠くの路地から、魔導受信機の無機質な雑音が小さく響き、そしてすぐに掻き消えるように途絶えた。
ロドが残したあの冷徹な言葉が、頭の奥底で、鐘の音のようにずっと鳴り響いている。
『慎み深さ。誠実さ。責任感。――そういう、人間が“美徳”と呼ぶものへ、奴らは寄生する』
カイはゆっくりと目を閉じた。
婦人の前で心を乱すな。 ただ沈黙したまま、誰にも知られず血を流す英雄だけが美しい。 誠実でいろ。慎み深くあれ。決して己の感情を揺らすな。
辺境の貧しい漁村にいた頃、ぼろぼろの羊皮紙に書かれた英雄譚を貪るように読んだ。揺らめく蝋燭の火。父親が好んで語ってくれた、寡黙な騎士たちの物語。 カイはそれが好きだった。本当に、心から憧れていた。
強くなりたかった。あの物語の英雄たちのように。静かで、決して揺るがなくて、その強さで誰も傷つけないような、完成された人間に。
だからこそ。 自分は、ずっと黙ってきたのだ。
エリルに対して、まともな声一つかけられなくても。学院の廊下ですれ違うたびに、罪人のように視線を床へ落としても。それが正しいのだと、どこかで頑なに信じ込んでいた。感情を揺らすことは弱さだ。心の中を他人に曝け出すことは恥だ。そういう厳格な声が、ずっと胸の奥に杭のように打ち込まれていた。
――だが、それは同じだったのだ。
カイは、パチリと目を開けた。 闇の中、見慣れた天井が、変わらずにそこにある。
ロドの言葉が意味していたのは、そういうことだったのか。女王の侵食は、人間の心の外側から襲ってくるのではない。もともと人間の内側にある高潔なものへ、滑り込むように寄生するのだ。誠実さへ。慎み深さへ。「正しくあろうとする心」そのものの隙間へ。
だとしたら。 あの、幼い頃から胸の奥で絶えず囁いていた『声』は、一体何だったのだろう。
すべてが偽物で、誰かに植えつけられたものだとは思わない。あの英雄譚を愛した少年時代の情熱は本物だったし、強くなりたいと願った意思も真実だ。 けれど。 その「正しさ」の形が、いつの間にか自分を閉じ込める牢獄へと変貌していたとしたら。何者かによって、少しずつ、気づかぬうちに歪められていたのだとしたら。
自分がこれまで「これこそが己の誠実さだ」と信じて疑わなかったものが――一体どこまで、本当に自分自身のものだったのだろうか。
胸の奥の、酷く深い場所で、何かがみしりと言いようのない音を立てて軋んだ。 それは怒りでも、悲しみでもなかった。ただ、静かに、頑なだった自らの形が変わっていく不思議な感覚。長年放置され、赤黒く錆びついていた金具が、内側からゆっくりと外れていくような、そんな兆しだった。
机の上に置いたロドのペンダントが、暗がりの中で、心臓の鼓動に似た周期で蒼く静かに光っている。 その淡い脈打つ光が、石造りの天井に小さな影を作って揺れていた。
しばらくの間、カイはただそれを見つめ続けていた。 何かを具体的に考えていたわけではない。けれど、気づけば、鉛のように重かった呼吸が少しだけ楽になっていることに気がついた。
まだ、明確な答えが出たわけじゃない。女王と呼ばれる存在が何者なのかも、これから自分に何ができるのかも、まだ五里霧中のままだ。 ただ。 あれが自分を縛る「呪い」の類なのだと識別できただけで、世界の景色は昨日と少しだけ違って見えた。
あの夏、西陽が差し込む石造りの教室。 揺れる蝋燭の炎を見つめながら、エリルが「地下から魔物でも這い出てきそうです」と不器用な冗談を言って、小さく笑ったあの瞬間。胸の奥で、生まれて初めて何かが激しく軋んだのを覚えている。
かつて、自分を頑なに守っていた「硬派の盾」が小さく悲鳴を上げたのは、呪いが揺らいだからではない。――自分が心から、本当に感じた本物の感情が、初めてその硬い殻の外へと出ようとして、内側から壁を叩いた音だったのかもしれなかった。
エリルもまた、あの頃の、あの不器用な時間の続きを懸命に生きていたのだ。 盤の上の、あの冷たい規律の言葉を全て覚えて。自分に話しかけようとして。傷つきながらも、今こうしてここにいる。
沈黙のまま、絶妙な距離を保っていたからこそ繋がったのだと、ロドは言った。 だとすれば――それはもう、自分たちを閉じ込める呪いなんかじゃない。




