振動の行先
風が、大きな木々の葉をカサカサと鳴らしながら、静かに夜の残滓を攫っていった。
ロドは、ずっとその場に立ち尽くしていた。 硝子質の面具を外したまま、酷く疲れ切った青年の素顔を、剥き出しの朝の光に晒している。彼は、地上に物言わぬ姿で横たわるマダム・レイラを、一度だけ、ひどく淡々とした目で見下ろした。それから、何事もなかったかのように視線を元の位置へと戻す。
それは決して、冷酷さゆえの無関心ではなかった。 ただ――こういう結末に、彼はもう、吐き気がするほど慣れきっているのだと、カイには分かった。
「……どうやった」
静かな、低い問いだった。 カイを責めているわけでも、怒っているわけでもない。ただ純粋に、己の知る世界の法則では「理解できない現象」が目の前で起きた――その事実に対する、戸惑いだけが混ざる声だった。
カイは、ゆっくりと白み始めた夜明けの空を見上げた。 どう答えればいいのか、自分でも全く分からなかった。ロドが操るような光の盤面がそこにあったわけでもない。何か高度な魔術の術式を発動させたわけでも、決してないのだ。
「……ただ、話しかけただけだ」 カイの掠れた声に、ロドの鋭い瞳がわずかに動く。 「先生の声が、まだあの呪いの奥に、確かに残っている気がしたんだ」カイは自分の手のひらを見つめながら続けた。「だから……届くように、話しかけた。それだけだよ」
重苦しい沈黙が、三人の間に降りる。 ロドは何も言わなかった。ただ、肯定も否定もしないまま、昏い目でカイを見つめ続けている。 またひとつ冷たい風が吹き、レイラ夫人の、光を湛えた白い髪を優しく揺らした。
その時、エリルが震える声をひっそりと漏らした。 「……私には、盤面が見えたわ」
ロドの視線が、滑らかにエリルへと移動する。 「私にも……今、うまく説明はできないの」彼女はきつく俯いたまま、絞り出すように言葉を繋いだ。「カイくんが先生に話しかけているとき……なぜか頭の中に、あの光の駒が動いているような感覚があって。言葉が先だったのか、駒が先だったのか、それすらもう分からなくて」
途中で喉が詰まり、息が止まりそうになる。それでも、彼女は逃げずにロドを見つめ返した。 「ただ……見えたの。確かに、あの場所で何かが動いていた」
気の遠くなるような、長い長い沈黙が公園に落ちた。 どこか遠くの街頭で、古い魔導灯の蝋燭が爆ぜるようなパチリという音が、小さく響いた。夜明けのグラデーションが、東の空を少しずつ、けれど確実に濃い青から白へと塗り替えていく。
ロドが、肺の底から溜め息を吐き出すように、ゆっくりと口を開いた。 「……そうか」
それだけだった。 だが、その短すぎる二文字に込められた絶対的な重みが、妙にカイたちの胸の奥へと深く沈み込んでいく。
「それが、お前たちの力だ」
ロドは翻り、静かに噴水の方へと歩き出した。そして、年代物の石造りの縁へと、手袋をはめた右手をそっと置く。 「見ていろ」
その瞬間だった。 ザーザーと流れていた噴水の水面が、生き物のようにざわりと大きく揺れた。次の刹那、水そのものが無数の微細な「光の粒子」へと変貌を遂げる。粒子は細かく、細かく瞬きながら、朝靄の残る宙へと一斉に舞い上がっていった。
エリルが小さく息を呑む。 宙で踊る光の粒子は、磁石に引き寄せられるように中心へと集まり、凝縮し、急速にある明確な形を模っていった。 滑らかな曲線の背。流線型の美しい胴体。そして、力強い背びれ。
――それは、大きな『鯱』だった。
白い光で編まれた巨大な鯱が、公園の夜明けの空を、まるで母なる海であるかのように、悠然と、滑らかに泳ぎ出したのだ。
エリルが、その圧倒的な美しさに目を奪われながら、思わずぽつりと呟いた。「……鯱」
ロドは振り返らなかった。 空を巡った鯱は、綺麗な弧を描きながら、再び彼らの立つ地面へと降りてくる。そして、着地するその刹那――その形が、ガラス細工のように崩れ、いや、激しく変態した。 粒子が再び超高密度で凝縮され、形成されたのは、細長い強固な機体、そして蒼白い魔力を宿した前後の二輪。 それは、重厚な二輪型の魔導駆動機となって、静かに石畳の上へと降り立った。
「……」 カイはあまりの光景に、言葉を失って立ち尽くすしかなかった。
ロドは、完成した機体の漆黒の把手へと静かに手を置いた。 「俺は、これしか使えない」 その声は、ひどく平坦で、それゆえに酷く孤独だった。 「この機体があれば、世界の『外』を走ることはできる。誰よりも速く動き、侵食を広げる奴らを追跡することも可能だ」 機体の各所から放たれる蒼白い光が、ロドの呼吸に合わせるように、ゆっくりと脈打っている。
「だが」 ロドの手が、そこで一度だけ、不自然に止まった。 「――俺は、奴らの『内側』には入れないんだ」
その言葉だけが、微かに低く、昏い震えを帯びていた。 彼がこれまで一人で戦い、そして救えずに見送ってきたであろう、気の遠くなるような年月と絶望が、その一文の裏に重く沈んでいるのが分かった。カイには、かけるべき言葉が何一つ見つからなかった。
「だから、お前が必要だった」ロドは機体に体重を預けながら、淡々と続けた。「お前はさっき、ただ会話をしただけだと言ったな」 「……ああ」 「それが、全てだ」
またひとつ、強い風が吹き抜ける。 「奴らの侵食には、こちらの術式も、武器も、俺の機体の突撃でさえ弾き飛ばされ、無効化される領域が存在する。だが、お前は――」 ロドが、まっすぐにカイを射抜いた。 「お前という存在は、それらに対して、ひどく『有効』だ」
胸の最奥で、何かが静かに、けれど決定的に軋む音がした。 「強い」とは言われなかった。「特別な英雄だ」とも言われなかった。ただ、冷徹な事実として、侵食のシステムを壊すために「ひどく有効な駒だ」と、彼は告げたのだ。
「いずれ嫌でも気づくことになる」ロドは短く言った。「自分が本当は、何をしているのかをな」
エリルが、痛みを共有するように、静かな目でカイの横顔を見つめていた。
「……支度をしてほしい」 ロドの声のトーンが、事務的なそれへと切り替わる。 「お前はもう、この世界に必要な存在になった。これからは『スーラ・タワー』の人間として、こちら側で動いてもらう必要がある」
カイは、すぐには答えを返さなかった。その沈黙を肯定と受け取ったのか、ロドが続ける。 「日常のことは、こちらでうまく処理しておく」
その言葉の意味が、一拍遅れて、カイの脳裏へと冷酷に突き刺さった。 日常。家族。いつもの夕食の匂い。自分を呼ぶ、母親の穏やかな声。
「家族には――」 「心配するな」ロドはその懸念を冷たく遮った。「存在を消し去るわけじゃない。ただ、お前という人間がそこにいなくても、彼らの生活が何一つ困らず、歪みなく回り続けるように、周囲の記憶と現実を『整える』。それだけだ」
再び、重い沈黙が公園を支配した。 エリルの華奢な肩が、かすかに、けれど絶望に耐えるように小さく揺れていた。
カイはもう一度、完全に白夜へと変わった空を仰ぎ見た。ほんの少し前まで、優しかったマダム・レイラがそこにいた。自分の手を、引き裂かれそうなほどの強さで握り返してくれた。「ちゃんと育っていたのね」と、あの懐かしい笑顔で笑ってくれたのだ。 その記憶すらも、この世界の日常からは、いつか綺麗に「整えられて」消えてしまうのだろうか。
「……準備ができたら、そのペンダントを使って連絡をよこせ」
ロドが完全に機体へと跨がった。蒼白い光を放つ魔力輪が、石畳を静かに、けれど力強く踏みしめる。 「早ければ早いほどいい」
それだけを言い残して。 ロドは把手をひねり、一瞬で走り去った。 夜明けの薄暗い路地を、一筋の白い残光だけを残して。その姿は、あっという間に視界の果てへと消えていく。
あとに残されたのは、静まり返った公園と、二人だけだった。 中央の噴水からは、再びザーザーと穏やかな水が流れ落ちている。さっきまで空を優雅に泳いでいたあの巨大な鯱は、もうどこにもおらず、ただの冷たい水へと戻っていた。
エリルが、ぽつりとした声で、静寂を破るように言った。
「……鯱……だったね」 「……ああ」 「なんで、鯱だったんだろう」
カイには、その問いに対する明確な答えなんて持ち合わせていなかった。 ただ。 彼女のその、緊迫した空気にそぐわない不器用な問いかけが、妙に、張り詰めきっていた胸の奥を、ほんの少しだけ軽くしてくれた気がした。
「さあな。……今度ロドに会ったら、聞いてみよう」
カイの言葉に、エリルは小さく、本当に小さく微笑んだ。 二人はそれから、どちらからともなく、昇り始めた朝の光を浴びる噴水を、しばらくの間じっと見つめていた。 黄金色の朝光が、キラキラと水面へ、静かに、そして公平に降り注いでいた。




