ルナ アフター ―残響と、その先へ―
――デルタが終わった夜のことを、ルナはずっと覚えている。
この仕事に突いて五年目。
取材が終わりスタジオの外に出ると、十一月の空気が肺に刺さった。タクシーを呼んだエミの背中を見送りながら、ルナは煙草も吸わないのにライターを買いたい気分になった。何かに火をつけなければ、この手がどこへ行けばいいかわからなかった。
拓海は、もういなかった。いや、正確には、拓海はいた。でも拓海の音は、もうそこにはなかった。
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あの日。
デルタを休むと言った翌週から、軽音同好会に顔を出した。当然ながら結月がいた。結月はルナを見て、一秒だけ目を逸らした。ルナも同じことをした。でもそれだけだった。
結月は、拓海を独占しようと思えばできる場所にいたのに、ルナを仲間にしてくれた。ただ、終わったことを言葉にしても仕方がない、という暗黙の合意が、二人の間にはあった。
気まずいまま、同好会を続けた。気まずいまま、ステージに立った。気まずいまま、笑った。拓海が卒業してから会員は増えていたから、二人きりじゃないことだけが、救いだった。
そのうちそれが、普通になった。
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結月が軽音を引退するとき、ルナは部室で一人、テナーサックスを磨いていた。
「ルナ、会長、頼んだよ」
結月の声は明るかった。嘘のない、本当に明るい声だった。ルナはベルの内側を布でぬぐいながら、
「任せとき」
とだけ言った。それで十分だった。
会長になってから、ルナは動いた。新入生勧誘のビラを全学年棟に貼り、近隣の中学へ出向いてミニライブを開いた。部員が増えた。七人が十二人になり、十二人が十八人になった。三年目の終わりに、軽音「同好会」は軽音「部」になった。
昇格通知の紙を職員室で受け取ったとき、ルナはそれをすぐに写真に撮った。送る相手が思い浮かんだ。でも送らなかった。拓海には、音で届けたかった。言葉じゃなく。
結月にだけは、知らせた。
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東京は、うるさかった。
良い意味でも、悪い意味でも。
就職したのはバンド系の音楽雑誌の編集部だ。理由は一つだった。エミがいるから。
モモは言っていた。『拓海を壊した!』と。拓海自身は何も言わなかった。だからこそルナは確かめたかった。エミという人間が、本当に悪い人なのかを。
エミは、仕事ができた。それは認めなければならなかった。アーティストの言葉を引き出すのがうまく、締め切りを破ったことがなく、業界の人脈を地図のように頭に入れていた。部下への当たりも、理不尽ではなかった。
でも五年目のある夜、深夜の編集室でルナは気づいた。
エミは誰かを好きになったことがないのかもしれない。好き、という感情の代わりに、『使える、使えない』、という判定がある。拓海はきっと、エミにとって最高に使える人間だった。だからエミは近づいた。使い切ったとき、手放した。
"自分の利益のために、人を動かす人"
ルナは手帳にそう書いた。評価じゃない、ただの記録だ。断罪するつもりはなかった。ただ、モモが感じたものと、自分が五年かけて確認したものが、たしかに同じ輪郭をしていると、知っておきたかった。
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ビッグバンドの練習は木曜の夜で、社会人の集まりだから誰も無茶を言わなかった。ルナはテナーセクションの端に座り、リードを湿らせ、振ってくる四拍子の中に自分を溶かした。
音を出しているとき、ルナはデルタのことを考えた。
あの三人の音は、純正律だったと今ならわかる。誰かに合わせてチューニングし直すことなく、そのままの振動で響き合っていた。だから美しかったし、だから壊れた。
ルナは平均律の人間だ。自分でそう思っている。どんな調でも演奏できるように、少しずつ妥協して作られたスケール。それでいい。それが自分だ。
でも一つだけ、純正律のまま抱えているものがある。
いつかまた、拓海に音を届けたい。舞台の上から、楽器で。言葉ではなく。
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就職して八年目の春に、ルナは辞表を出した。
疲れていた。エミとの距離は少しずつ開いていたけれど、エミがいる業界にいる、ということ自体が、気づかないうちに体に積もっていた。仕事は好きだった。だからこそ、好きなうちに、きれいな形でやめたかった。
荷物をまとめ、北へ帰った。
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地元は、変わっていなかった。
変わっていたのは、拓海と結月のあいだに、ツムギという名前の子がいたことだ。
初めて会ったのは、ツムギが六歳のときだった。駅前で偶然会った。
デルタ再演のあと、拓海と結月の家に顔を出したら、ルナをまっすぐ見上げてきた。
「この前、かっこよかった!」
「そっか、今度一緒に音楽やってみよ」
「やった!」
ツムギの目が、少し変わった。何かのアンテナが立った、という感じだった。
それからツムギとは、波長が合った。理屈じゃなかった。ただ合った。公園で並んでアイスを食べながら、ルナはデルタの話をした。拓海の話を、したつもりはなかったのに、気づけばしていた。あの音がどんな音だったか。重力が変わるような瞬間が、ステージにはあること。
ツムギは黙って聞いていた。子どもの目をしていなかった。
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ツムギが十八歳になった春、話が来た。メジャーデビュー。
「マネージャー、やってくれませんか」
レーベルの担当者にそう言われたとき、ルナは一瞬だけ目を閉じた。
東京は知っている。業界も知っている。エミのような人間が、どこに立っていて、どんな顔をしているかも。だからこそ、行かなければならなかった。
「わかった」
短く答えた。
ツムギの個人事務所を構えて、マネジメントを一切引き受けることにした。
ツムギには、デルタの音が流れている。拓海の音が、血の中に混じっている。その音を、業界の荒波に削らせたくなかった。使われる前に、守りたかった。
それだけじゃない、とルナは知っていた。
ツムギがステージに立つ日、その音は確実に拓海に届く。そしてそれは、ルナがずっと果たせなかった約束の、続きになる。
言葉じゃなく、音で。
二十二年越しで、やっと。
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東京への荷造りをしながら、ルナはサックスケースを開けた。磨いた管体が、夕方の光を反射した。
リードを一枚取り出して、口に含んだ。
もうすぐ、また音が出せる。
今度は、届く場所で。
――了――




