第1部 第5項
教室に入った途端、空気が少しざわついているのがわかった。
いつもの朝は、眠そうな声と椅子を引く音が混じるだけなのに、今日は妙に視線が集まる。 その中心に、血相を変えたクミがいた。
「結月先輩!」
机にカバンを置く間もなく、クミが駆け寄ってくる。声は抑えているつもりらしいけれど、やっぱり少し大きい。
「ルナが、めちゃ怒ってます!」
「……え?」
一瞬、言葉の意味を飲み込めず、私はは瞬きをした。
クミは周囲をちらっと確認してから、さらに身を乗り出す。
「昨日の夜、拓海先輩と一緒にいたのを見たって! しかも、いい雰囲気だったって言ってます!」
胸の奥が、ひゅっと音を立てて縮む。
――昨日の夜。 スタジオの帰り道、駅までのほんの短い時間。並んで歩いただけで、特別なことは何もなかったはずなのに。
「ち、違うよ」
思わず即座に否定する。
「たまたま帰りが一緒になっただけだし……」
「でも夜遅かったんですよね? ルナ、かなり本気で怒ってますよ?」
クミは困ったように眉を下げる。
「『あんなに距離取られたのに、結月先輩とは普通に一緒にいる』って」
その言葉に、私は言葉を失う。 拓海先輩は、誰に対しても同じ距離感を保つ人だ。近づきすぎない。でも、拒絶もしない。 それが拓海先輩の優しさであり、不器用さでもある。
「……誤解だと思う」
声が小さくなる。 クミは首を傾げる。
「でも、ルナは『見た』って……」
その瞬間、教室の後ろで椅子が引かれる音がした。振り向かなくても、誰が来たのかわかる。 空気が、わずかに張り詰める。
「……結月先輩」
低くて、感情を抑えた声。ルナだった。 振り返ると、ルナは腕を組んだまま立っている。いつもの人懐っこい笑顔はなく、目だけが妙に冷たい。
「昨日の夜、拓海先輩と一緒にいたよね」
否定も、責めも、まだない。ただ、事実確認だけの言葉。 一瞬だけ息を吸って、正直に答える。
「うん。一緒にいた。でも……」
「でも?」
ルナの声が、ほんの少しだけ強くなる。
「何もなかったよ」
視線を逸らさずに言う。
「バンドの練習があって、帰りが同じだっただけ」
ルナはしばらく黙っていた。 教室のざわめきが、やけに遠くに感じる。 聞き耳を立てているクラスメイトから「バンドだってよ」というささやきが聞こえる。
「……ふうん」
それだけ言って、ルナは視線を外す。
「拓海先輩、私には『一人でも通える』って言ったのに」
ぽつりと零れた言葉は、怒りよりも、傷ついた色をしていた。 胸が、ちくりと痛む。
「ルナ……」
「いいよ、別に」
ルナは早口で言い、いつもの明るさを無理に作った笑顔を浮かべる。
こぶしがギュッと握られた。
「誰と一緒にいようが、先輩の自由だし」
そう言い残して、ルナは自分のクラスに戻っていった。
残された私は、しばらく動けずに立ち尽くす。
――誤解なのに。
――でも、誤解だと言い切れるほど、何も感じていないわけでもなくて。
教室の窓から差し込む朝日が、やけに眩しい。
そのとき、教室の扉が開き、拓海先輩が顔を出した。用事で呼ばれたらしく、廊下に立っている。
一瞬だけ、視線が合う。 昨日と同じ、穏やかな目。
でも今日は、その奥にわずかな戸惑いが見えた気がした。
――これ、ちゃんと向き合わなきゃいけないやつだ。
そう思いながら、静かに席に戻った。




