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残響のプレリュード  作者: erg
第1部

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6/82

第1部 第5項

 教室に入った途端、空気が少しざわついているのがわかった。

 いつもの朝は、眠そうな声と椅子を引く音が混じるだけなのに、今日は妙に視線が集まる。 その中心に、血相を変えたクミがいた。


「結月先輩!」


 机にカバンを置く間もなく、クミが駆け寄ってくる。声は抑えているつもりらしいけれど、やっぱり少し大きい。


「ルナが、めちゃ怒ってます!」


「……え?」 

 

 一瞬、言葉の意味を飲み込めず、私はは瞬きをした。


 クミは周囲をちらっと確認してから、さらに身を乗り出す。


「昨日の夜、拓海先輩と一緒にいたのを見たって! しかも、いい雰囲気だったって言ってます!」


 胸の奥が、ひゅっと音を立てて縮む。

 ――昨日の夜。 スタジオの帰り道、駅までのほんの短い時間。並んで歩いただけで、特別なことは何もなかったはずなのに。


「ち、違うよ」


 思わず即座に否定する。


「たまたま帰りが一緒になっただけだし……」


「でも夜遅かったんですよね? ルナ、かなり本気で怒ってますよ?」


 クミは困ったように眉を下げる。


「『あんなに距離取られたのに、結月先輩とは普通に一緒にいる』って」


 その言葉に、私は言葉を失う。 拓海先輩は、誰に対しても同じ距離感を保つ人だ。近づきすぎない。でも、拒絶もしない。 それが拓海先輩の優しさであり、不器用さでもある。


「……誤解だと思う」


 声が小さくなる。 クミは首を傾げる。


「でも、ルナは『見た』って……」


 その瞬間、教室の後ろで椅子が引かれる音がした。振り向かなくても、誰が来たのかわかる。 空気が、わずかに張り詰める。


「……結月先輩」


 低くて、感情を抑えた声。ルナだった。 振り返ると、ルナは腕を組んだまま立っている。いつもの人懐っこい笑顔はなく、目だけが妙に冷たい。


「昨日の夜、拓海先輩と一緒にいたよね」


 否定も、責めも、まだない。ただ、事実確認だけの言葉。 一瞬だけ息を吸って、正直に答える。


「うん。一緒にいた。でも……」


「でも?」


 ルナの声が、ほんの少しだけ強くなる。


「何もなかったよ」


 視線を逸らさずに言う。


「バンドの練習があって、帰りが同じだっただけ」


 ルナはしばらく黙っていた。 教室のざわめきが、やけに遠くに感じる。 聞き耳を立てているクラスメイトから「バンドだってよ」というささやきが聞こえる。


「……ふうん」


 それだけ言って、ルナは視線を外す。


「拓海先輩、私には『一人でも通える』って言ったのに」


 ぽつりと零れた言葉は、怒りよりも、傷ついた色をしていた。 胸が、ちくりと痛む。


「ルナ……」


「いいよ、別に」


 ルナは早口で言い、いつもの明るさを無理に作った笑顔を浮かべる。

 こぶしがギュッと握られた。


「誰と一緒にいようが、先輩の自由だし」


 そう言い残して、ルナは自分のクラスに戻っていった。

 残された私は、しばらく動けずに立ち尽くす。


 ――誤解なのに。

 ――でも、誤解だと言い切れるほど、何も感じていないわけでもなくて。


 教室の窓から差し込む朝日が、やけに眩しい。

 そのとき、教室の扉が開き、拓海先輩が顔を出した。用事で呼ばれたらしく、廊下に立っている。

 一瞬だけ、視線が合う。 昨日と同じ、穏やかな目。

 でも今日は、その奥にわずかな戸惑いが見えた気がした。


 ――これ、ちゃんと向き合わなきゃいけないやつだ。


 そう思いながら、静かに席に戻った。

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