第2部 第6項
ある日曜日。駅前の楽器店で、ミツキと談笑している拓海。
今日は結月もアルバイトで楽器店のほうにいる。奥で仕入れの伝票整理をしている。
女性客が入ってくる。パーカッションのコーナーへ。
拓海は就職して、この場のスタッフではなくなったが、つい癖で接客してしまう。
「あ・・・」
「どうかされましたか?」
「たくみくん・・・」
「え?」
「わたし・・・エミだよ」
「あ」
絶句する拓海。
「ひさしぶり。元気?」
拓海は答えられない。
「あの時、急にいなくなってごめんね。......わたしはね。今でも一応、続けてるよ。プロになった」
一瞬で、時間が巻き戻ったような感覚だった。
駅前の楽器店。
シンバルの金属音が、遠くでかすかに鳴っている。
日曜の昼下がりの、穏やかな空気。
なのに――
拓海の耳には、何も入ってこない。
「……エミ」
ようやく、それだけを絞り出す。
目の前に立つ彼女は、記憶の中より少しだけ大人びていた。
髪は短く整えられ、服装も落ち着いている。
でも、目の奥の光は、あの頃と変わらない。
「プロになったんだ」
エミは、少し照れたように笑った。
「うん。まだ駆け出しだけどね。今はサポートが多いかな。今日は、こっちに用事があって」
拓海は、喉がひりつくのを感じた。
(……プロ)
その言葉が、胸の奥に重く落ちる。
自分が、あの場所から逃げるように離れたあとも。
彼女は、続けていた。
音楽を。
あの世界を。
「そっか……」
それ以上、言葉が続かない。
エミは、拓海の沈黙を責めるでもなく、パーカッションコーナーを一瞥してから、ぽつりと言った。
「ね、憶えてる? 最後に一緒に合わせた曲」
拓海は、無意識に拳を握っていた。
覚えていないわけがない。
忘れたくても、忘れられなかった。
「……憶えてるよ」
声が、少しだけ掠れた。
エミは、小さく息を吐く。
「あのときね、私、怖かったんだ」
拓海は顔を上げる。
「拓海くんが、あまりにも全部背負ってて、一緒にやってるのに、隣に立ててない気がして」
それは、初めて聞く言葉だった。
「父はプロだったから、父の言葉を言い訳にして、逃げた。連絡もしないで、消えた」
エミは、まっすぐ拓海を見た。
「最低だよね」
「……いや」
否定は、それだけだった。
拓海は、首を振る。
でも、あの出来事が拓海にとってすべての始まりだったのだ。
責める言葉も、出てこない。
ただ、胸の奥に溜まっていた澱が、静かに揺れた。
そのとき。
「拓海君?」
奥から、聞き慣れた声がした。
伝票を手にした結月が、二人の様子に気づいて足を止めている。
事情はわからない。
でも、空気が違うことだけは、すぐに察した顔だった。
拓海は、ほんの一瞬だけ結月を見る。
――大丈夫だ。
そう言うように、軽くうなずいた。
エミも、その視線の先に気づいて、微笑む。
「彼女?」
拓海は、少しだけ息を整えて答えた。
「今、一緒に音やってる」
その言葉は、嘘じゃない。でも、どこか決意に近かった。
エミは、安心したように目を細める。
「そっか、よかった」
しばらくの沈黙。
やがて、エミは一歩下がった。
「直子から、ここにいるって聞いたの。今日は、顔見せだけ、謝りたかったのと……ちゃんと、生きてるって伝えたくて」
拓海は、深く息を吸って、吐いた。
「……ありがとう」
それは、許しでも和解でもなかった。ただ、区切りだった。
エミは、最後に小さく手を振る。
「じゃあね、拓海くん。お互い、今の音を大事にしよ」
そう言って、店を出ていった。
自動ドアが閉まる音が、やけに大きく響く。
拓海は、その場にしばらく立ち尽くしていた。
結月が、そっと近づく。
「……大丈夫ですか?」
明らかに青い顔色だ。
拓海は、少し考えてから答えた。
「うん。驚いたけど……」
一拍、間を置いて。
「もう、引きずらない」
結月は、それ以上聞かなかった。
ただ、隣に立つ。
その距離が、拓海にはありがたかった。
店内には、また日曜の穏やかな空気が戻ってきていた。
金属音と、話し声と、午後の光。
拓海は思う。
過去は、消えない。
でも。
今は、ちゃんと息ができている。
それだけで、十分だった。




