第2部 第7項
日曜日の午後。
部活帰りのモモは、駅前を歩いていた。
ケースを肩にかけたまま、楽器店の看板を見上げる。
寄っていこうかな、と思った。
弦、そろそろ替えどきだし。
それに、拓海がいるかもしれない。
自動ドアに手を伸ばしかけた、そのとき。
誰かが、店から出てきた。
「あ――」
ぶつかりそうになって、思わず足を止める。
「ごめんなさい」
女性が言った。
落ち着いた声。
年上だと、すぐにわかる。
「いえ……」
そう返しかけて、モモは言葉を失った。
女性が、顔を上げたのだ。
目が合った、ほんの一瞬。
その人の表情が、凍りつく。
驚きと、戸惑いと、
それから――
どうしようもない懐かしさのようなものが、入り混じった顔。
女性の唇が、わずかに動いた。
声は出ていない。
でも、モモには、はっきり見えた。
(――ももかちゃん)
心臓が、ひとつ大きく跳ねる。
(……なに?)
知っている人?
知らない。
会ったことは、......無いはずだと思う。
女性は、何か言おうとして、やめた。
そして、小さく頭を下げる。
「……失礼しました」
それだけ言って、足早に去っていく。
モモは、その背中を追えなかった。
代わりに、ガラス越しに店内を見る。
――そこに、拓海がいた。
立ち尽くしている。
さっきまで、何かあったのが、遠目にもわかる。
結月が、隣で声をかけている。
拓海は、少しだけうなずいている。
(……なにが、あったの?)
胸の奥が、ざわつく。
さっきの女性。
拓海。
自分の名前を知っている、見知らぬ人。
全部が、線でつながりそうで、
でも、つながってはいけない気もした。
モモは、楽器店のドアを見た。
入ろうと思えば、入れる。
今なら、聞ける。
拓海に。
「今の人、誰?」って。
でも――
拓海の横顔は、久しぶりに見るくらい、静かで、遠かった。
(……今じゃない)
そう思った。
モモは、ケースのベルトを握り直す。
今日は、やめておこう。
知らないままでいることが、優しさになる瞬間も、ある。
自分にも。
きっと、拓海にも。
モモは、踵を返した。
駅前のざわめきに、音が溶けていく。
――さっきの女性の唇が動いた、あの一瞬だけが、心のどこかに、小さく引っかかったまま。
それでも、歩き出した。
今は、部活の続きの話をしよう。
次に会ったときは、いつも通りに笑おう。
それが、モモの選んだ距離だった。
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それは、何でもない夜だった。
ライブもなく、店内は静かで、片付けもほぼ終わっていた。
STAR DROPのカウンターに、二人きり。
グラスの氷が、かすかに音を立てる。
モモは、少しだけ間を置いた。
「……ねえ」
拓海が顔を上げる。
「エミちゃんってさ」
一瞬、拓海の指が止まった。
ほんの一瞬。
でも、モモは見逃さなかった。
エミは拓海の憧れだった。
『あいつ、すごいんだぜ!』
と、無邪気に尊敬していた拓海を知ってる。
「今でも、音信不通なの?」
声は、できるだけ平坦にした。
詮索でも、責めでもない。
ただの確認みたいに。
拓海は、すぐには答えなかった。
視線をグラスに落として、ゆっくりと息を吐く。
「……いや」
短い否定。
「この前、偶然会った」
モモの胸が、きゅっと縮む。
(やっぱり)
でも、顔には出さない。
「そうなんだ」
それだけ言って、続きを待つ。
拓海は、少しだけ苦笑した。
「プロになったってさ。ちゃんと、続けてた」
その言い方が、誇らしさと、悔しさと、全部混ざっているのがわかる。
モモは、黙ってうなずく。
「……それで?」
拓海は、少し考えてから答えた。
「謝られた。消えたことも、連絡しなかったことも」
間が落ちる。
「でもな」
拓海は、モモを見ないまま言った。
「もう、どうこうする話じゃなかった」
モモは、そこでようやく、拓海を見る。
「……引きずってた?」
拓海は、一瞬だけ目を閉じた。
「引きずってた、っていうか、背負ってた。かな」
その言葉に、モモは静かに息を吸う。
「じゃあ……今は?」
拓海は、少しだけ考えてから、肩をすくめた。
「今は、......会えてよかったと思ってる」
それは、未練じゃない。
未練だったら、そんな言い方はしない。
モモは、カウンターに肘をついて、顎を乗せる。
「……そっか」
しばらく、沈黙。
でも、重くはない。
「ねえ、拓海」
モモは、少しだけ笑った。
「私さ」
拓海がこちらを見る。
「今ここにいる拓海が、ちゃんと息してるなら、それでいい」
拓海は、驚いたように瞬きをしてから、ふっと力を抜いた。
「……ありがとう」
それは、謝罪でも感謝でもある、不思議な声だった。
モモは、グラスを持ち上げる。
「じゃあ、今日はこの話終わりね」
拓海は、少し笑って、同じようにグラスを持つ。
「そうだな」
氷が、軽く触れ合う。
過去は、確かにあった。
でも、それはもう、二人の間に横たわるものじゃない。
モモは、そう確信していた。
――聞いたからこそ、これ以上、聞かなくていい。
それが、この夜の答えだった。




