前日譚10
翌朝も、ルナは拓海にまとわりついていた。
「拓海先輩って、吹部ですよね?」
「パート、何ですか?」
「三年生って、引退早いんですか?」
質問の洪水。
拓海は逃げ場を失ったように、「うん」「そうだね」と短く返すだけ。
放課後の音楽室。
金管と木管の混じった、少し湿ったような匂い。
吹奏楽部の見学初日らしく、部屋の空気はいつもよりざわついていた。
「高橋ルナです!」
元気すぎる声が、譜面台の並ぶ室内に響く。
「中学ではテナーサックスでした!高校でも続けたいです!」
顧問が軽く頷き、「じゃあ今日はサックスパートを見てもらおうか」と言う。
その瞬間。 結月は、内心で顔をしかめた。
(……よりによって)
表情には出さない。
出さないけれど、胸の奥が、きしっと音を立てる。
サックスパート。
結月の場所。
そして、
―― 拓海の、関わりが深い場所。
ルナは物怖じする様子もなく、パートの面々を見回して、すぐに拓海を見つけた。
「あっ!拓海先輩!」
その呼び方に、結月の指先が、ほんの少しだけ譜面台を強く握る。
「はい!」
結月のほうを向いて
「拓海先輩、同じ中学だったんですよ!」
周囲の視線が、一斉に拓海に集まる。
拓海は少し困ったように笑って、「そうなんだ」とだけ言う。実は彼女をあまり知らない。
ルナは構わず続けた。
「拓海先輩、中学のときは合唱部だったんですけど、吹奏楽部と合同の演奏会があって!」
その言葉に、結月の胸が、わずかにざわつく。
(……知らなかった)
「そのとき、すごく印象に残ってて」
ルナは少し照れたように、でも真っ直ぐに言う。
「歌も、雰囲気も。なんか……忘れられなくて」
空気が、一瞬だけ止まる。 顧問が咳払いをして、
「じゃあ、今日は基礎合奏を見学してもらおう」
と場を戻す。 音出しが始まる。
ロングトーン。 チューニング。 いつもの音。
なのに。
結月は、 音がいつもより遠く感じた。
(合唱部) (合同演奏会) (忘れられない、か)
拓海の横顔を見る。
譜面を見つめるその表情は、淡々としているようで、どこかだけ、距離を取っている。
――踏み込ませない顔。
それが、結月には余計に引っかかった。
合奏が終わり、短い休憩。
ルナはすぐに拓海のところへ行く。
「拓海先輩、テナーでしたっけ?」
「合唱のパートはね」
「えっ?」
「中学では、歌う側だったろ」
ルナは目を丸くする。
「じゃあ、今は?」
拓海は、ほんの一拍、間を置いてから言った。
パーカッションなのはルナのの目にも一目瞭然。
それなのに、
「今は……秘密」
冗談めかしているのに、その声は、どこか本気だった。
結月は、それを聞いて、胸の奥が少しだけ締めつけられる。
(秘密、か)
プラチナムーン。
STAR DROP。
言えないこと。
言わないこと。
そして
―― 言われたくない過去。
ルナは楽しそうに笑った。
「じゃあ、その秘密も含めて、拓海先輩の近くで吹けたら嬉しいです!」
悪気なんて、どこにもない。
だからこそ、結月は、何も言えなかった。
ただ、サックスを構え直しながら思う。
(……近づきすぎないで)
そんな願いが、音に混じって、静かに消えていった。
前日譚 終




