前日譚8
モモは、完全にスイッチが入っていた。
拓海の制止なんて、最初から聞く気がない。
「小学校から吹奏楽でね」
何でもない世間話みたいな口調で、でも一つ一つが芯を食っている。
「中学で、なぜか合唱部に入ったんだよ、拓海」
結月が、くすっと笑う。
「楽器離れても、音楽なんですね」
「そうそう」
モモは、すぐ続けた。
「でもさ、合唱じゃ物足りなすぎて(笑)」
「なんだよ、それ」
拓海が、少し強めに言う。
「余計なこと、言わなくていい」
でも、声は止めきれていない。
結月は、拓海から目を逸らさずに言った。
「……先輩のこと、知りたいです」
その一言で、拓海は黙った。
モモは、勝った顔をしない。
ただ、少しだけ声を落とす。
「中学生なのにバイト始めてさ、楽器代とスタジオ代、親に全部は頼れないって勝手に決めて」
拓海が、ベースの弦を、きゅっと押さえる。
「気が付いたら」
モモは、地下室を見回す。
「こんなんだったってわけ」
言葉の先は、部屋そのものだった。
結月は、ゆっくり息を吸う。
「……逃げなかったんですね」
拓海が、眉をひそめる。
「逃げ?」
「音楽から」
結月は、静かに言う。
「一回、離れても」
拓海は、答えない。
代わりに、モモが言う。
「逃げられなかったんだと思う。拓海、音楽やめる理由が見つからなかっただけ」
少し意地悪で、でも優しい言い方。
結月は、拓海に向き直る。
「それ、すごいことですよ」
「……普通だよ」
「普通じゃないです」
即答だった。
結月は、少しだけ笑う。
「だから、ここにこんな音楽室がある」
拓海は、しばらく黙ってから、観念したように言う。
「……盛りすぎだ」
モモが、肩をすくめる。
「削れないだけ」
(削ったら、傷が見えちゃうでしょ)
その瞬間、地下室の空気が、少し変わった。
拓海の過去は、拓海の口から語られたわけじゃない。
でも、否定されなかった。
それだけで、結月には十分だった。
彼女は、そっと鍵盤に指を置く。
「先輩」
一音、鳴らす前に言う。
「この音楽、途中から混ざってもいいですか」
拓海は、答える代わりに、カウントを取った。
――1、2。
音が、重なる。
過去は語られ、現在が鳴り、まだ名前のない未来が、ここで、少しだけ形になり始めていた。




