前日譚5
今日はSTAR DROPがライブイベントの日で、放課後のたまり場として使えなかった。
「おじゃましま~す……」
声に出した瞬間、自分でも分かるくらい、結月の心臓は落ち着きがなかった。
「あら、いらっしゃい」
キッチンから顔を出したのは、拓海の母、冴子だった。
柔らかい声に、少しだけ肩の力が抜ける。
「あ、こんにちは」
「どうぞ入って」
拓海が自然にそう言って、玄関にスリッパを揃える。
そのとき。
「……」
リビングの奥から、視線を感じた。
小柄な女の子が、じっとこちらを見ている。
上目遣い。無言。完全に警戒モード。
「……だれ?」
低く、短い一言。
「なんだよ」
拓海が苦笑する。
「バンドの曲の打合せだよ」
「何も言ってないじゃん」
「目が語ってるんだよ」
のぞみはむっとした顔のまま、結月から視線を外さない。
「かわいい妹さんだね」
柔らかい笑顔でそう言うと、のぞみは一瞬だけ目を見開き、ぷいっとそっぽを向いた。
「……ふん」
「妹ののぞみ。」
「いくつですか?」
「中1だよ」
拓海は、ギターを持ってリビングに入ろうとする。
「じゃあ、ここで――」
「ちょっと」
冴子の声が飛ぶ。
「家事でいっぱいなんだから、自分の部屋でやってちょうだい」
「えー」
「えーじゃないの」
有無を言わせない調子だった。
「……わかったよ」
拓海は肩をすくめ、結月を見る。
「上、行こう」
(あ……先輩の部屋……)
その一言で、結月の鼓動が一段跳ね上がった。
「むさくるしい部屋だけど、ごめんね」
そう言いながら開けられたドアの向こうは、確かに生活感はあるが、雑然とはしていなかった。
ギター、ベース、キーボード。
ドラムの練習パッドが壁際に立てかけてある。
本棚には、楽器演奏のハウツー本、アンサンブル理論、コード進行集。
ページが折られ、付箋が貼られ、使い込まれているのが一目で分かる。
一方で。
(……色気、ないな……)
ポスターも写真も、そういう類のものは皆無だった。
(先輩らしいけど……)
拓海はギターを手に取ると、軽く音を出し始める。
「この辺、こんな感じでどう?」
シンプルなリフ。
歌が乗る前提の、余白のあるフレーズ。
結月は、拓海のキーボードにそっと触れた。
「じゃあ、コードはこんな感じですね」
音を重ねる。
「この辺、コードで支えるより、上下に動かした方が良くないですか?」
試しにフレーズを入れると、空気が少し変わった。
「……いいね」
拓海はすぐにうなずいた。
「モモと合わせる時、提案しよう」
その瞬間。
――ガチャッ。
ドアが勢いよく開いた。
「ちょっと二人っきりで何してたの?」
モモだった。
下世話、とまでは言わないが、明らかに面白がっている目。
「のぞみちゃんに、結月が来てるって聞いてさぁ」
のぞみが、その後ろから覗き込んでいる。
モモは幼馴染だ。
だからこそ、モモ“以外”の女子が拓海と親しくしている状況が気に食わない。
「気になるからって、わざわざ呼ぶか?」
拓海が呆れたように言う。
「だってぇ」
のぞみは悪びれず、モモは肩をすくめる。
「ま、いいじゃん。お向かいさんなんだし」
そう言って、部屋に入ってくる。
「曲の打合せしてたんでしょ? 私も混ぜて」
拓海は一瞬考えてから、楽器を持ち替えた。
ギターを置き、ベースを肩にかける。
代わりに、モモが今まで拓海が使っていたギターを構えた。
「じゃあ、合わせてみる?」
「うん」
結月は、キーボードの前で姿勢を正す。
「ベースが入ったら……また雰囲気、変わるかな」
ぽつりと漏れたその言葉に、拓海は少しだけ笑った。
「変わるよ」
モモが弦を鳴らす。
「変わらなきゃ、意味ないしね」
その言葉どおり、低音が入った瞬間、音の輪郭がぐっと太くなった。
まだ名前もない曲。
まだ形も定まらない音。
でも。
この部屋で、この距離で、この三人で音を出していること自体が、すでに何かの始まりだった。
廊下の向こうで、のぞみが腕を組んで呟く。
「……なんか、悔しい」
誰にも聞こえない、小さな声で。




