前日譚4
ライブハウス「STAR DROP」
1階の楽器店の明るさとは違う、少し湿った、音の染みついた空気。
ドアを開けると、暗がりの中にステージがあった。
スポットライト。
アンプ。
ドラムセット。
そして、ステージの端に、アップライトピアノ。
結月は、思わず息を呑んだ。
(……ここで、音を出すんだ)
拓海は、いつもの穏やかな声で言った。
「大丈夫。客は誰もいない」
その言葉は、安心させると同時に、結月の中の何かを、そっと揺らした。
――これは、部活とは違う場所だ。
でも―― 音楽があることだけは、同じだった。
暗い。でも、怖い暗さじゃない。
音が染み込んだ空間だった。
ステージにはドラムセットとアンプ。
壁際にはケーブルが無造作に這い、天井にはいくつもの照明が吊られている。
女性が、カウンターの椅子に座って腕を組んでいた。
「……誰?」
短く、はっきりした声。
拓海が、すぐに一歩前に出る。
「美月さん。ちょっとだけ、ピアノ貸してほしい」
結月は息をのむ。
ミツキ。テレビで顔と名前は知ってる。
解散した人気バンドのリードギター。引退後はライブハウスの経営を始めたと聞いたことがある。
ミツキの視線は、拓海とモモを通り過ぎてから結月に固定され、ふっとため息をついた。
「学生?」
「はい」
「音出すなら、短時間ね 」
その横から、元気な声が飛んできた。
「え、なになに?」
ドラムの影から、明るい笑顔の女の子が顔を出す。
「新しい子?」
ハルカだった。ミツキとは対照的に、人懐っこい雰囲気で、結月に近づいてくる。
「吹奏楽? サックス持ってるし」
「はい」
「へぇ〜。じゃあホーンじゃん」
そのとき、控室の方から、低めの声が聞こえた。
「…...拓海か」
カーテンの隙間から、長身の女の子が顔を出す。エリカだ。
興味なさそうに見えながら、目だけは鋭くこちらを見ている。
結月は、ステージ脇のアップライトピアノを見た。
鍵盤は少し黄ばんでいるけれど、しっかり手入れされているのが分かる。
(……触って、いいんだ)
拓海が、結月に視線を向ける。
優しげで心配そうな目に背中を押されて、結月はゆっくりと椅子に腰掛けた。
鍵盤に指を置く。
――部室のピアノとは、全然違う。
音が、前に出る。空間に吸い込まれるように、響く。
「……お」
小さく声を漏らしたのは、ハルカだった。
ミツキは腕を組んだまま、何も言わない。でも、視線はピアノから外れていなかった。
エリカは、いつの間にか完全に姿を現し、壁にもたれて聴いている。
結月は、ただ、音を出した。難しいことはしない。昔、指が覚えているフレーズを、そっと。
それだけで、空気が変わった。
――ここは、部室じゃない。
でも。ここにも、音楽はあった。
スーパーバンド「ハルトゲシュタイン」が生まれる前。その前夜のような時間。
結月はこの場所で、まだ名前のない「何か」に、初めて触れていた。
結月がピアノから手を離すと、しばらくの沈黙が落ちた。
拓海が、その空気を破るように口を開く。
「バンド、組みたくてね」
さらっと言ったけれど、その一言には、ずっと温めてきた響きがあった。
「俺はドラム」
言いながら、ステージの奥にあるドラムセットを指す。
「モモは、ギターボーカル」
モモは少し照れたように、でも誇らしげにうなずいた。
「美月さんは、このライブハウスのオーナーで」
ミツキは相変わらず無言だが、否定もしない。
「ハルカは、その妹。ドラムやってる」
「はいっ」
ハルカが元気よく手を挙げる。
拓海は、最後にエリカを見る。
「エリカは、ハルカの友達でベース」
エリカは返事のように、肩をすくめた。
結月は、頭の中で必死に整理する。
ドラム。
ギターボーカル。
ベース。
(……あれ? 足りない)
自然と視線が、ステージ脇のピアノに戻る。拓海は、その視線に気づいたようだった。
「キーボード、空いてる」
その一言で、胸がどくんと鳴った。
「もちろん、無理にとは言わない。ただ……」
少しだけ、言葉を選んでから続ける。
「一度、音出してみたい」
その「一度」が、どれだけ重い意味を持つのか。このときの結月は、まだ知らない。
ただ、この場所で、この人たちと、音を出す——。
その想像だけで、胸が熱くなった。
ハルカが、身を乗り出す。「ね、面白そうじゃない?」
エリカは、静かに言った。「音、合いそう」
ミツキは腕を組んだまま、短く言う。
「……続きは、時間決めてね」
それは、許可だった。
拓海は、ステージをぐるりと見渡してから言った。
「今ここにいるメンバーで、とりあえず、合わせてみよう」
その言い方には、区切りがあった。
「これは、完成形じゃない」
はっきりと。
ハルカとエリカは顔を見合わせる。
二人の志向が、ハードロック寄りなのは、拓海も知っている。
歪んだギター。
前に出るベース。
叩きつけるようなドラム。
それはそれで、強い。
でも、拓海が求めている音は、そこまで激しいものじゃない。
もっと、歌が前に出る。
もっと、旋律が残る。
聴いたあとに、余韻が残る音。
「探してる途中なんだ」
そう言って、拓海は少しだけ笑った。
「俺が、望んでる形を」
その言葉は、誰かを否定するものじゃなかった。
今いるメンバーを「仮」と切り捨てる響きもない。
ただ、正直だった。
「だから今日は、今できる音を、出そう」
モモが、ギターを構える。
「何やる?」
「コードだけ、適当に」
拓海がドラムスティックを持つ。
「合わせるから」
カウントが入る。
ワン、ツー、スリー、フォー。
音が、ぶつかる。
ハルカのドラムは前に出る。
エリカのベースは重い。
モモの声は、まだ探りながら。
結月のピアノは、その隙間を埋めるように音を置く。
完璧じゃない。
むしろ、ちぐはぐだ。
でも。
(……楽しい)
音が、会話みたいに行き交う。
ドラムをハルカに任せた拓海は、パーカッションでリズムを刻む。激しすぎず、でも曖昧でもない。
全体を「まとめる」叩き方だった。
――この人は、やっぱりブレーキ役だ。
結月はそう思った。
完成形じゃない。途中だ。
でも。
この「途中」に立ち会っていることが、なぜか誇らしかった。
最後の音が、天井にぶつかって消えた。
誰も、すぐには口を開かなかった。
ミツキが、ゆっくりと腕をほどく。
「……ふう」
短く息を吐いてから、ひとりずつを見ていく。
ミツキの視線がモモへ移る。
「モモ」
呼ばれただけで、モモは少し身構えた。
「……下、向き過ぎ」
短い。でも、核心だった。
「声、出したいなら、前、見な」
モモは、唇を噛んでから、小さくうなずいた。
そして。
ミツキの視線が、結月で止まる。
「そっちの子……結月、って言ったか」
「はい」
思わず、背筋が伸びる。
ミツキは、少しだけ考えるように目を細めてから言った。
「未熟」
その一言に、胸がきゅっと縮む。
でも、続きがあった。
「だけど、拓海と合いそうだね」
その瞬間、不思議と、否定された気はしなかった。
未熟。
それは事実だ。
でも、「合いそう」という言葉が、すべてを包み込んでいた。
拓海が、ちらりと結月を見る。
何も言わない。ただ、少しだけ、安心したような顔だった。
ハルカは、目を丸くする。
「え、じゃあさ」
エリカは、静かに笑う。
「面白くなってきた」
ミツキは、最後にまとめるように言った。
「今日はここまで、続きやるなら、ちゃんと予定組みな」
それは、拒否じゃない。「続き」を前提にした言葉だった。
結月は、その場で何かが決まった気がした。
まだ、完成形じゃない。
でも。
この人たちと、この場所で、もう一度音を出したい。
そう、はっきり思えた。




