前日譚2
そんなある日。部活は休養日だった。
「さて、放課後、何しようかな」
特に用事もなく、なんとなく駅へ向かって歩いていると、視界の先で見覚えのある後ろ姿が目に入った。
――拓海先輩だ。
しかも、隣には女の子がいる。工業高校と道路を挟んだ向かいにある南高校の制服だ。二人は並んで歩きながら、楽しそうに話している。
「……おお、彼女かな」
思わず、そんな考えが浮かぶ。
拓海は優しいし、落ち着いているし、音楽もできる。彼女がいても、全然おかしくない。
なんとなく、ほんの出来心で、少しだけ距離を保ったまま後をついていく。
二人は、迷いなく駅前の楽器店SOUND DOCKに入っていった。
(あっ、そっちなんだ)
恋人同士なら、映画とかカフェとか、そういう場所を想像していた結月は、少しだけ拍子抜けする。
ガラス越しに見えたのは、壁一面の楽器と、並ぶ譜面。二人は自然に足を止め、管楽器コーナーへ向かっていった。
――デート、というより。
(……打ち合わせ?)
結月は入口の前で立ち止まり、少しだけ考えた末、店の中へ入った。空気に漂う、金属と木と、オイルの匂い。聞き慣れたその匂いに、なぜかほっとする。
拓海はトランペットを手に取り、一本一本を指差しながら、丁寧に説明していた。真剣な横顔は、部活で見る時と同じだった。
――ああ。
この人は、こういう人なんだ。結月は、なぜか安心した。
「この辺は吹きやすいけど、音が軽め」
「こっちは最初はきついけど、ちゃんと鳴らせるようになると強い」
内容はとても詳しくて、部活ではパーカッションだけど、以前はトランペットをやっていたのだろうか。
女の子は、真剣な顔でうなずき、時々、楽器を構えて息を入れる真似をする。
すくなくとも恋人同士の距離感ではなかった。信頼できる音楽仲間という空気だった。
(……やっぱり)
結月は胸の中で、ひとつ息をつく。
拓海は、こういう場面でも変わらない。誰かの音楽に、真剣に向き合う。だから、頼られる。
女の子が、少し困ったように言った。
「予算、これくらいなんだけど……」
拓海は、即座に現実的な選択肢をいくつか挙げた。
「無理して上位機種を買うより、ここを選んだ方がいい。その分、マウスピースをちゃんと合わせよう」
結月は、その横顔を見て思った。
――この人、彼女ができたとしても、きっとデートに楽器屋連れてくる。
そんな想像が浮かんで、思わず小さく笑ってしまった。
そのとき、拓海がふと顔を上げた。
「……あれ?」
視線が合う。
「あ、結月」
わずかに口角が上がるのを見て、結月は少し驚いた。
「偶然だね」
「はい。偶然......です」
そう答えながら、結月は思った。
この人は、どこにいても、結局「音楽の人」なんだな、と。
「こんにちは」
女の子が結月に気が付いて、にこっと笑った。
彼女の正体は、立花桃花。南高の一年生。トランペット吹き。拓海から何度か名前を聞いたことがある。
今日、拓海はモモに呼び出されていたらしい。用件は楽器の相談。
モモは、これまでずっと吹奏楽部備品のトランペットを使ってきた。高校生になって、ようやく親から「自分の楽器を買っていい」と許しが出たのだという。
――それは、管楽器をやっている人間にとって、一つの節目だ。
「拓海の部に入った子?」
少し首をかしげながら、でも迷いのない口調だった。
「男子の中に女子が入って、みんな浮足立って大変だったって」
結月は一瞬、言葉に詰まる。
(……もう、そんなところまで知ってるんだ)
拓海は苦笑いを浮かべて、軽く肩をすくめた。
「言い方」
「だって本当でしょ? この前トランペット借りに行ったとき、拓海がいたから入れたけど、そうじゃなかったら怖くて入れないよ」
モモは悪びれずに言う。結月は慌てて首を振った。
「最初は、ちょっとだけ。でも……拓海先輩が、止めてくれました」
そう言うと、モモはふっと表情を和らげた。
「ああ、やっぱり」
納得したような、どこか安心したような声だった。
「拓海って、そういうとこあるよね。誰かが特別になりそうな空気、ちゃんと戻す」
拓海は照れたように視線を逸らす。
「別に、普通だろ」
「普通じゃないから言ってるの」
二人のやり取りは、気取らず自然だった。そこには、恋愛特有の甘さはなく、長く音楽を共有してきた者同士の信頼があった。
結月は、その空気を少し羨ましく思いながらも、嫌な感じはしなかった。
(……この人たち、ちゃんと音楽でつながってる)
モモが結月のサックスケースに目を留める。
「サックス?」
「はい。中学からやってました」
「いいなぁ。ホーン仲間じゃん」
そう言って、モモは楽しそうに笑った。結月は、その笑顔を見て、少しだけ肩の力が抜けた。
――この人も、敵じゃない。
そんな当たり前のことを、ちゃんと確認できた気がした。
拓海は、二人を見比べて言った。
「ちょうどいいな。今度、合同で音出す機会、作れたらいいんだけど」
その一言が、後のすべてにつながっていくことを、このときの結月は、まだ知らなかった。
拓海が、ふと思い出したように結月を見る。
「ちなみにさ」
軽い口調だった。
「サックス以外の楽器、やったことある?」
突然の質問に、結月は少し考えてから答える。
「……ピアノ、やってました」
幼い頃から、中学に上がるくらいまで。吹奏楽を始める前の話だ。
その瞬間、モモの目がきらっと光った。
「ちょうどよくない?」
反応が早い。拓海も、納得したようにうなずく。
そして、結月に向き直る。
「時間あるなら、ちょっと付き合える?」
一瞬、警戒が勝つ。
「……いいですけど。何ですか?」
すると拓海は、楽器店の奥へ続く階段を指差した。
「ここさ、」
少しだけ声を落として、周りを窺いながら言う。
「地下、ライブハウスなんだ」
結月は思わず瞬きをした。
ライブハウス。言葉は知っている。でも、実際に足を踏み入れたことは、一度もない。
モモが、少し楽しそうに補足する。
「たまに、昼間は貸しスタジオみたいに使ってるんだよ。今日は空いてるはず」
拓海は、あくまで自然に言った。
「ピアノ、触るだけでいい。嫌なら、すぐ戻ろう」
――逃げ道を残してくれる、その言い方。
結月は少しだけ迷ってから、うなずいた。
「……じゃあ、ちょっとだけ」
階段を下りると、空気が変わった。




