前日譚1
結月が高校に入学した春。
工業高校建築科に進学した結月は、入学早々、少しだけ不安を抱えていた。
中学三年間、吹奏楽に打ち込んできた。できれば高校でも続けたい。
けれど、校内を歩く男子生徒たちは皆、体格がよく、声も大きく、どこか近寄りがたい。
部活見学の日。
意を決し、吹奏楽部の部室の扉を開けた瞬間、その不安は現実になった。
鉄の重い扉を開けると前室があり、正面にさらに鉄の扉。その扉は開け放されており、いたのは当然ながら全員が男子。しかも工業高校らしく作業着姿のまま、肩幅の広い、いかにも「職人予備軍」といった面々ばかりだった。笑い声も荒く、結月は思わず一歩、後ずさりする。
(場違い、かもしれない……)
そう思って回れ右をしようとした瞬間、視界の端に、ひとりだけ雰囲気の違う先輩が映った。前室の右側に事務室のような部屋があり、引き戸のガラス窓から見えたその人は、平均的な背で威圧感はなく、どこか柔らかい空気をまとっている。周囲の騒がしさの中で、その先輩だけが静かに譜面を整理していた。
引き戸を開け、「あの……すみません」
声が少し震えた。
「部活見学、したいんですけど……」
一瞬、部室の会話が止まる。
次の瞬間、その先輩が顔を上げ、穏やかな笑みを浮かべた。
「ありがとう。来てくれたんだね」
その一言で、結月の胸の緊張が少しほどけた。
「見学したいパートはある?」
自然な問いかけだった。
「中学の時は、サックスパートでした。もし……欠員があれば、続けたいと思っています」
そう答えると先輩はうなずき、すぐに立ち上がった。
「じゃあ、サックスのパートリーダー紹介するよ」
迷いのない動きだった。
「こっち、ちょっと来て」
その背中を追いながら、結月は思った。
――この人なら、大丈夫かもしれない。
「怖がらせるなよ」
先輩がそう釘を刺すと、サックスパートの強面な先輩たちが、一斉に「……おう。任せろ」と、不自然なほど優しい微笑みを浮かべた。
とはいえ、最初は怖いと思った先輩が、不器用ながらも、自分を「部員」として扱ってくれたことが、何より嬉しかった。
「中学でやってたなら、心強いね。よろしく」
最後にそう言って、また穏やかに笑う。
その先輩の名前が、長谷川拓海だと知ったのは、その直後だった。
この日を境に、結月にとって工業の吹奏楽部は「怖い場所」ではなくなった。
そして拓海は、ただの二年生の先輩ではなく、
——自分がこの高校で音楽を続けるきっかけをくれた人になった。
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部活見学を終え、部室を出る前に振り返った。
「さっきは、ありがとうございました」
ぺこり、と頭を下げる。
長谷川先輩は少しだけ驚いたように目を瞬かせてから、軽く笑った。
「いいよ。困ってたでしょ」
その言い方が、あまりにも自然で、胸の奥が、少しだけ軽くなる。
「また来てね。今度は――部員として」
「はいっ!」
ほとんど反射みたいに声が出た。
(――もう決めてます。長谷川先輩のおかげで)
「小鳥遊結月って言います」
「じゃあ、結月だね。よろしく」
心臓が、一拍。
“名字じゃない”ことに、少しだけ驚いて――
でも、それ以上に。
「……はい。よろしくお願いします、拓海先輩」
名前を呼んだ瞬間、
距離がほんの少しだけ近づいた気がした。




