第1部 第25項
フリーセッションは、決まりごとがない。
カウントも、譜面も、合図すらない。
誰かが音を出し、
それに誰かが重ね、
合わなければ、引く。
合いそうなら、踏み込む。
音楽というより、会話に近い。
何度かセッションが回り、ギター、ベース、鍵盤、ドラムが入れ替わる。
場の空気も、少しずつ柔らいでいった。
「次、ドラムいく?」
誰かがそう言った気がした。
拓海は軽く頷き、スティックを持ち替える。
深く息を吸う。
――刻まない。
拓海は、拍をはっきり置かなかった。
ジャズ風。
リズムは前に出さず、でも、確かにそこに“ある”。
スネアで主張せず、ハイハットも閉じすぎない。
ティンパニとは真逆の、輪郭をぼかした時間。
一見すると、バラバラ。
でも、なぜか、まとまっている。
音が音を縛らない。
音が音を待つ。
拓海が、少しだけ自由になる。
そのときだった。
――スゥ……。
ステージの反対側。
いつも拓海が立っている位置とは真逆の場所から、テナーサックスのロングトーンが流れてきた。
迷いのない、でも主張しすぎない音。
拓海は、はっとして視線を向ける。
ルナだ。
譜面もなく、ステージに上がるでもなく、
ただ、そこに立って吹いている。
隣には結月。
キーボードではない。
バリトンサックスを構えている。
――ああ。
すぐにわかった。
初めてのルナを、支えているんだ。
ルナの音は、最初は一直線だった。
長く、まっすぐなロングトーンだけ。
いい。
今は、それでいい。
拓海は、リズムをほんの少しだけ示す。
あからさまにならない程度に。
ルナの音が、揺れた。
ロングトーンが終わり、今度はほんの少しだけ音階がつく。
上がって、下がって、戻る。
整っていない。
正直、めちゃくちゃだ。
でも――悪くない。
いや、むしろ、いい。
楽譜なんてない。
正解もない。
デタラメな音の列。
でも、拓海のドラムはそれを拒まない。
結月のバリサキが、低音でそっと包む。
ルナは、一度、音を切った。
小さな休符。
そして、こちらを見た。
目が合う。
一瞬、時間が止まったような気がした。
拓海の口元が、勝手に緩んだ。
――笑ってる。
自分でも驚いた。
ルナも、ほんの少しだけ目を丸くして、
それから、照れたように息を吸う。
また、音が出た。
さっきより、少しだけ自由な音。
拓海は、はっきりと感じていた。
最初は、正直、苦手だった。
距離が近すぎて、踏み込みすぎて、自分の領域にズカズカ入ってくる感じがして。
だから、距離を置いた。
言葉を減らした。
線を引いた。
それでも、ルナは追いかけてきた。
でも――今は違う。
追い方が、変わっている。
言葉じゃない。
視線でもない。
「音」だ。
音で、隣に来ている。
押してこない。
求めてこない。
ただ、同じ場所に立って、同じ空気を吸っている。
拓海は、それを敏感に感じ取っていた。
ルナは、変わった。
そして――拓海自身も。
リズムを引き留める必要はない。
走らせる必要もない。
今は、ただ、一緒に鳴らせばいい。
フリーセッションは、誰のものでもない。
だからこそ、音が、正直になる。
拓海は、スティックを軽く跳ねさせながら、思った。
――音楽は、こんなふうに、人と繋がるものだったんだ。
--------------------
「拓海先輩」
呼ばれて、拓海は振り返る。
ステージの熱気が少しずつ引き、楽器のケースを閉じる音があちこちで鳴っている。その中で、ルナは一歩だけ距離を保ったまま立っていた。
「……楽しかったです」
少し照れたように、視線を泳がせながら。
でも逃げない。
以前のように、勢いで距離を詰めることもしない。
拓海は、その変化をはっきりと感じ取る。
「ああ。いい音だった」
それだけの言葉なのに、ルナの表情がふっと緩む。
「……今度、軽音に行ってもいいですか?」
ほんの一瞬、ためらいが混じる。
でも、こうなる予感はしていた。
「歓迎するよ」
ルナは、ぱっと顔を上げた。
嬉しさを隠しきれないまま、でも大げさに喜ばない。
そのバランスが、今の彼女らしかった。
彼氏でも、彼女でもない。
約束も、特別な言葉もない。
ただ、一緒に音を出して、同じ瞬間を共有できる関係。
それでいい。
それがいい。
ルナは何も言わなかった。
でも拓海には、はっきり伝わっていた。
言葉にしない選択を、彼女がしたことが。
少し離れたところで、その様子を見ていた結月は、内心で小さく息を吐いた。
(あ~あ……)
拓海先輩の反対側の隣。
何となく、いつも空いていた場所。
――埋まっちゃったな。
男女の関係じゃない。
でも、隣にいる関係。
音で並ぶ場所は、思っている以上に近い。
結月は、ほんの少しだけ胸の奥がちくっとするのを感じながらも、すぐにそれを受け入れた。
(……でも)
拓海が、穏やかでいられるなら。
音楽を楽しめているなら。
それで、いい。
ライバルだ。
間違いなく。
でも、不思議と嫌じゃなかった。
拓海の表情を見て、結月は思う。
張り詰めていた何かが、ほどけている。
追われることも、拒むこともない。
ただ、音楽の中に立っている。
穏やかな日常が、少しずつ戻ってくる。
結月はケースを抱え直し、軽く息を吸った。
(……また、いい音を作ろう)
隣に誰が立っても。
拓海がそこにいる限り。
第1部 終




