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残響のプレリュード  作者: erg
第1部

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32/82

第1部 第24項

 拓海は、オーディションという言葉を聞くと、今でも胸の奥がざらつく。


 それは小学校の頃。

 吹奏楽クラブで、コンクールメンバーを選ぶ。という話が出た時だった。

 今ならわかる。小学生に、完成されたプレイヤーなんていない。

 指導者だって、将来性や安定感や、その時点での“扱いやすさ”を見て選ぶだけだ。


 でも――

 当時の拓海には、そんなことはわからなかった。


 パーカッションは数人いて、その中に、ひときわ目立つ女の子がいた。

 スネア担当。

 拓海より少し背が低くて、でもスティックを握る手だけはやけに大人びていた。


 親がプロのパーカッショニスト。

 家にはスタジオがあって、本物の練習パッドとメトロノーム。

 構えもストロークも、音の粒も、明らかに違った。


 拓海は、その子と並んで練習するのが好きだった。

 負けたくない、というより――

「ついていきたい」という気持ちだった。


 スネアのロール。

 アクセント。

 クレッシェンド。


 放課後、二人で残って、誰もいない音楽室で叩き続けた。

 そして、オーディションの日。

 ――拓海が選ばれた。


 理由は、後から聞いた。


「テンポが安定している」

「本番で崩れにくそう」


 その子は、選ばれなかった。

 楽器庫の前で、拓海は声をかけられなかった。

 泣いてはいなかった。

 でも、目がどこも見ていなかった。

 ぽつりと、低い声で言った。


「……親に叩かれる」


 拓海は、言葉を失った。


「英才教育、受けてるのに。なんで……」


 そして、最後に。


「才能ない人に、負けたって言われる」


 その言葉が、胸に突き刺さった。

 拓海は、勝った気がしなかった。


 それから、その子は練習に来なくなった。

 一週間。

 二週間。


 顧問は、「事情があるんだろう」と言った。


 でも、拓海は知っていた。

 自分が、何かを奪ってしまったことを。


 それ以来だ。

 拓海が、「選ばれる」ことを心から喜べなくなったのは。

 誰かの上に立つことで、誰かを音楽から遠ざけてしまうかもしれない。

 だから――距離を取る。

 だから――踏み込みすぎない。

 誰かの人生を、不用意に変えてしまわないように。

 拓海は、ずっとそうやって音楽と向き合ってきた。

 そして今。

 正解のないセッション。

 選ばれない音楽。

 誰も落とされない場所。

 拓海が、そこに立とうとしている理由は――

 自分でも、まだ言葉にできていなかった。


 誰にも文句を言われない演奏を目指した。

 少なくとも――あの子に顔向けできない演奏だけは、絶対にしたくなかった。


 拓海はずっとそう思ってきた。


 速すぎず、遅すぎず。

 派手すぎず、埋もれすぎず。

 自分が前に出るより、全体が崩れないこと。


「うまい」よりも、「安心する」演奏。

 誰かを押しのけて輝く音じゃなく、

 誰かの音を下から支える音。


 だから、支部大会でも同じだった。


 ほんの一瞬。

 本当に、ほんの一瞬だった。


 走りかけたバンド――

 第3楽章、エンディングに向かって、

 全体がわずかに前へ前へと行こうとした、その瞬間。

 拓海は感じ取ってしまった。


「このまま行ったら、崩れる」


 引き留めようとした。

 ほんの少しだけ、全体を“待たせよう”とした。

 でも、それが――必要以上だった。

 ほんの、数分の一拍。

 たったそれだけ。

 けれど、吹奏楽では、一拍は永遠になる。

 音が、自分の中で遅れて聞こえた。

 視界が、すっと暗くなった。


 あ、やってしまった。


 そう思った瞬間、もう取り戻せなかった。


 演奏は終わった。

 拍手はあった。

 客席は、きっと何も気づいていない。


 でも、拓海自身が一番わかっていた。


 ――一番肝心なところで。


 ステージ袖に戻った時、誰も責めなかった。

 誰も何も言わなかった。


 それが、一番きつかった。


 結果発表。

 銀賞。


 ホールの空気が、一段階だけ沈んだ。


 拓海は、顔を上げられなかった。


「俺のせいだ」


 誰にも言わず、誰にも言わせず、心の中でそう決めた。

 あの時の女の子の顔が、ふと浮かんだ。

 泣きもせず、怒りもせず、ただ、打ちひしがれていたあの表情。

 ――俺は、また同じことをしたのか?

 自分を責めて、引き留めて、結果、音楽を止めてしまった。

 誰にも文句を言われない演奏。

 誰も傷つけない演奏。

 それを目指したはずなのに。

 拓海は、音楽の前で立ち尽くしていた。


 その背中を、誰かが見ているとも知らずに。

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