第1部 第13項
数日後。
昼休み。 校舎の渡り廊下。 結月は、少しだけ迷ってから声をかけた。
「……ルナ」
呼ばれた方が、先に振り向いた。
「なに?」
声は、普通。でも、少しだけ硬い。 結月は、鞄の中からチケットを一枚出した。
「今度、ライブあるんだけど」
受け取らせるでもなく、ただ見せる。
『PLATINUM MOON』
バンド名の下に、日付と場所。
「拓海と私のバンド」
一拍、間を置いてから。
「来る?」
押し付けない。 説明もしない。 来てもいいし、来なくてもいい。 その距離感。
ルナは、チケットを見つめたまま、すぐには答えなかった。
数秒。 でも、結月には長く感じられた。
「……外のバンドなんだ」
「うん」
「ちゃんとした?」
結月は、少しだけ笑った。
「ちゃんとしてるよ」
ルナは、チケットを受け取る。
「……一人じゃ、行かないから」
「いいよ」
「従姉、誘う」
「うん」
それだけ。
それ以上、何も言わなかった。
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その夜。
《しのぶ》 「え!?プラチナムーン!?行く行く行く!!」
即レスだった。
《しのぶ》 「ていうかさ、最近ライブ続いてない? ルナ、目覚めてきてる?」
ルナは、少し考えてから打った。
「……見ておきたいだけ」
何を、とは言わなかった。
ライブ当日が近づくにつれて、 ルナの中の感情は、少しずつ整理されていく。
嫉妬。 悔しさ。 知らなかったこと。
全部ある。
でも、それだけじゃない。
――拓海は、何を叩くんだろう。
――結月は、どんな音を出すんだろう。
ハルシュタは、「圧倒された」。
でも、プラチナムーンは、まだ知らない。
知らないから、行く。それだけだ。
チケットを鞄にしまいながら、ルナは思う。
これは、誰かに勝つためじゃない。
自分が、どこに立ちたいのかを確かめるための夜だ。
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STAR DROPの照明が落ちる。
ざわついていたフロアが、一瞬で静かになる。
「次、プラチナムーン」
短い紹介。
歓声は、ハルシュタのときほど大きくない。 でも、ちゃんと期待が混じっている。
――スネアの乾いた音。
最初の一音で、ルナはそれが分かった。
歪みすぎないギター。 前に出すぎないベース。 でも、芯のあるビート。
拓海のドラムは、吹奏楽部で叩くそれとは、まるで違った。
音が、前に転がってくる。 リズムが、身体を押す。
派手じゃない。 だけど、確実に足元を揺らす。
そこに、キーボードが重なる。
結月の音は、主張しすぎない。 でも、音の隙間を埋めるように、柔らかく、厚みを足していく。
ロックなのに、角が丸い。
「……やさしい音」
思わず、ルナは呟いていた。 しのぶが、横でうんうんと頷く。
「キーボード入るとね、空気が変わるんだよ」
歌が入る。
モモ。
真っ直ぐで、飾らない声。 技巧は多くない。
でも、歌詞が、ちゃんと届く。
サビ。
そこに、結月のコーラスが重なった。
主役じゃない。 でも、支える。
モモの声を、少しだけ持ち上げる。 その瞬間、ルナの胸の奥に、何かが落ちた。
――あ。
ハルシュタのときみたいに、心臓を掴まれる感じじゃない。 叫びたくもならない。
ただ、じんわりと、染みてくる。 昔、冬の朝に飲んだ、少しぬるくなったココアみたいな。 気づいたら、身体の中が温かくなっている。
ルナは、拓海を見る。 スティックを握る手。真剣な横顔。 誰かに見せるためじゃなく、音に向き合っている顔。
結月を見る。 キーボードを見下ろしながら、時々、モモの方を確認している。
視線は短い。でも、確実。
――支えてる。
そう思った。
それは、特別な関係なのかもしれない。
でも。
特別だからこそ、ここに立てる。
ルナは、ハルシュタを見たときとは違う涙を感じた。
悔しさじゃない。 羨ましさでもない。
「……音楽って、こういうのもあるんだ」
ライブが終わる。
拍手は、じわじわと大きくなっていった。 しのぶが、珍しく静かだった。
「……ねえ」
「なに?」
「このバンド、好きかも」
ルナは、何も言わずに、もう一度ステージを見た。
圧倒される夜じゃなかった。
でも、確実に、心に残る夜だった。
ライブハウスを出ると、夜風が一気に身体を冷やした。
STAR DROPのネオンが、少しだけ滲んで見える。
二人は並んで歩く。
さっきまでの音が、まだ耳の奥に残っている。
「……ねえ、しのぶ」
ルナが、ぽつりと言った。
「ん?」
「さっきの二人……」
言葉を探す。
「結月先輩と、拓海先輩」
しのぶは何も言わず、歩く速度を少し落とした。
「私さ……」
ルナは、足元を見たまま続ける。
「たぶん、恋愛じゃないって、頭では分かってる。でも」
声が、少しだけ揺れる。
「拓海先輩と、同じ音を見てる感じがして...... 私の知らない場所で、同じ景色を共有してるのが......嫌で」
沈黙。
遠くで、誰かの笑い声。
「今日もさ、結月先輩、ちゃんと音楽してたし、拓海先輩も、音楽してただけだし、何も、悪いことしてない」
分かってる。 全部。
「なのに、どうしていいか、分かんない」
しのぶは、立ち止まった。
ネオンの光が、横顔を照らす。
「ルナ」
「うん」
しのぶは、少し考えてから、静かに言った。
「それ、奪いたいんじゃなくて」
一拍。
「混ざりたい、なんじゃない?」
ルナは、息を止めた。
「……混ざりたい?」
「うん」
しのぶは、軽く笑う。
「嫉妬ってさ、嫌いだから起きるんじゃないよ。好きだからでもない。自分が、そこにいないから」
その言葉が、 胸の奥で、音を立てた。
ルナは、 何も言えなかった。
でも、少しだけ、 霧が晴れた気がした。
今さら「混ざりたい」なんて言っても、拓海先輩は一歩引くだろう。 それは冷たいからじゃない。 むしろ逆だ。
誰かを特別扱いすることで、誰かを傷つけてしまうのを、あの人は一番怖がる。
結月先輩は違う。 誘ってくれた。 見せてくれた。
でも拓海先輩は、きっとこれ以上、心の距離を詰めさせない。 それが分かるから、踏み込めない。
――それでも。
吹奏楽部では、同じ場所にいる。
同じ譜面台。 同じテンポ。 同じ空気。
距離を縮めるために、近づく必要はないのかもしれない。 ルナは、自分の楽器ケースを見つめる。
音楽なら。
触れなくても、言葉がなくても、伝わることがある。 拓海先輩が大切にしているのは、人じゃなくて、音そのものだ。
だったら。
「好きです」でも 「混ざりたい」でもなく。
ただ、音で返せばいい。 同じ曲の中で、同じ一瞬を作れたら。 それで、十分なんじゃないか。 ルナは、静かに息を吸った。
焦らない。
追わない。
必要以上に、迫らない。
その代わり、一音一音、拓海先輩のリズムに、きちんと応える。
それが、今の私にできる、いちばん正直なやり方だ。




