第1部 第11項
モヤモヤしたまま、数日が過ぎた。
軽音同好会のことを、考えない日はなかった。
昼休みの短い練習。拓海先輩と結月先輩の、淡々とした並び方。あの扉の向こうに確かに「正しさ」があって、それを自分は見てしまって、文句が言えなくなってしまった。それ以来、覗きに行くのも、話題にするのも、なんとなく気が引けていた。
そんなとき、スマホが震えた。
しのぶからだった。
《すっごいギタリスト見つけたんだけど! 動画編集の課題でライブ映像漁ってたらさ、完全に沼った!》
しのぶ。映像の専門学校に通っている従姉。バンドやライブの話になると、いつも止まらない。
「ギタリスト?」
《そう!ハルトゲシュタインっていうんだけど! 今度ライブあるし、ルナも高校生になったんだからさ、一緒に行かない?生で見てほしい!》
ハルトゲシュタイン。
名前を聞いたとき、胸のどこかがざわついた。理由はわからない。ただのバンドだ、軽音同好会とは関係ない。そう思おうとして、それでもざわついていた。
「行く」
即答だった。自分でも、びっくりするくらい早かった。
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当日。
夜の街に出るのは、あんまり慣れていない。ネオンが雨上がりの路面に滲んで、知らない人たちが笑いながら歩いている。しのぶの案内についていきながら、私はずっと自分の鼓動が少し早いことに気づいていた。
「ここだよ!」
しのぶが指差した先に、小さなライブハウスがあった。
看板に手書き風のフォントで書かれた名前を見た瞬間、私の足が止まった。
『STAR DROP』
見覚えがある。いや、聞き覚えがある。
拓海先輩と結月先輩が——
「どうしたの? 入ろう!」
しのぶに促されて、扉を開けた。
空気が変わった。
うまく説明できないけど、変わった。音と、熱と、人の匂いが混ざり合ったような、学校とも駅前とも全然違う重さがある。フロアの奥にはステージが見えて、照明がまだ明るいから開演前だとわかる。
そしてカウンター。
視線が、そこに吸い寄せられた。
「……え?」
声が、思ったより小さく出た。
そこにいたのは、結月先輩だった。制服じゃない。でも、一秒でわかった。落ち着いた動きで、ドリンクを手渡して、視線は常にフロア全体を流している。あの、吹奏楽部で副リーダーをやっていた人と、まったく同じ目をしていた。
少し先。
PAブースの横に、拓海先輩が立っていた。
腕を組んで、フロアを静かに見渡している。ステージ側でも、入口側でも、どちらにもすぐ動けるような立ち方で、客の流れをずっと読んでいる。
(なんで)
足がうまく動かない。
「知り合い?」
しのぶが私の顔を見て聞いてくる。
「……学校の先輩」
それだけ、なんとか答えた。
二人は私の方を見ていない。当然だと思う。仕事中の顔をしている。それは学校で見るのとは、全然違う顔だった。もっと——馴染んでいる。この場所に、空気に、役割に。まるでずっと前からここにいるみたいに。
「スタッフさんしっかりしてるね、ここ」
しのぶが感心したように言う。
私は、答えられなかった。
胸の中で、何かがゆっくり崩れていくような感覚があった。
あの昼休み。私が覗いたあの窓の向こうで、二人はドラムとキーボードを音量を絞って、時計を見ながら、基礎練だけをしていた。楽しそうには見えなかった。でも「正しかった」。あの正しさを、私は「文句が言えない」と感じて、悔しかった。
なのに。
あの「正しさ」は、この夜のためにあったんだ。
学校での二人は、これを隠すために存在していた。軽音同好会なんて——私が嫉妬していたあの場所は、この場所の秘密を守るための、ほんの小さな蓋に過ぎなかった。
蓋の下に、こんな夜があった。
こんなに重くて、本物の夜が。
(私は何も分かってなかった)
頭の中に、先輩が私に言った言葉が戻ってくる。
「そろそろ一人でも通えるんじゃないか」
あれは、冷たかったわけじゃない。
私をこの夜の中に、軽々しく引き入れたくなかったんだ。学校でバレたら処分になる。バンドも、バイトも、全部。そのリスクを、私がちゃんと理解できると思えるまで、踏み込ませたくなかった。
それは——配慮だった。
私は、配慮を拒絶だと思っていた。
怒ってもいいと思っていた。傷ついてもいいと思っていた。でも、それは全部、私が知らなかっただけだった。
照明が落ちた。
開演のアナウンスが流れる。
ステージに立つのは、ハルトゲシュタイン。
しのぶが隣で息を呑む。
私は、まだ自分の胸の中を整理できないまま、ただステージを見つめていた。
この夜が、自分の中の何かを決定的に変えることを——まだ、わかっていなかった。




