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残響のプレリュード  作者: erg
第1部

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14/82

第1部 第10項

【結月】


 軽音同好会の設立届が受理された翌日。


 部室前の廊下は、昼休みだというのに妙に静かだった。掲示板には、橘先輩が書いた簡素な紙が一枚。


 ――軽音同好会 部員募集

 ――活動日:吹奏楽部休養日/昼休み

 ――場所:吹奏楽部室


 それだけ。


 立ち止まって読む生徒は、ほとんどいない。噂が先に回りすぎたせいだ。廊下をすれ違う生徒たちの声が、断片的に聞こえてくる。


『校則ギリギリ』 『先生に目を付けられてる』 『どうせすぐ潰れる』


 聞こえないふりをした。


 同好会の人数は――二人。拓海先輩と、私。部の設立要件は五名以上。同好会は二名。規定としては問題ない。でも、少ない。少なすぎる。


「……まぁ、最初はこんなもんだよね」


 苦笑いしながら、肩からキーボードケースを下ろす。軽量タイプを選んでよかった。昼休みに自分で持ち運ぶことを最初から計算に入れていたから。


 拓海先輩は、部室の隅に立っていた。視線の先には、吹奏楽部のドラムセットがある。年季の入ったバスドラム、くすんだシンバル、少し緩み気味のスタンド。


「やっぱり、これ借りるしかないよな」


 静かな声だった。拓海先輩のドラムはライブハウスに置かせてもらっている。音も叩き心地も、当然あっちの方がいい。それはわかっている。でも、ここに持ち込むわけにはいかない。


「学校のを使うって取り決め、正解だったと思います」


 はっきり言った。


「吹奏楽部の楽器を使う以上、『勝手に使ってる』って思われたら終わりですから」


 拓海先輩は、短く息を吐く。


「だから、棲み分け、だよな」


 二人で部室の中央に立つ。ここは吹奏楽部の部室だ。軽音のために割り当てられた場所じゃない。だからこそ、線引きが必要だった。借りているという意識を、一瞬も忘れてはいけない。


「昼休みだけ」


 確認するように言う。


「楽器の配置は動かさない。動かしたら、必ず元に戻す」


「音量も抑える」


 拓海先輩が続ける。


「基礎練中心。曲合わせは、必要最低限」


 二人の間に、短い沈黙が落ちた。


 本当は、もっと音を出したい。合わせたい曲もある。フル編成で鳴らしたい。でも、今じゃない。今はまず、ここに居場所を作ること。それだけだ。


「……部じゃなくて、同好会だからね」


 小さく笑う。


「二人でも、できることをやるしかない」


 拓海先輩はスティックを手に取り、ドラムスローンに座る。軽く、スネアを叩く。控えめな音が部室に広がる。私はキーボードの電源を入れて、音量を絞った。


 昼休みは短い。チャイムが鳴るまで、あと二十分もない。


「じゃあ」


 拓海先輩が言う。


「軽音同好会、最初の練習」


 頷く。


「二人だけの、ね」


 ゆっくりとテンポを刻み始める。派手さはない。誰も聴いていない。それでも、音は確かに重なっていく。


 吹奏楽部の部室で、吹奏楽とは違うリズムが、静かに息づき始める。


 まだ誰にも期待されていない。人数も足りない。場所も借り物。それでも、逃げなかった。この小さな音が、いつか誰かの耳に届くことを、どこかで信じていた。


 --------------------


【ルナ】


 昼休みのチャイムが鳴ったあと、私はクミとサキと一緒に、4階の音楽室の前に立っていた。


「……本当に、ここでやってるの?」


 クミが声をひそめる。それでも地声が大きい。


「静かにってば」


 サキが腕を引く。


 三人は、楽器庫から音楽室へ入る扉の前で立ち止まった。扉は閉まっている。中から音は――ほとんど聞こえない。


「軽音って、もっとドカドカしてるイメージだった」


 クミが不満そうに言う。


「昼休みだもん。抑えてるんでしょ」


 サキの声は、妙に冷静だった。


 私は何も言わなかった。ただ、扉の小さなガラス窓に、そっと近づいた。


 中を覗く。


 部室の中央に、拓海先輩がいた。吹奏楽部のドラムセット。姿勢は低く、スティックの動きは最小限だ。


 ――静か。


 それが、最初に思ったことだった。


 結月先輩は、キーボードの前にいる。音量を限界まで絞り、拓海先輩のリズムにぴたりと合わせている。二人とも、楽しそうには見えない。ふざけてもいない。ましてや、イチャついてなんかいない。


「……え」


 思わず声が漏れた。


「なに?」


 クミが身を乗り出す。


「普通……」


 サキがぽつりと言った。


「普通に、練習してる」


 曲じゃない。基礎練だ。テンポの確認。コードの押さえ直し。目配せだけで進む、短いフレーズ。


「もっと、なんか……」


 クミが言葉を探す。


「キャッキャしてると思ってた?」


 サキが少しだけ意地悪に言う。


 胸の奥が、じわっと重くなる。


 ――ちゃんとしてる。


 それが、何よりきつかった。


「……吹奏楽の部室、使ってるのに」


 小さく言ってみた。なんとか文句のひとつでも見つけたくて。


「楽器、動かしてないし」


 サキがすぐに返す。


「終わったら、戻す気だよ。あれ」


 その時、拓海先輩がスティックを止めた。時計を見る。残り時間を、正確に把握している動きだった。


 口が動く。音は聞こえないけど、わかる。


「あと二分」


 結月先輩が頷き、最後のフレーズを合わせる。そして――チャイム。


 二人は、同時に音を止めた。


 拓海先輩は、黙ってドラムを軽く整える。結月先輩は、すぐにキーボードを畳む。手際が、あまりにもいい。まるで最初からそう決めていたみたいに。


「……終わり?」


 クミが拍子抜けしたように言う。


「昼休みだから」


 サキが答える。


 私は、ガラス窓から目を離せなかった。


 拓海先輩と結月先輩が、並んで立っている。距離は近くない。触れてもいない。でも――無駄がない。必要なことだけを共有している。その二人の間にある空気が、どこまでも静かで、整っていた。


 ――特別。


 恋じゃない。でも、同じ制限を受け入れて、同じルールを守って、同じ時間を刻んでいる。それを特別と呼ばずに、何と呼ぶのか。


「……見なきゃよかった」


 ぽつりと言っていた。


「え、なんで?」


 クミが慌てる。


「だってさ」


 扉から背を向ける。


「文句、言えないじゃん」


 何も言い返せない。吹奏楽の部室を借りているのに、楽器の配置はそのままで、時間も守って、音量だって抑えている。何ひとつ、責められる場所がない。


 それが、一番きつかった。


 三人は、足音を殺して廊下を戻る。昼休みのざわめきが、校舎に戻ってきた。


 私の胸に残ったのは、嫉妬でも怒りでもなかった。


 納得してしまった自分への、悔しさだった。

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