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残響のプレリュード  作者: erg
第1部

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10/82

第1部 第8項

 翌日の昼休み。生徒会室のドアをノックしたのは、拓海先輩だった。私はその隣に立っていた。


 橘先輩は顔を上げるなり、察したように言った。


「決めたな」


 私は小さく頷く。


「隠すだけじゃ、限界があると思って」


 拓海先輩がそう続けた。


「校外のバンド活動は、今まで通り伏せる。でも――」


 一呼吸。


「校内で、正式にバンド活動をしたい」


 橘先輩は椅子に深く腰掛け、指を組んだ。どこか楽しんでいるような、でも真剣な顔だ。


「吹奏楽部とは別に?」


「はい。軽音同好会として、あくまで"校内活動"です」


 私が答えた。口に出した瞬間、あらためて自分の中に覚悟が根を張る感じがした。


 生徒会室の空気が、少し張り詰める。


「掛け持ちは?」


「覚悟してる」


 拓海先輩は即答した。迷いが、まったくない。


「吹奏楽部も、手を抜くつもりはない」


 橘先輩は、しばらく二人を見つめていた。逃げ道を探す目じゃない。腹を決めた人間を確認する目だった。


「……なるほど」


 机を指で軽く叩く。


「印象操作としては、悪くない」


 思わず身を乗り出してしまった。


「ほんとに?」


「"校外で怪しいことをしている"より、"校内でちゃんと管理された活動をしている"ほうが、学校は安心する」


 橘先輩は口角を上げた。


「大人は、そういう生き物だ。……ただし、」


 人差し指を立てる。


「条件がある」


 --------------------


 数日後。職員会議の議題に、ひっそりと載った一行。


『軽音同好会 設立申請』


 私はその場にいない。でも、橘先輩から後で聞いた。


 顧問候補は音楽科の非常勤講師の山本先生。活動場所は旧視聴覚室。活動時間は週二回・放課後のみ。


「吹奏楽部との両立が前提です」


 橘先輩が淡々と説明したらしい。


「生徒の音楽的興味の多様化に対応するための同好会です」


 生徒指導の渡辺先生は眉をひそめた。


「問題を起こさないだろうな」


「校内活動に限定します。"校内に留める"からこそ、学校側も把握できます」


 沈黙のあと、吹奏楽部顧問の山田先生がそう言った。


「……試験的に、だな。一年限定。問題があれば即停止」


 橘先輩は、深く頷いた。


「それで構いません」


 --------------------


 放課後。掲示板に貼られた、まだインクの新しい紙。


 《軽音同好会 新規設立 部員募集》


 それを見上げながら、胸の奥がじんわり熱くなるのを感じた。


「……本当に、貼られたね」


「公になったな」


 拓海先輩はそう言ったが、声はいつもより少しだけ軽い。この人がこういう声を出すのは、珍しい。私はそれが、なんだかうれしかった。


「ルナ、どう思うかな」


 ぽつりと言うと、拓海先輩は少し考えてから答えた。


「誤解は、すぐには解けないかもしれない」


 でも、と前を向く。


「隠れてるよりは、いい」


 吹奏楽部と軽音同好会。二つのリズム、二つの居場所。


 忙しくなる。誤解も残る。校外のバンドは、まだ秘密のまま。それでも。


「バンドをやってるって、胸張って言えるな」


 私は笑った。


「うん。ちゃんと、ここに"居場所"ができた」


 廊下の先で、クミたち一年生が掲示を見て騒いでいる。


 --------------------


 放課後の小会議室。古い長机を囲んで、拓海先輩と私、吹奏楽の山田先生、軽音の山本先生、生徒会長の橘先輩が向かい合っていた。


 背筋を伸ばしたまま、前を向く。ここで崩れたら、それまでのことが全部嘘になる。


「つまり――」


 山田先生が腕を組み、低い声で確認する。


「吹奏楽部と軽音同好会を、明確に棲み分けるということだな」


 橘先輩が一歩前に出た。生徒会長としてではなく、拓海先輩の友人としての顔だった。


「はい。曖昧に続けるのが一番まずいですから」


 私は続ける。


「私と拓海先輩は、吹奏楽部では役職を辞退します。セクションの副リーダーとリーダーは降ります」


 言い切ったとき、山田先生の眉がわずかに動くのが見えた。それがわかっていても、言わなければならなかった。


「……覚悟はあるのか?」


「あります。吹奏楽部員として、必要なことは全部やります」


 拓海先輩の声に、迷いはなかった。その声を聞いて、私の背中がもう一度、まっすぐになる。


「その代わり、軽音同好会では二人が責任を持ちます。会長と副会長。活動計画、場所の管理、顧問への報告、全部です」


 橘先輩が資料を差し出す。山本先生はゆっくりと読み進めた。


「活動時間は?」


「吹奏楽部を優先します」


 即答していた。自分の中ではずっと決まっていたことだ。


「コンクール、定期演奏会、強化練習期間。そういった期間は、軽音の活動は入れません」


 拓海先輩が補足する。


「軽音の活動は、吹奏楽部の休養日と、昼休みのみです」


「昼休み……」


 山本先生は少し呆れたように息を吐いたが、すぐに真剣な表情に戻った。


「短い時間だぞ」


「承知しています」


 視線を逸らさなかった。


「それでも、"学校の中でやっている活動"だと、はっきり示したいんです」


 沈黙。時計の秒針の音が、やけに大きく聞こえる。この部屋のどこかで、私の心臓の音まで聞こえてしまいそうだった。


 やがて山田先生は、深く息を吸って言った。


「……いいだろう」


 肩の力が、ほんのわずかに抜けた。


「ただし条件がある」


 全員が姿勢を正す。


「吹奏楽部の練習を疎かにしないこと。軽音同好会で問題が起きた場合、責任は二人が取ること。そして――」


 山田先生は、拓海先輩を見た。


「"中途半端"は許さない」


「はい」


 拓海先輩の一言は、短く、重かった。その短さが、かえって信頼感を持っていた。


 ---


 会議が終わり、廊下に出る。夕方の光が、床に長い影を落としている。


「……本当に、降りちゃったね」


 声に出して、初めて実感した。副リーダーという肩書きは、もうない。でも、不思議と後悔はなかった。


 拓海先輩は歩きながら、少しだけ考えてから答えた。


「立場を守るために、やりたいことを隠すよりは……こっちの方が、俺たちらしい」


「俺たち」という言葉が、胸の奥に静かに落ちた。


「軽音の会長と副会長かぁ」


「大変だぞ」


 拓海先輩は珍しく冗談めいた声で言う。


「掛け持ちだし、時間もないし」


「でも」


 私は足を止めて、拓海先輩を見た。


「逃げてない、って言える」


 拓海先輩は一瞬だけ視線を逸らし、そして静かに頷いた。


 二人は再び歩き出す。並んだ背中は、以前と同じ距離。けれど、背負っているものは、確実に増えていた。


 その選択が、誰かを納得させ、誰かを置き去りにし、そして――ルナの胸に、小さく棘を残したことを、このときの私はまだ知らない。

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