第1部 第8項
翌日の昼休み。生徒会室のドアをノックしたのは、拓海先輩だった。私はその隣に立っていた。
橘先輩は顔を上げるなり、察したように言った。
「決めたな」
私は小さく頷く。
「隠すだけじゃ、限界があると思って」
拓海先輩がそう続けた。
「校外のバンド活動は、今まで通り伏せる。でも――」
一呼吸。
「校内で、正式にバンド活動をしたい」
橘先輩は椅子に深く腰掛け、指を組んだ。どこか楽しんでいるような、でも真剣な顔だ。
「吹奏楽部とは別に?」
「はい。軽音同好会として、あくまで"校内活動"です」
私が答えた。口に出した瞬間、あらためて自分の中に覚悟が根を張る感じがした。
生徒会室の空気が、少し張り詰める。
「掛け持ちは?」
「覚悟してる」
拓海先輩は即答した。迷いが、まったくない。
「吹奏楽部も、手を抜くつもりはない」
橘先輩は、しばらく二人を見つめていた。逃げ道を探す目じゃない。腹を決めた人間を確認する目だった。
「……なるほど」
机を指で軽く叩く。
「印象操作としては、悪くない」
思わず身を乗り出してしまった。
「ほんとに?」
「"校外で怪しいことをしている"より、"校内でちゃんと管理された活動をしている"ほうが、学校は安心する」
橘先輩は口角を上げた。
「大人は、そういう生き物だ。……ただし、」
人差し指を立てる。
「条件がある」
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数日後。職員会議の議題に、ひっそりと載った一行。
『軽音同好会 設立申請』
私はその場にいない。でも、橘先輩から後で聞いた。
顧問候補は音楽科の非常勤講師の山本先生。活動場所は旧視聴覚室。活動時間は週二回・放課後のみ。
「吹奏楽部との両立が前提です」
橘先輩が淡々と説明したらしい。
「生徒の音楽的興味の多様化に対応するための同好会です」
生徒指導の渡辺先生は眉をひそめた。
「問題を起こさないだろうな」
「校内活動に限定します。"校内に留める"からこそ、学校側も把握できます」
沈黙のあと、吹奏楽部顧問の山田先生がそう言った。
「……試験的に、だな。一年限定。問題があれば即停止」
橘先輩は、深く頷いた。
「それで構いません」
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放課後。掲示板に貼られた、まだインクの新しい紙。
《軽音同好会 新規設立 部員募集》
それを見上げながら、胸の奥がじんわり熱くなるのを感じた。
「……本当に、貼られたね」
「公になったな」
拓海先輩はそう言ったが、声はいつもより少しだけ軽い。この人がこういう声を出すのは、珍しい。私はそれが、なんだかうれしかった。
「ルナ、どう思うかな」
ぽつりと言うと、拓海先輩は少し考えてから答えた。
「誤解は、すぐには解けないかもしれない」
でも、と前を向く。
「隠れてるよりは、いい」
吹奏楽部と軽音同好会。二つのリズム、二つの居場所。
忙しくなる。誤解も残る。校外のバンドは、まだ秘密のまま。それでも。
「バンドをやってるって、胸張って言えるな」
私は笑った。
「うん。ちゃんと、ここに"居場所"ができた」
廊下の先で、クミたち一年生が掲示を見て騒いでいる。
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放課後の小会議室。古い長机を囲んで、拓海先輩と私、吹奏楽の山田先生、軽音の山本先生、生徒会長の橘先輩が向かい合っていた。
背筋を伸ばしたまま、前を向く。ここで崩れたら、それまでのことが全部嘘になる。
「つまり――」
山田先生が腕を組み、低い声で確認する。
「吹奏楽部と軽音同好会を、明確に棲み分けるということだな」
橘先輩が一歩前に出た。生徒会長としてではなく、拓海先輩の友人としての顔だった。
「はい。曖昧に続けるのが一番まずいですから」
私は続ける。
「私と拓海先輩は、吹奏楽部では役職を辞退します。セクションの副リーダーとリーダーは降ります」
言い切ったとき、山田先生の眉がわずかに動くのが見えた。それがわかっていても、言わなければならなかった。
「……覚悟はあるのか?」
「あります。吹奏楽部員として、必要なことは全部やります」
拓海先輩の声に、迷いはなかった。その声を聞いて、私の背中がもう一度、まっすぐになる。
「その代わり、軽音同好会では二人が責任を持ちます。会長と副会長。活動計画、場所の管理、顧問への報告、全部です」
橘先輩が資料を差し出す。山本先生はゆっくりと読み進めた。
「活動時間は?」
「吹奏楽部を優先します」
即答していた。自分の中ではずっと決まっていたことだ。
「コンクール、定期演奏会、強化練習期間。そういった期間は、軽音の活動は入れません」
拓海先輩が補足する。
「軽音の活動は、吹奏楽部の休養日と、昼休みのみです」
「昼休み……」
山本先生は少し呆れたように息を吐いたが、すぐに真剣な表情に戻った。
「短い時間だぞ」
「承知しています」
視線を逸らさなかった。
「それでも、"学校の中でやっている活動"だと、はっきり示したいんです」
沈黙。時計の秒針の音が、やけに大きく聞こえる。この部屋のどこかで、私の心臓の音まで聞こえてしまいそうだった。
やがて山田先生は、深く息を吸って言った。
「……いいだろう」
肩の力が、ほんのわずかに抜けた。
「ただし条件がある」
全員が姿勢を正す。
「吹奏楽部の練習を疎かにしないこと。軽音同好会で問題が起きた場合、責任は二人が取ること。そして――」
山田先生は、拓海先輩を見た。
「"中途半端"は許さない」
「はい」
拓海先輩の一言は、短く、重かった。その短さが、かえって信頼感を持っていた。
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会議が終わり、廊下に出る。夕方の光が、床に長い影を落としている。
「……本当に、降りちゃったね」
声に出して、初めて実感した。副リーダーという肩書きは、もうない。でも、不思議と後悔はなかった。
拓海先輩は歩きながら、少しだけ考えてから答えた。
「立場を守るために、やりたいことを隠すよりは……こっちの方が、俺たちらしい」
「俺たち」という言葉が、胸の奥に静かに落ちた。
「軽音の会長と副会長かぁ」
「大変だぞ」
拓海先輩は珍しく冗談めいた声で言う。
「掛け持ちだし、時間もないし」
「でも」
私は足を止めて、拓海先輩を見た。
「逃げてない、って言える」
拓海先輩は一瞬だけ視線を逸らし、そして静かに頷いた。
二人は再び歩き出す。並んだ背中は、以前と同じ距離。けれど、背負っているものは、確実に増えていた。
その選択が、誰かを納得させ、誰かを置き去りにし、そして――ルナの胸に、小さく棘を残したことを、このときの私はまだ知らない。




