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第60話 『救世主の誕生』前編

 幼子が廊下を歩く。


 まだ少年と呼ぶには幼いその子の瞳に、かつてあった希望や輝きの色は、もうない。

 導く者もなく、ただ一人。


 もう、逃亡や反抗の危険もないと付き添いもつかなくなった移動にも慣れてしまった。


 明るく清潔で、少しの汚れもない建物。

 けれど、何の飾り気もないその白い空間は、ひどく息苦しかった。


 いつから、この建物はこんなに広くなってしまったのだろう。

 前は、そうではなかったのに。

 廊下を歩けば、誰かが声をかけてくれた。

 手をつないで一緒に行こうと言ってくれた。

 時にはふざけて追いかけっこをして、職員に叱られたことだってあった。


 一人減り、二人いなくなり。

 そして今は、もう自分一人だ。


 考えても意味のないことだと分かっている。

 だから幼子は小さく頭を振って、浮かんできた疑問を振り払った。


 自分には、現状を変えることなど許されていないのだから。

 そのための力も、自由も持ってはいないのだから。


 廊下の奥にある扉を開き、中へと入る。


「失礼します」

「来たか、サンク。体調はどうだ?」

「今のところ、大きな問題はありません。ディアドラ先生」


 銀髪に紅の瞳、白いドレス。

 今、子に話しかけることを許された、この館で唯一の人間。

 その女性の問いかけに、サンクと呼ばれた子は静かに答えた。


「ならばいい。今回からはいよいよ、四つ目のマナが入る。

 これが終われば、お前はまた一歩、目標に近づく。

 苦しいだろうが、耐えろよ」

「分かりました」

「では、寝台の上に」

「はい」


 自ら寝台の上に横たわると、無言で近づいてきた男女が上衣を脱がせ、ベルトで手足を拘束した。

 いつものことだ。

 それでも、これから自分に襲いかかる苦痛を思えば、身体の震えを抑えることはできなかった。

 けれど、逃げ出すことなどできない。


 幼子は、ぎゅっと目を閉じた。

 次の瞬間、胸の真ん中が切り裂かれ、何かが身体の奥へと押し込まれる。

 同時に、絶望の時間が始まった。


「がああっ!」


 体内に注ぎ込まれた力が全身を駆け巡り、内側から暴れ回る。

 痛みが、苦痛が、灼熱が。

 それらが、少年の世界の全てとなった。


 大事なものが、大切なものが、苦痛というナイフに削られていく。

 自分という存在を形作っていた何かが、一つ、また一つと失われていくのが分かる。

 それに、まだあらゆる点で未成熟な子に抗う術などなかった。


「サンク!」


 呼ばれたその番号は、自分の本当の『名前』ではない。

 生まれた時、父と母から与えられたはずの名前。

 それはもう、幾度となく繰り返された痛みにかき消され、消えてしまった。

 それどころか、両親の顔も、故郷の村の名前さえも思い出せない。


 けれど。


(「サンク!!!」)

「あうっ! あああっ!!」


 呼び声が聞こえた。マイクの向こうから聞こえる機械音ではない。

 胸の奥から湧き出す、懐かしい声。優しい思い。


 それが、遠い何かを思い出させる。

 彼はそれに縋りついた。


 自分を削り落とされ、そぎ落とされ。

 それでも今、残っているのは、魂の奥底に刻まれた、たった一つの約束。


『俺たち、みんなでこの星を守ろう!』


 ただ、それだけだった。




 長く戦乱の続く国の辺境に、その子は生まれた。

 ごく当たり前の父と母のもとに、農民の子として。


 空からやって来るインベイダーの脅威によって星が閉ざされたのは、彼が生まれる前のこと。

 前触れもなく襲いかかる容赦のない攻撃に、彼の暮らす村の周囲でも、いくつもの集落が飲み込まれ、犠牲となっていた。

 無力な農民にできることは少ない。

 能力者である騎士達の救いを待つしかないのが現実だった。


 この世界では星に愛され星の力『マナ』を操る力を持つ『能力者』こそが特権階級。

『力』を持たない者には何かを変える権利はない。


 だからこそ、その知らせに村人達は歓喜した。


「この村の子が能力者だって?」

「救世主となる可能性を持って生まれたのだそうだ」


 確かに、その子は不思議な力を生まれ持っていた。

 周囲の存在の心が、思いが分かるのだという。

 優しい新緑の瞳は見えないものを見つめ。

 人や動物の心を理解するだけにとどまらず、風や大地、木々の思いさえ理解することができた。


「ここは元気だよ。たくさん種をまいても大丈夫」

「こっちは疲れているって。少し休ませてあげて」

「この下で誰かが呼んでる。待っているよ。出してくれたら、おいしい水をあげるって」


 村の畑で実るトウモロコシのような、明るい金髪を揺らしながら、幼子は無邪気に言葉を紡いだ。

 無垢な子どもの指摘はいつも正確で、村人達の暮らしを少しずつ豊かにしていった。

 子どもが四歳、もうすぐ五歳になろうという頃には、その力は領主の耳にも入り、王の使いによって確かめられることとなる。


 使者は子を調べ、告げた。

 彼は『能力者』であり、その才能は『星の救世主』に近づく可能性を秘めている、と。

 純朴な農村の者達は歓喜した。


 精いっぱいの宴を開き、励ましの言葉を贈って、子どもを送り出す。

 たとえ、自分達の生活が再び貧しいものに戻ろうとも。

 子の未来が、光り輝くものであることを信じて。


 それが、子を地獄の苦しみへと追いやることになるなど、夢にも思わずに。


 子が連れて行かれたのは、王宮でも騎士団でもなく、不思議な施設だった。

 そこには他にも数人の子ども達がいて、共同生活を送っていた。

 最年少だった子は、そこで『サンク』という名を与えられ、仲間入りを果たす。


 先にいた子ども達は皆、気持ちのいい者達ばかりだった。

 新しくやって来た幼い子を、仲間として、いや、まるで弟のように迎え入れ、何かと面倒を見てくれた。


「俺はさ、京極財団の総帥の遠縁なんだ」


 共同生活の中で一番の兄貴分だった少年は、ある日、そう語った。

 農村で生まれ育った子には、知らないこと、意味の分からないことばかりだった


 世界は五つの勢力に分かれていて、それぞれが覇権を争っているのだという。

 彼はそのうちの一つ、ネクサスの総帥の一族の一人。

 成長したら戦闘部門を任せると、長に言われたのだと嬉しそうに話してくれた。


「『ここで『救世の戦士』として学び、力をつけなさい』『貴方には期待していますよ』ってさ。

 そんなこと言われたら、頑張るしかねえじゃん」


 アインという名を与えられた少年の告白をきっかけに、他の子ども達も徐々に心を開き、自分達のことを話し始めた。

 神職の家の次男。

 魔術師の家系の養子。

 鬼の末裔。

 どの子も、それぞれの勢力の有力な家に連なる者であり、将来を期待されてこの施設にやって来たのだという。


「国に戻ったら、いつかは戦う羽目になるかもしれないけどさ。

 インベイダーを倒す。その使命があるうちは大丈夫だよな」

「むしろさ、俺たちが五勢力を結べばいいんだよ。そうすれば戦争なんてしなくてもいいし」


 彼らは日々の学習や、それぞれに与えられた個別プログラムをこなしながら、少しずつ親交を深めていった。


「俺はさ、スピードと電撃が得意だから、切り込み隊長をやるぜ」

「切り込み隊長は俺の方がよくないか? 体力と攻撃力には自信があるぞ」

「守りの術なら僕に任せて」

「仕方ないから、バフとサポートに回ってやるよ」

「僕は、何かできるかな?」


 目を輝かせて自分達の役割を語る兄分達を前に、幼い子はためらいがちに尋ねた。

 そんな彼に、一瞬、顔を見合わせた兄達は口々に告げる。


「サンクは連絡役!」

「君が僕たちのやりたいことを読み取って、伝えてくれれば通信機いらずですよね」

「俺達をつなぐ大事な役目だからな」


 そう言って、アインは子の頭をくしゃくしゃと撫でた。

 自分にも、皆の役に立てることがある。

 それが嬉しくて、子は、サンクは満面の笑みを浮かべた。


「うん! 僕は必ず、皆の思いを伝えて、守るよ!」

「ああ。俺達みんなで、インベイダーから『星』とみんなの幸せを守る救世主になるんだ」

「俺たち、みんなでこの星を守ろう!」



 無垢な約束を交わす子ども達は、まだ何も知らなかった。

 後に『ファーストロット』と呼ばれる彼らの行動も、言葉も、その全てが監視されていたことを。

 そして、恐ろしくおぞましい計画が既に始まっていたことを。




 アインが姿を見せなくなったのは、共同生活が始まって数週間後のことだった。

 最初は、


「ちょっと体調を崩して、治療を受けている。心配するな」


 という説明だった。

 けれど、数日経っても彼が戻ってくることはなく、やがてトライと呼ばれていたファンタズマの鬼子まで姿を見せなくなった。


「二人は訓練と投薬に耐えられず、体調を崩して故郷に戻った。

 お前たちによろしくと伝えてくれ、とのことだ」


 世話役はそう残った子達に説明した。


 けれど、年長の二人は納得しなかった。


「そんなはずはない! 体調を崩して戻るにしても、絶対にあいつらは黙って去ったりしない!」

「そうです! 僕たちに謝罪し、後を頼むと言ってくれるはずです! ちゃんと話してください!」


 二人は必死に食い下がった。

 しかし、職員達の返事は変わらなかった。

 それどころか、子ども達への監視は一層厳しくなり、互いに接触することさえ禁じられるようになった。


 子は、まだ発展途上の能力を使って消えた兄弟達に呼びかけた。

 けれど、意図して無視されたのか、それとも何らかの方法で妨害されているのか。

 いくら呼びかけても、返事が返ってくることはなかった。


 そんなある日のこと。

 深夜。

 子は、ただならぬ気配を感じて目を覚ました。


 それは悲鳴だった。

 助けを求める、必死の呼び声。

 脳を切り裂くように鋭く、全身全霊を込めた救難信号。


 それを放っておくことなど、できなかった。


 子は寝台から抜け出し、素足のまま真っ暗な廊下へと飛び出した。

 自分を見つめる眼差しがあることにも、気づかないまま。


 進むごとに、助けを求める気配は強くなっていく。

 けれど、それは最初に感じた『声』とは別人のものに思えた。


 おそらく、これはカトルの気配。

 最初の声は、きっとデュオのものだったのだろう。


 もう、どれほど耳を澄ませても、最初の声は聞こえてこなかったけれど。


 廊下を進むうち、扉の隙間から漏れる細い光が見えた。

 そっと中を窺うと、聞き慣れない言葉が耳に飛び込んできた。


「ファーストロット、デュオの肉体崩壊を確認。

 マナ結晶は抽出成功しました」

「カトルも……もう駄目ですね。天華の子だけあって、防御術でなんとか侵食を食い止めているようですが、崩壊の速度の方が早い」


(『サン……ク。ごめん。後を……』)


「カトル!」


 思わず飛び込んだ子どもは、そこで見てしまった。

 目が離せなかった。

 凍り付いたように体が動かなかった。


 蒼く輝く結晶を手にした男と、どろどろとした何かに覆われた二つの寝台。

 そして。


(『サンク……』)


 自分に声なき声で、呼びかける、紅の結晶を前にしては。

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