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外伝 第26話 広場の背中

 渋谷駅の地下、元・駅長室で、僕は莉奈にレモン味のタブレット菓子を放り投げた。


 リュックに入れていた小さなケースだ。


 座り込んだ莉奈の足がまだ震えていたから、何か渡したかった。糖分が必要だと、頭の中で理由をつけた。


 莉奈がケースを受け取った瞬間、その表情がほんの一瞬だけ止まった。


 けれどすぐに二、三粒を口へ放り込み、「普通。でも、貰っといてあげる」と言って、ケースをポケットにねじ込んだ。


 あの時の僕には、何が彼女の胸に触れたのか分からなかった。


* * *


 渋谷の迷宮で縦穴に落ちた後、僕は休憩のためにスマホのライトを消した。


 配管が剥き出しのメンテナンス用の区画。莉奈と二人きり。暗闇に水滴の音と、二人の呼吸が残った。


 莉奈の呼吸は──荒かった。恐怖で速くなっている。

 だが声には出さない。

 暗闇が怖いと言わない。

 莉奈はいつもそうだ。


 怖い時ほど黙る。怖い時ほど強がる。


 僕は──莉奈の呼吸を聴きながら、食卓で父が椅子を引く音を思い出していた。


 中学一年の冬。三人で夕飯を食べていた。


 学校であったことを話そうと、僕は箸を置いた。父が椅子を引いたのは、その時だった。皿を流しへ運び、廊下へ出ていく。テレビでは、知らない誰かが笑っていた。


 猫背で、肩を内側に巻き込んだ背中が、廊下へ消えた。足音が止まり、父の部屋のドアが閉まった。


 母は皿を重ねていた。僕は置いた箸を手に取り、残っていたご飯を口へ運んだ。何を話すつもりだったか、食べ終わる頃には思い出せなくなっていた。


 父は、次の朝も同じ席でパンを食べていた。


 母が「トースト、もう一枚いる?」と訊いた。

 僕は「うん」と答えた。

 父が新聞をめくった。昨夜の話は、僕の口から何も出なかった。


 その晩も、三人で食卓を囲んだ。父が箸を置く前に、僕はテレビの方を向いていた。


 少し離れて座る莉奈の衣擦れが聞こえた。


 僕は【解析】に一瞬出た「推定寄与率:14%」を閉じた。


「なあ、莉奈」


 僕は、先頭を歩くのが怖くて、ずっと彼女の後ろについてきたことを話した。安全な場所から指示しているだけだと言いかけた時、肩を叩かれた。


「黙りなさい」


 莉奈の声がすぐ隣でした。


「アンタがいなかったら、アタシは交差点で死んでた。虫にも食われてた。地雷原も渡れなかった。それは事実でしょ」


 僕は膝から手を離した。


 役に立ったと言われても、前を歩く怖さは消えなかった。


「アンタ、まだ歩ける?」


「歩ける」


「なら、さっさと立ちなさいよ。じめじめした場所はもう限界なの」


 莉奈が先に立った。


 僕も立ち、二歩後ろから彼女の足音を追った。


* * *


 新宿でも、莉奈の傷んだ右足を見ながら黙ったことがある。


 最短の道を選んだ彼女が、床に擬態したエムプーサに足を取られた後だった。


 だから言っただろ、と頭の中では思っていた。


 怖かったと言うより先に、僕に頼ってくれていれば、と考えた。


 そこへ言葉を重ねたら、僕が正しかったと認めさせることになる。それでも一度くらい、分かったと言ってほしかった。


 家でも父と母は互いを責めなかった。


 何か言いかけても、どちらかがテレビへ目を戻すと、もう片方も黙った。僕はその間で、ご飯を食べていた。


 莉奈が前で小さく何か言った。


 聞き取れないまま、僕は半歩だけ彼女へ近づいた。


* * *


 新宿の最深部で、莉奈がミノタウロスの額に触れた。


 五本の鎖に繋がれたまま、彼は座っていた。


 莉奈は手を伸ばした。


 その瞬間の莉奈の横顔を、僕は見ていた。


 手を離した後、莉奈はしばらく額を見上げていた。


 僕は父の連絡先を思い浮かべた。


 父が黙る理由を訊いたことはない。話が始まりそうになると、僕の方からテレビへ目を向けた夜もあった。


 少し休めた時、連絡先を開いた。


 親指を入力欄へ置き、何も打たずに画面を伏せた。


* * *


 九人がドームの外に出た時、広場には群衆がいた。

 報道陣、

 野次馬、

 救急隊員。

 そして、家族。


 金子のスマホが鳴った。母親からの電話。

 金子が「おかん!」と電話に出た。

 すぐに泣き声になり、「大丈夫」「ちょっとだけ」と繰り返している。

 大阪が隣で静かに見守っている。


 莉奈は、スマホを握りしめていた。

 通知が滝のように流れ込んでくる。でもその中に、父からの連絡はない。

 母からは『莉奈、大丈夫? 新宿にいるの? 返事して』

 莉奈は『大丈夫。今から帰る』『晩ごはん、あったら食べたい』と返していた。


 僕はスマホを見た。


 母から『分かった』のメッセージ。


 僕が送った『無事です』への、いつもの短い返事だった。


 そして、広場の人混みの中に、見覚えのある背中を見つけた。


 グレーのジャケット。猫背で、肩を内側へ巻き込んでいる。


 父だった。


 人の肩の間から、その顔を見ようとした。声を出せば届く距離なのか、僕には分からなかった。


「父さん」と呼ぼうとして、息を吸った。


 前を横切った人を避けた時、父はもう背中を向けていた。


 歩いていく。


 僕は紙袋も持っていないのに、


 両手を握り込んだまま立っていた。


 グレーの背中が人混みに紛れた。


 次に同じ色の上着が見えたけど、


 別の人だった。


 父がこちらに気づいたのかさえ、


 僕には分からなかった。


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