外伝 第25話 二歩後ろ
僕の隣に雷が落ちた日
家に帰れば、「おかえり」はない。
小学校の高学年くらいからそうだった。
母は台所にいても振り返らない。
父はリビングのソファからテレビを見ている。
僕が玄関で「ただいま」と言えば、二人とも微かに頷く。聞こえている。だが言葉は返ってこない。
テレビの音だけが、食卓を埋めている。
ニュースの音。
バラエティの笑い声。
テレビの中の人間だけが、この家では会話をしている。
今日は帰りに本屋に寄った。
ラノベの新刊を二冊、参考書と一緒に紙袋へ入れてもらった。
異世界転生もの。現実から別の世界に飛ばされて、そこで力を得て、仲間を見つける話。僕はそういう物語が好きだ。現実では手に入らないものが、全部揃っている世界。
渋谷のセンター街を歩いていた。
放課後の渋谷は騒がしい。
人の声、
音楽、
車のクラクション。
僕の家とは正反対の──音で溢れた空間。
人混みの中で、ふと足が止まった。
人波の向こうに、見覚えのある金髪を見つけた。
神崎莉奈。
小学校からの幼馴染。金髪のショートヘア、ルーズソックス、スカル柄のネイル。不機嫌そうな顔を一年中している女子高生。
クラスでは「怖い」と敬遠されている。僕には、誰かを遠ざけようとしているように見えた。
その理由を莉奈に訊いたことはない。
家で父と母に話しかけられない僕が、莉奈には簡単に訊けるはずもなかった。
渋谷ですれ違えば、いつもは軽く手を上げて終わる。小学校から十年、そうしてきた。今日も紙袋を持ち直して、空いている方の手を上げようとした。
地面が揺れた。
本屋の紙袋が手から滑りかけた。慌てて抱え直すと、二冊目の表紙に赤紫色の光が差していた。
見上げると、空が紫色に染まっていた。
パニックになった。
当然だ。地面は隆起し、空はドームに覆われ、得体の知れない水晶がビルの高さまでそびえている。周囲の人間が悲鳴を上げて走り出す。
僕は──紙袋を抱えたまま路地裏に駆け込んだ。
そこで腰が抜けて、へたり込んだ。
本が紙袋からこぼれ、足元に散らばっている。こんな時に本の心配をしている自分が滑稽だった。
──怖い。怖い怖い怖い。
家に帰りたい。
「おかえり」のない家でいい。
テレビの音だけの食卓でいい。
あの沈黙の中に帰りたい。
路地の入り口に、金髪が見えた。
莉奈だった。
不機嫌そうな顔で路地の入口に立っていた。スカル柄のネイルを施した指が、白くなるほど握り込まれている。
莉奈も怖いのかもしれない。
僕と同じくらい、あるいはもっと。
なのに──立っている。
僕がへたり込んでいる路地裏で、彼女は立っている。
莉奈の後ろへ、行きたくなった。立ち上がれないまま、そんなことを考えていた。
けれど、握り込まれた指が目に入る。僕も膝へ手をついた。
この人の隣にいたい。
まだ腰は上がらなかった。
路地へ現れた三匹の猪型モンスターに、莉奈は鉄パイプを振るった。最後の一匹は、すれ違いざまの回し蹴りで光に変わった。
金色の雷が暗い壁を照らす。
ラノベで読んだ場面が目の前で起きているのに、僕は紙袋を抱えたまま、声も出せなかった。
最後の一匹が光へ変わった後も、莉奈は武器を下ろさなかった。
莉奈はこちらへ向くと、鉄パイプを左手へ持ち替え、右手を差し出した。
「ほら、立てる?」
莉奈の差し出した手を、僕は取った。引き上げてもらう瞬間、その指の震えに気づいた。
化け物を一撃で消し飛ばした、その無敵の右手が──可哀想なくらい震えていた。
父が「大丈夫だ」と言いながら、リモコンの同じところを何度も押していたことを思い出した。あの時も、僕はその手を見ていた。
手のひらは冷たかった。
恐怖で血の気が引いている。でも、握力は強かった。離すまいとしている力だった。
「勘違いしないで。アンタがここで死なれたら寝覚め悪いの。それだけ」
「ありがとう、莉奈」
手を離す前に、それだけは言えた。
彼女の指が震えていたことには触れなかった。僕の手も、まだ震えていた。
家で最後に「ありがとう」を言ったのは、いつだっただろう。
父も母も食事が終われば黙って席を立つ。僕も皿を置いて自分の部屋へ戻った。
「僕と、パーティーを組んでくれないかな」
自分で言っておいて、情けない声だと思った。
僕のスキルは【解析】
敵のステータスや弱点を分析する後方支援系の能力。
戦闘力は皆無。
火力はゼロ。
HPも低い。
つまり、足手まとい。
足手まといが、足手まといにならない理由を必死で並べている。
「僕の【解析】で敵の配置を察知できる」
「マップの連動で安全なルートを探せる」
「経験値の共有で効率が上がる」
──存在意義を提示する。
こんな言い方しかできない自分が嫌だった。
「一緒にいたい」と言えばいいのに、「存在意義がある」と説明する。
感情ではなく論理で、自分の居場所を確保しようとする。
父も、家の話になると住宅ローンや生活費の話をした。僕は数字の意味をろくに分からないまま頷いた。聞きたいことは、いつもその後へ残った。
今の僕も、莉奈に役に立つ理由ばかり説明している。言葉を探す間に肩が内側へ丸まった。父と同じ姿勢だった。
莉奈は、ため息を一つ、大きくついた。
「……あーもう。ウザい」
そう言って──承認ボタンを押した。
乱暴に。
不機嫌そうに。
ピロン、と間の抜けた電子音が路地裏に鳴った。パーティーが成立した。
承認された画面を、もう一度見た。
「ありがとう、莉奈」
莉奈は返事の代わりに、さっさと路地の出口へ向かった。
僕はしゃがんで、こぼれた本を紙袋へ戻した。
さっき並べた能力の説明は、
もう続けなくてよかった。
僕は──莉奈の隣を歩き始めた。
二歩後ろ。
後方支援の距離。




