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外伝 第24話 助けてくれ

 七人が、新宿の最深部へ辿り着いた。


 壁越しに、イカロスが彼らへ顔を向けるのが見えた。

 見つけた時と同じ、十七歳の姿だった。

 七人が鎖へ向かう。


 私はもう一度、壁へ両手をついた。


 私は固定箇所を目で追った。どこが弱いか、どの環を砕くべきか。寸法なら、何も見ずに言えた。


「三番目の環、上側の接合部」


 向こうで、男の声がした。別の一人が少女へ手を添え、ポールが持ち上がった。


 私は壁へ印をつけかけた指を止めた。私が教えるより先に、彼らは場所を見つけていた。


 少年の腕へ触れる冷たさまでは、あの図面に書いていなかった。


 一本目の環が砕けた。

 石を伝い、鎖の落ちる響きが来た。


 私は自分の手首を握った。

 少年へ輪をはめた時も、こんなふうに指を閉じた。

 少年が指を開き、閉じた。


 私が最初に輪を閉じたのは左腕だった。少女たちは右腕から外していた。


 二本目、

 三本目。


 三本目の鎖が落ちる音で、私はようやく握っていた手をほどいた。


 四本目が落ちた。首の鎖だけが残った。


 頬に赤い線のある少女が、首の下へ潜り込んだ。


「大丈夫。こいつは暴れない」


 私は少年の赤い目を見た。

 あの日、私の前で頭を振った少年が、今は少女を見ていた。

 あの時は、嫌がる首から私が手を離さなかった。


 その首の鎖の弱い環へ、今、彼女が届こうとしている。


 私は壁へ肩を押しつけた。壁の向こうへ、手を出せない。


 五本目。

 最後の鎖が床を打った。

 少年が首を上げた。腕を動かし、自分の手を見た。

 私はその手を見つめた。

 格子の下へ伸びてきた、小さな手を思い出した。


 少女が少年の額を軽く叩いた。


「よし。もう大丈夫。──アンタは自由だよ」


 少年の喉が、低く鳴った。


 私は壁から手を離せなかった。角へ触れた時も、少年は私の前で頭を下げていた。


 息子の「ありがとう」が聞こえた。私に向けた声ではなかった。


 私が描いた出口だけでは、あの鎖は外れなかった。

 向こうにいる少年少女たちが、一つずつ砕いた。


 七人はイカロスを連れ、都庁へ来た。


 足音が聞こえた。


 録りためた声でも、壁越しの響きでもない。

 扉の向こうで、傷ついた人々が息をしていた。

 顔を上げると、金髪の少女が立っていた。


 その後ろにも、人がいた。


 私は、試験を突破した者かと尋ねた。何千も考えたはずの言葉が出ず、先に、出題者の口調が出た。


「迷宮を作り、怪物を配置し、人間を巻き込んだ。私の罪だ」


 大阪という少女が、前へ来た。


「罪、って自分で言えるんやね」


 金子が傷ついたこと。

 莉奈たちが何度も死にかけたこと。

 大阪の言葉の間に、金子の右肩を庇う手が見えた。


 都庁へ来る道の関門も、私が造った。そこに置いたコピーの拳が、傷めていた右肩をまた掠めた。


「息子を助けたかったんは分かる。でもな。自分の子供のために、他人の子供を危険に晒したんや。それは──謝って済む話ちゃうで」


 私は緊急退避の仕組みのことを言いかけ、唇を閉じた。死なせないための機構は造った。だが、金子の肩は、今も痛んでいる。壁越しに見ていたことだった。


 私は顔を上げ、彼女の目を見た。

 謝れば、次の話へ進めると思ってはいけなかった。

 私は床へ額がつくほど頭を下げた。


「その通りだ。許しを求める資格は、私にはない」


 返事を待つ間、床の冷たさが額に残っていた。


 足音が、一つ退いた。


「……許すとは言うてへん。でも、息子に会わせるのは──別に、ウチらが止める筋合いでもないわ」


「息子は──イカロスは、無事か」


 壁越しに見た姿だけでは、足りなかった。

 私の声に、息子の声で答えてほしかった。


 莉奈が横へ退いた。


 イカロスが目の前にいた。


 腰を浮かせ息子へ近づこうとした。

 膝に力が入らず床へ両手をついた。

 息子の足が、目の前にあった。


「イカロス」


 返事を待てずに、もう一度呼んだ。


 工房で返事を待った時と同じ名だった。

 口にするたび、目の前の息子が私を見た。


 息子は私を見下ろしていた。


 別れた時から変わらない顔だった。私は自分の頬に触れた。深く刻まれた皺(しわ)へ……。


 涙が流れた。


「父さん──何があったんだ。なぜ、こんなに」


「お前を探していた」


 私は一度息をつき、続きを話した。


「お前が落ちた時、迷宮の力で受け止めようとした。だが失敗した。お前は遠い未来へ飛ばされ、私も──王に追放された。ここへ」


 息子が、どれくらいの時間かと尋ねた。


「分からない。この窓の外の景色が変わっていくのを、ずっと見ていた。太陽が何千回昇って沈んだか、数えるのをやめた」


 窓へ目を向けた。


 今夜も灯りがある。誰かを待つことと結びつけずに、その灯りを見ることができなかった。


 イカロスが膝をつき、私を抱きしめた。


 肩に体温があった。


 背中へ回そうとした手が、途中で止まった。指先に衣の柔らかさが触れた。私は布の上から、ゆっくり掌を添えた。


 息子の肩が、呼吸のたびに少し動いた。


 私はその動きを確かめ、背へ腕を回した。壁ではなかった。手の先へ、息子がいた。


 私は握りしめかけた手を、少し緩めた。

 イカロスは助けてもらったと言った。

 息子の向こうにいる七人を指した。


 私はその手の先を見た。


 袖を押さえる者がいた。武器を手放さない者がいた。

 今ここに全員が立っていることを、当たり前に思ってはいけなかった。


 私は少年のことを尋ねた。

 鎖が落ちるところは見ていた。

 それでも、その場にいた者たちの口から聞きたかった。


「倒さなかった。あの子は敵じゃない」


 私は壁画に残した言葉を指した。

 息子を助けてくれ。二人とも。

 面と向かっては言えなかったことを、壁に書いていた。


 だが、まだ迷宮から帰れてはいなかった。

 イカロスの脱出も、少年を生かしたまま接続を切ることも、私一人ではできない。


 声にして頼む時には、図面も、迷宮の仕組みも、間には置けなかった。


「息子を助けてください」


 七人が私を見る。


 次の説明がのど元まで上がってきた。私は飲み込み、一人ずつ顔を見た。

 膝の上で組んだ指をほどいた。

 急かす言葉を、私は言わなかった。

 私はその返事を待った。


 脱出の手順を説明するため、私は床へ設計図を描いた。


 接続点は七箇所。


 全てを同時に切らなければ、迷宮は自己修復する。

 私は場所と手順を伝え、七人がそれぞれの持ち場へ向かった。

 最後に走る時、イカロスが私を支えた。


 足がもつれ、転びかけた。


 息子の腕へ体重を預けると、踏みとどまれた。

 私は今度こそ、その手を離さずに地上へ出た。


 私とイカロスは、政府の保護施設へ迎えられた。


 部屋の扉を開けると、廊下へ出た。


 もう一歩、歩いた。振り向いても、同じ窓の前へは戻らなかった。


 イカロスが先の角から私を呼んだ。


 私は返事をして息子のところへ歩いた。


 新しい暮らしには、分からないことが多かった。

 照明の消し方、食べ物の包みの開け方、文字の書き順。

 教わればできることも、一度聞いただけではできないこともあった。


 息子は先に覚えたことを、得意そうに教えた。


 週に一度、莉奈たちが面会に来た。


 イカロスは持ってきてもらったおにぎりを頬張り、ツナマヨという言葉を覚えた。


 私は机の端で、包みを開き損ねた。海苔が少し破れた。


 健一が隣から手を伸ばしかけ、私の指が動くのを待った。私は残ったところをほどき、ようやく一口食べた。


 息子が笑った。


 私は破れた海苔を気にするのをやめた。


 その夜、息子が海苔を見て笑ったことを、紙へ書き留めた。

 昔、工房で交わした言葉は、まだ戻らなかった。


 壁に貼ってもらった紙へ、クレヨンで絵を描いた。

 少年の角、牛の頭、赤い目。今度は鎖が外れた後の姿を描いた。

 困惑だけではない目を、何度か描き直した。


 イカロスが隣で見ていた。


「そこ、もう少し上を見てた」


 息子が指すところへ、私は線を足した。

 自分だけが見た姿ではなかった。見ていた別の者に、尋ねることができた。


 あの空白の一枚は、まだ描けなかった。

 それでも、描いた絵を見せる相手が、今は隣にいた。


 健一にスマホの使い方を教わった。


 七人の連絡先が並んでいた。


 名前を選べば、その相手へ声を届けられる。壁へ触れる必要も、迷宮を繋ぐ必要もない。


 文字の送り方も教わった。


 私は短い文を打ち、消して、もう一度打った。健一は急かさなかった。

面会が終わった後にも、名前は画面に残った。


 私は息子へ見せた。


 イカロスは、今度は自分にも教えろと言った。


 そうして、一ヶ月ほどが過ぎた。


 ミノス王が来た。

 保護施設に魔力の身体で現れた。


 私が立ち上がるより先に、王はイカロスの名を口にした。

 東京駅の地下へ新たな迷宮を造れ。

 拒めば、息子を殺す。


 私は隣の部屋へ目を向けた。


 イカロスはその時、王の前にはいなかった。


 だからこそ、どこへ手が伸びるのか分からなかった。王が去っても、私は隣の扉を見ていた。


 息子を呼びたい。


 だが呼んで、何を話す。やっと出られたのに、また逃げるのか。


 私はスマホを手に取った。

 七人の名前があった。

 健一を選び、文字を打とうとした。


 『助けてくれ』


 その文の先に、金子の肩が浮かんだ。

 莉奈の武器を持つ手、傷のある顔。


 私が呼べば、また危険な場所へ来る。


 何を頼めばいいか、どこまで言えばいいか。

 先に決めようとするほど、指が動かなくなった。


 私は画面を閉じた。


 七人の誰にも、言えなかった。


 東京駅の地下へ降りた。

 壁へ手を当て、空間を繋いだ。


 王が求める迷宮の形が、頭の中で広がっていく。


 通路が地下へ定着し始めると、胸の奥が冷えた。


 七人の顔が浮かんだ。


 私を信じてくれた七人。

 大阪の怒った目も、金子が肩を庇っていた姿も、消えなかった。


 途中で、手を止めた。


 ここまで造れば、また誰かが閉じ込められる。完成させれば、私は同じことをする。


 私は図面の続きの線を引かなかった。


 掌を離してから、保護施設の部屋を思い浮かべた。


 息子が照明の消し方を教えてくれた。指した場所も、手順も分かる。その時に何と言ってくれたのかが、出てこなくなっていた。


 描きかけで手を止めても、既に生じさせた通路の代償は戻らなかった。

造った通路は残っていた。


 繋がった空間が、未設計の先へ食い込んだ。通路の位置が揺れ、人のいる場所へ広がっていく。私は変化を抑えようとした。


 止まらなかった。


 構造が動く直前に、三分ほどの間隔で不安定と安定を繰り返す区間が残っていた。いつものように、逃げるための余白を無意識に残していた。


 それで全てが収まるはずはなかった。


 壁画を描いた。

 鎖を閉じた手も、翼も、裂け目も省かなかった。

 最後に、七人の姿を描いた。


 ここまで来た者がいた。

 私が死んでも、そのことは残したかった。


 小保内の輪郭は、一度濃く引くと、彼女の姿から離れた。私は線を薄くし、何度も描き直した。

 名前も書いた。

 描く時間があった。


 その前に、名前を選んで連絡する時間も、あった。


 私は手を止めた。


 壁へ、言葉を残した。


「この子たちを巻き込んだことだけは、どうか許してほしい」


 書き終えても、通路の揺れは止まらない。


 謝る言葉を残すことと、今、人を助けることは、同じではなかった。


 私は迷宮の通信を開き、健一の画面へ言葉を送った。


 王が来たこと。

 イカロスの命を条件に、迷宮を造れと命じられたこと。

 断れずに造り、途中で止めたこと。

 不完全な迷宮が広がり、一般人を巻き込んでいること。

 私には、もう止められないこと。


 今度は、解法があると言えなかった。


「助けてくれ」


 最後に、


 その言葉を送った。


 返事を待つ間も、


 足元は揺れていた。


 私はまた迷宮を造った。


 あの子たちへ相談しなかったことも、


 これから話さなければならない。


 何を言われるか、


 分からなかった。


 それでも、


 送った言葉を消さず、


 私は壁へ手をついた。


外伝 第四章 迷宮設計者の告白 了

イカロス「父さん、あとがきだって」

ダイダロス「ああ。最後まで読んでくださって、ありがとう」

イカロス「……それで終わり?」

ダイダロス「まだ、言葉を探してる」

イカロス「じゃあ、先に言っていい?」

ダイダロス「もちろんだ」

イカロス「読んでくれて、ありがとう。父さんの話、長かったでしょ」

ダイダロス「六話だ」

イカロス「数じゃなくて」

ダイダロス「……そうだな」

イカロス「今も、いろいろ考えてる?」

ダイダロス「ああ。だが、お前が話している時は、聞いていたい」

イカロス「じゃあ、あとで話そう。さっき、聞きたいことがあったんだ」

ダイダロス「ああ。聞こう」

イカロス「それはまた別に機会に。その前に、もう一回。ここまで読んでくれて、ありがとう!」

ダイダロス「本当に、長い話に付き合ってくださって、ありがとうございました」


──────────


『迷宮設計者の告白』を最後まで読んでくださり、ありがとうございます。

 本編では壁の向こうにいた男の時間を、彼自身の言葉で辿った六話でした。 案内放送の声や、迷宮に残された絵を、これまでと少し違う側から見ていただけたら嬉しいです。

 彼のしてきたことも、その言葉も、ここまで見届けてくださってありがとうございました。


 次は『僕の隣に雷が落ちた日』

 視点は健一へ移ります。

 莉奈の隣にいた彼が、あの時、何を見ていたのか。

 もう一人の側から、物語を辿ります。


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