外伝 第23話 窓の向こう
息子を探す私を、王が捕らえた。
工房へ戻ることはできなかった。息子が残した絵も、そのまま置いてきた。
王は、私が開いたものと同じような裂け目の向こうへ、私を追放した。
イカロスのいる場所へ行けるのかもしれない。
光の中で考えたのは、それだけだった。
目を開けると、窓のある部屋にいた。
見知らぬ景色だった。息子の姿はない。
私は扉を開けた。
一歩踏み出し、顔を上げると、同じ窓が見えた。振り返れば扉がある。もう一度通った。足を速め、今度は走った。
同じ部屋へ戻った。
壁へ手をつく。石の厚さ、向こう側へ伸びる空間、私の迷宮へ繋がる気配。触れれば分かることは幾つもあった。だが、ここから外へ出る道は、見つからなかった。
扉の仕組みが分からないのだと思った。だから測った。床に印をつけ、歩幅を変え、開ける角度を変えた。
窓から光が消えても、測り続けた。
一晩が明けてから、息子の名を呼んだ。
答えがないことは、もう分かっていた。
眠ると、二つの顔が現れた。
空で振り向いたイカロス。
鎖をかけた時の少年の赤い目。
どちらへ手を伸ばしても、届く前に目が覚めた。
壁へ絵を描くようになった。
息子の翼を描いた。
羽根の重なりなら、目を閉じても思い出せる。鎖の留め具も、中央の部屋も、線にできた。
だが、海へ裂け目を開き、イカロスが消えた、その次を描こうとすると、手が止まった。
受け止めるつもりだった。
失敗した。
その後の自分を、私は描けなかった。線を引いても手で覆い、何度も同じ白い場所を作った。
絵を見てくれる者は、部屋にはいなかった。
年月が過ぎた。
太陽の昇る回数を数え、やがて数を見失った。髪に白いものが混じり、頬へ触れる指が痩せた。
外では、見たことのない灯りが増えた。光の列が闇を走り、知らない高さまで建物が伸びる。
何が何年かけて変わったのか、私には測れなかった。扉の内側でつけた印だけが増えた。
声が届くことがあった。
迷宮へ繋がる壁を通して、短い言葉や足音が聞こえる。私は同じ音を探し、壁へ書きつけた。繰り返される言葉と、その時に見えるものを並べた。
遠くに暮らす人々は、私を呼んではいなかった。
それでも、声を聞く時だけは、扉のことを考えずに済んだ。
やがて、窓の外の街が東京と呼ばれていると知った。
迷宮も、変わっていた。
クレタ島の地下に造った空間が、時空の裂け目を通じ、別の地下へ繋がっている。複雑に重なった通路へ、途切れなく人が流れ込む。
疲れ、苛立ち、期待。待ち合わせに急ぐ人も、誰かを待つ人もいた。膨大な《《感情》》が地下に重なる場所へ、異次元の迷宮が同期していた。
新宿駅。
その名を覚えた。
私の部屋も、街の高い建物の一角へ繋がった。都庁、四十八階。窓の向こうには街があるのに、扉を通れば、やはり部屋へ戻った。
私は壁へ両手をついた。
中央の部屋が分かった。
五本の鎖。その先に、牛の頭をした少年がいた。
生きていた。
大きくなった身体を繋ぐ鎖の位置を、私は覚えていた。私が測り、私が印をつけた場所だ。
息子を探していた年月の間も、少年はそこにいた。
声や絵なら、離れた迷宮へ送れた。
だが、私は部屋から出られない。少年の留め具には触れられず、手を伸ばしても、掌に壁の硬さが返るだけだった。
外から入る者が要る。
その者が道を解き、少年の前へ辿り着き、鎖を外す。
私は壁へ図面を引いた。
誰へ頼むかを考えるより先に、何ができる者を集めるか、考えていた。
都庁には、この部屋まで上がってくる道を造った。内側から扉を出れば戻されても、外から辿り着く者へ道を残すことはできた。私は部屋の前から線を伸ばし、途中へ関門を描き込んだ。
道の終わりへ、自分の部屋を小さな四角で描いた。
そこへ人が来るところまでは図面にできた。
渋谷。
梅田。
名古屋。
千仏。
赤崎。
新宿の本迷宮へ辿り着く者を選ぶため、五つのトライアルを設計した。
都市の地下には十四人。
自然の洞窟には、その地形を通れる二人。
十四という数を書いた時、古代の転送先へ駆け込んだ足の感覚が戻ってきた。
私は緊急退避の機構を組み込んだ。
HP(Health Point)が尽きれば、外へ送り出す。
意識と迷宮内の記憶を失う代わりに、生きて戻れる。
古代に十四人の呼吸を確かめた、その仕掛けだった。
今度は、迷宮の外へ確かめには行けない。
私は作動条件を何度も確かめた。
図面の誤りはなかった。
それを、安全だと呼んだ。
スキルは、一人で完結させなかった。
渋谷には火力と分析。
梅田には、注意を集める者、見抜く者、すり替える者。
名古屋には、異なる三つの測り方を置いた。
図面の上で、一人が止まる場所へ、もう一人の線を重ねた。
自然の洞窟では、
見つけることと道を開けること、
声を受け取ることと返すことを組み合わせた。
一つの能力で全てを済ませられたら、他人に尋ねる必要がない。
少年の鎖を外す者には、誰かの言葉を聞いてほしかった。
私は一人きりの部屋で、その設計を続けた。
それぞれ最下層には本体の十分の一の能力になるミノタウロスの劣化コピーを生成した。都庁へ上がる道にも、その姿をした関門を置いた。
配置を決め、鎖の位置を描く。
少年の姿を写したものへ、また拘束の線を引いた。
胃の底が冷えた。
これで新宿へ来る者を選べる。あの少年を助けられる。
形にしなければ誰も新宿へ来ない。私はそう言い聞かせ、計画の線を消さなかった。
案内放送の声も、自分で録った。
聞き取れるよう、迷宮の力で音を整える。
渋谷で届く声、梅田で届く声。何度も聞いた土地の言葉へ寄せた。
梅田の音を確かめると、語尾が不自然に跳ねた。録り直し、最後だけ声を緩めた。
注意を促す言葉が妙に近く聞こえた。
その先で何が起こるか、私は知っている。
危険を配置したのも私だ。
私は録音を止め、しばらく黙っていた。
やがて、続きを録った。
図面を、現実の場所へ重ねた。
石を積むのとは違う。
新しく設計した通路を、その土地で動き続ける迷宮として生じさせる。都庁の関門を造った時も、五つの地下迷宮を一つずつ生じさせた時も、胸の奥が空になる感覚があった。
魔力だけでは足りなかった。
今の言葉でいうEP(Emotion Point)、感情の蓄えまで消費していた。
休めば、息子に会いたい気持ちは戻った。
だが、工房で二人で笑った時のことを辿ると、その先が出てこなかった。
翼の絵を見ていた。
息子が何か言った。
私は笑った。
何と言われたのか。
口元は浮かぶのに、言葉がない。
次の迷宮を生じさせた後には、別の日の食卓で交わした言葉も、思い出せなくなった。
顔も名も分かる。
息子を探す理由も変わっていない。
何でもないやり取りが、ところどころ抜け落ちていた。
図面を確かめ、眠り直しても、欠けた言葉は戻らなかった。
次の迷宮へ力を流す前に、私は壁へ覚えている場面を描き足した。
二枚の紙に広がった翼。
隣へ椅子を寄せた息子。
少年の手首へ、自分が輪をはめるところも描いた。
その手は覚えていた。
部屋の壁に残した線を、繋がる迷宮の壁へも写した。通る者への手掛かりに、忘れたくない二人の姿が重なった。
絵を見れば、何があったかは分かる。だが、描けなかった言葉は、線を辿っても戻らない。
それでも、残っているうちに描いた。遠くの誰かが見つけるかもしれなかった。
描き終えた壁にしばらく額をつけた。
次に何が抜け落ちるのかは分からなかった。私は顔を上げ、次の土地へ力を流した。
試練が始まった。
迷宮越しに、金髪の少女が見えた。神崎莉奈。鉄パイプを握る手が震えていた。それでも、幼馴染の前へ出ていた。
私は図面へ目を落とした。
二人のスキルを合わせれば、次の区画も通れる。
顔を上げると、少女が傷を押さえていた。
通れるという設計線の上を、人が歩き進んでいる。
私が壁へ手をついても、その傷へ触れることはできなかった。
だが、緊急退避機構がある。
私は何度もそう考えた。
しかし、使わずに済んでほしいと願うたび、痛みが消えるまでに必要な時間を、図面に入れていなかったことを思い知った。
四人が地上へ戻った時、私は壁から手を離した。
他の試練でも、私の組んだ手順どおりに進まない者たちがいた。言い争い、待ち、引き返し、別の手を探した。
名古屋の壁の数字が減るのを、私は見ていた。
柳と呼ばれた男が、瓦礫から右手だけを突き出した姿も。親指を立てた形だった。私は緊急退避機構の作動を確かめ、図面の人数を書き直した。
私は、その先を見ようとした。
出口を通った人々を、部屋から追いかけることはできなかった。
壁へ、言葉を残した。
息子を助けてくれ。二人とも。
イカロスの居場所は、まだ分からなかった。
少年の鎖にも、手が届かなかった。
私は返事のない部屋で、その文字を何度もなぞった。
七人を新宿へ呼ぶ前、中央の部屋に、もう一つ人影が見えた。
牛の頭をした少年のそばにいた茶色い巻き毛。
私は壁へ顔を寄せた。
向こうで声がした。
工房で最後に聞いた時と同じ、少し声が低くなった息子の声だった。
イカロス。
裂け目へ消えた日の、十七歳の姿をしていた。
名を呼んでも、こちらへは振り向かない。
私は扉へ走った。
踏み出した足は、また窓の前へ戻った。
壁に描いた翼が、目の前にあった。
牛の頭をした少年と、そのそばに座る息子を、交互に見た。
私は同じ文字をなぞった。
新宿へ人を呼び入れる日、私は図面の接続点を指で押さえた。
七箇所。
全て同時に切らなければ、迷宮は自分を繋ぎ直す。少年を倒さずに閉じるには、それぞれの場所へ一人ずつ立たせる必要があった。
渋谷の四人と、梅田の三人。
私は彼らが試練で辿った道を思い出し、新宿の図面へ重ねた。
互いに呼びかけ、足を止め、別の手を探していた七人だった。
莉奈、健一、山岸、小保内。金子、大阪、和田。
図面へ名を書き入れると、七つの場所が埋まった。
私は招集をかけた。行くかどうかは、誰にも尋ねなかった。
事前に録った声が、新宿の迷宮へ流れた。
『注意事項を告げる。本迷宮は試験ではない。本番である。──生存を、祈る』
七人の足音が深い層まで近づいた時、私は壁へ口を寄せた。
録音ではなく、その時の声が出た。
「──お願いです。息子を、助けてください」
中央の部屋から引いた道を、私は指で辿った。
昔、自分だけで歩いて確かめた道だった。
全ての理不尽には、解法を仕込んだ。
そう思えば、造り続けられた。
誰かが解けることと、
そこへ人を閉じ込めていいことの間に、
どんな線を引けばよいのか……。
私はまだ、
図面の中に答えを探していた。




