外伝 第22話 蝋の翼
逃げなければならなかった。
十四人が生きて出たと知った王が、仕掛けまで辿り着くのは時間の問題だった。隠し扉の位置や、送り出す条件まで知られれば、図面を取り上げられるだけでは済まない。イカロスも、私の息子だという理由で捕らえられるだろう。
港へ出ると、船には王の監視がついていた。荷を積む手が止まり、船乗りが兵へ行き先を告げている。私は声をかけずに引き返した。
工房の窓を開ける。海の上を、鳥が渡っていた。
翼を造ると伝えた時、イカロスは私の顔を見たまま黙った。
「作り方なら、ずっと考えていた」
私が言うと、息子は棚から古い絵を取り出した。紙の端に、もう一枚が重なっている。
「これ、覚えてる?」
「覚えている」
息子は絵を置き、私の隣へ椅子を寄せた。
「俺も作る」
声変わりは、いつの間にか終わっていた。十七歳になった息子の腕は、私が渡した骨組みを軽々と支えた。
私はその腕に合わせ、留め紐の位置を直した。
鳥の羽根を集め、長さを揃える。骨組みに一本ずつ重ね、蝋で固定する。
二対。
同じ形に見えても、重さも、身体を支える箇所も違う。私の翼をイカロスへつければ、肩の動きを妨げる。私は何度も測り直した。
イカロスは羽根を選んだ。欠けたものを脇へ寄せ、左右で釣り合うように並べる。
「ここ、まだ浮く」
息子が留めた羽根を私に見せた。私は蝋を足そうとして、手を止めた。
作業台の端で温まった蝋が、指へまとわりついた。
熱に弱い。それは、最初から分かっていた。
「高く飛びすぎるな。太陽の熱で蝋が溶ける」
「分かってる。海に近すぎても、羽根が濡れるんだろ」
「私から離れるな」
「うん」
返事を聞いてから、私は羽根を留め直した。
別の留め方を考えれば、もっと時間が要る。工房へ使者が来る前に、島を出なければならない。
私は、息子が言いつけを守ることを、図面の条件へ入れた。
低い場所で風を受け、身体を浮かせる練習をした。
足が地面から離れた途端、イカロスは笑った。降りろと声をかけると、すぐには降りず、もう一度翼を広げた。
「今の、見た?」
「見た。次は、合図をしたら戻れ」
「もう一回だけ」
私は息子の肩を押さえた。
羽根の間から、海が見えた。息子はその先を見ている。
「これは、遊びではない」
「分かってるよ」
返事の声が、少し硬くなった。
翼を畳むのを手伝うと、イカロスは黙って紐をほどいた。私が結び目を点検している間に、さっき浮いた場所をもう一度振り返った。
私はそれを見ていた。
息子が空を飛びたがっていることなど、初めて絵を見た日から知っていた。それでも、言葉で念を押せば足りることにした。
工房へ戻り、図面を巻いた。
逃げるために持ち出す荷は少ないほうがいい。迷宮の図面を一度手に取り、棚へ戻した。
少年を迷宮から連れ出す支度は、どこにもなかった。
出発の日、崖の上には強い風が吹いていた。
翼を広げると、羽根が一斉に鳴った。下から押し上げる力を受け、足裏の重さが薄くなる。
イカロスの留め紐へ指を入れた。緩みはない。息子が身じろぎしたので、私は肩を押さえた。
「痛い?」
「いや」
私の手のことを聞いたらしかった。指が白くなるほど、紐を握っていた。
私は力を緩めた。
「先に行く。ついてこい」
息子は頷いた。
私は崖を離れた。
風が翼をつかんだ。
身体が浮き、足の下から岩が遠ざかる。私は姿勢を整え、後ろを見た。
イカロスも飛んでいた。
「父さん! 空が近い!」
声が、海の上へ広がった。
息子は笑っていた。茶色い巻き毛が風に持ち上がり、両脚が宙で揺れている。足場を探す動きではなかった。
もう地面は要らないとでもいうように、翼へ身体を預けていた。
私は一瞬、息子と同じように笑いかけた。
イカロスが翼の角度を変えた。
身体が上がった。
「高く飛ぶな。私の後ろへ」
「分かってる! もうちょっとだけ!」
息子は螺旋を描いて上昇した。身体が軽い分、私より速く風をつかんだ。
私は追った。
「イカロス! 戻れ!」
呼ぶたび、息子は顔だけをこちらへ向けた。
聞こえている。
私が呼んでいることも、戻れと言っていることも、分かっている。
それでも、翼は上へ向いていた。
初めて工房で絵を広げた時も、紙が足りなくなっても、あの子は翼を短くしなかった。
私はその手を、あの日から見ていた。
蝋が溶け始めたのは、私が手を伸ばした時だった。
羽根が一枚、息子の肩の後ろから浮いた。
次の一枚が剥がれ、白い雫が空中へ散る。
「父さん──」
イカロスが振り向いた。
驚いた顔だった。さっきまで飛んでいた喜びが、まだ口元に残っていた。
私は全力で腕を伸ばした。
指先が触れた。
息子の指が曲がった。私も握ろうとした。
重ならなかった。
イカロスが落ちていく。
散った羽根より速く、息子の身体が海へ近づく。
私は迷宮の力を海面へ伸ばした。通路を繋ぐ時のように、落ちていく先へ、身体を受け止める場所を造ろうとした。
光が開いた。
イカロスの下で裂け目が生まれ、身体がその向こうへ消えた。
私は息子の名を叫んだ。
返事はなかった。
羽根だけが海へ落ちた。
岸へ戻ったことは、途切れ途切れにしか覚えていない。
濡れた石に手をつき、海の色が変わるまで名前を呼んだ。
裂け目の先を探ろうとしても、息子のいる場所へは繋がらなかった。
遺体はなかった。
だから、生きているのかもしれない。
そう思った直後に、掴めなかった指が目の前へ戻ってきた。
翼は、私が造った。
熱に弱いことも知っていた。息子が合図の後も飛びたがることも、この目で見ていた。それでも、飛ばした。
蝋の翼で息子を殺した。
その言葉を振り払おうとするたび、
海面には息子の姿がなく、
答えだけが出なかった。
私は二人の少年を失った。
一人は、私が閉じた鎖の向こうにいる。
もう一人は、私が開いた裂け目の向こうにいる。
どちらへも届かない手を、
私は海へ伸ばし続けた。




